第104話 消えた大隊と、将軍の恐るべき勘違い
ガレリア帝国、北部方面軍・司令部。
分厚い毛皮のコートを羽織った歴戦の猛将、ガリウス将軍は、斥候からの報告書を険しい顔で睨みつけていた。
「一個大隊、500名の歩兵が丸ごと消滅しただと?」
「は、はい……。国境沿いの最前線基地が、もぬけの殻となっております。争った形跡や血痕は一切なく、ただ武器と防具が雪の中に放棄されていました」
斥候の震える声に、司令部の将校たちは息を呑んだ。
世界最大の軍事国家である帝国軍が、戦いもせずに逃亡するなどあり得ない。ましてや極寒の雪山で防具を捨てるのは、自殺行為に等しいのだ。
「馬鹿な。洗脳魔法か? あるいは、新種の毒ガスでも撒かれたか……」
ガリウスは冷徹な軍人であった。
前線の飢えや寒さは把握していたが、帝国兵の精神力ならば耐え忍べるはずだと信じていた。彼らが「理不尽な生活水準(QOL)の差」に絶望し、真顔で国を捨てたなど想像すらできるはずがない。
「将軍閣下。現場の焚き火の跡に残されていた『鉄鍋』を持ち帰りました。中には、凍りついたスープの食べ残しのようなものが……」
斥候が、煤けた黒い鉄鍋をテーブルの上に置いた。
「……微かに、異様な匂いがするな。火にかけろ」
ガリウスの命令で、鍋の下に魔導ランプの火が当てられる。
凍りついていた雪水がゆっくりと溶け始めた、その瞬間だった。
フワッ……。
「…………ッッ!?」
ガリウスの脳髄を、雷のような衝撃が貫いた。
ただの雪水と塩しか支給されていないはずの鍋から、牛肉と玉ねぎ、そして数多の香辛料を何日も煮込んだような、暴力的で複雑な香りが立ち昇ったのだ。
――ギュルルルルッ。
将軍の意思とは無関係に、胃袋が強烈に収縮し、口内に大量の唾液が分泌される。
「閣下!? いかがなされました!」
「離れろ! 息を吸うな!!」
ガリウスは咄嗟に鍋から飛びのき、マントで口元を覆った。
歴戦の猛将の額に、冷たい汗が伝う。
(なんだ、この恐ろしいスープは……! 匂いを嗅いだだけで、肉体が本能的に『飢え』を錯覚させられた。こんな高度な精神干渉魔法、見たことがないぞ……!)
真空凍結乾燥で抽出された極限の旨味。
それを知らないガリウスは、この異常な旨味の匂いを「兵士の理性を破壊し、動物的な本能を暴走させる恐るべき生物兵器」だと完全に勘違いしていた。
「……なるほど。読めたぞ。エデン領主は、追放された公爵家の三男坊だというが、とんでもない悪魔の兵器を開発したらしい」
ガリウスは真剣な顔で推し量る。
「この『飢餓を誘発する毒薬』を空から撒かれれば、帝国兵は忠誠心を失い、獣のように飢えて発狂し、敵陣へと誘い込まれてしまうのだ。あの500名の大隊は、この毒に脳を破壊され、暑さも寒さも忘れて防具を脱ぎ捨てさせられたに違いない」
司令部の空気が凍りついた。
恐るべきエデンの非人道兵器。このまま放置すれば、帝国の防衛線は内側から瓦解してしまう。
「これより、北部方面軍は『対・生物兵器戦闘』へと移行する! 私の直属の精鋭騎兵300を出せ! 全員に防毒マスクを着用させ、国境の防衛陣地を粉砕する!!」
「「「はっ!!」」」
将軍の号令により、精鋭部隊の出陣が決定した。
彼らは「恐るべき毒ガス(旨味)」から身を守るため、視界も悪く息苦しい防毒マスクと、重厚な甲冑で全身を覆い、吹雪の国境へと重苦しい行軍を開始したのである。
***
同じ頃。エデンの商業ギルド本部。
「ひぇっへっへ! 素晴らしい! 実務官キース殿、工場の稼働率は最高潮ですぞ!」
ギルド長のドン・カルロは、山積みになった金貨と注文書を前に、醜悪な笑みを浮かべていた。
「ええ。帝国からの亡命者500名が『これで家族を救える』と文字通り死に物狂いで働いてくれていますからね。おかげでコンソメやインスタント食品の生産ラインが24時間フル稼働です」
「彼らの初任給を使い、我々の裏ルートで、帝都にいる彼らの家族へ『エデンの白米と悪魔の粉、そしてお湯を注ぐだけのカップ麺』を仕送りする計画も順調です! 帝国兵の家族は腹を満たし、我々は手数料で儲かる! 完璧な商売ですな!」
二人の悪徳商人(?)は、高らかにグラスを合わせた。
「アルリック様は『ホームシックで夜泣きされると安眠のノイズになるから、食料でも送って黙らせろ』と仰っていましたが……結果的に、帝国の民間人から『エデンの食糧支援』への圧倒的な支持を獲得しつつあります」
「このままいけば、帝国軍が動く前に、民の胃袋が完全にエデンに支配されますな」
国境へ向けて、決死の覚悟で「防毒マスク」を着けて進軍するガリウス将軍の重騎兵部隊。
その裏で、エデンの「美味い保存食の仕送り」という名の真の兵器は、一滴の血も流すことなく、帝国の根幹を静かに、そして確実に溶かし始めていた。




