第10話 魔導サスペンションと無振動の旅
王都への出発当日。
公爵家の正面玄関には、最高級の素材で作られた箱馬車が待機していた。
黒塗りのボディに、金箔で描かれたクロムウェル家の紋章。
四頭の白馬が繋がれ、御者が手綱を握って主の到着を待っている。
それは間違いなく、この国で最も格式高い乗り物の一つだ。
だが、五歳のアルリックは、その馬車を見上げて絶望していた。
「……拷問器具だ」
彼は真顔で呟いた。
見た目は豪華だが、構造は原始的だ。
車輪は木の枠に鉄の輪を嵌めただけのもの。地面の凹凸をダイレクトに拾い、乗っている者の尻と腰を容赦なく破壊する。
サスペンション(懸架装置)など存在せず、申し訳程度の革ベルトで客室が吊るされているだけだ。
(こんなものに三日も揺られたら、王都に着く頃には僕の身体はバラバラになっている。……断じて否だ)
アルリックは腕組みをし、馬車に近づいた。
見送りに来ていた使用人たちがざわめく。
「アルリック様? どうなさいました?」
父のエドワード公爵も、旅装束で現れた。
「アルリック。早く乗らないか。予定より遅れているぞ」
「待ってください、父上。……このままでは、僕のお尻が死んでしまいます」
アルリックは馬車の車輪を指差した。
「今から、この馬車を『快適仕様』に書き換えます。……十分もかかりません」
「なっ……?」
公爵が止める間もなく、アルリックは車輪の前にしゃがみ込んだ。
(解像度を上げろ。……問題なのは『振動』と『摩擦』だ)
彼の瞳が青く輝く。
現代の自動車工学における、乗り心地の要。それを魔法で再現する。
(まずはタイヤだ。……鉄の輪なんて論外。空気を固めた『見えないゴム』で車輪を覆う)
アルリックは風属性の魔力を圧縮し、車輪の周囲に分厚い空気の層を形成した。
これで路面の小石や段差の衝撃は吸収される。
(次に、サスペンション。……革ベルトでは吸収しきれない縦揺れを、磁力と風圧で相殺する)
客室の床下四隅に、反発し合う魔力回路を設置。
客室自体を、物理的に浮かせるのではなく、魔力の磁場で空中に固定する『磁気浮上式ダンパー』の完成だ。
これにより、車台がどれほど激しく揺れても、客室は水平を保ち続ける。
(仕上げに、客室内の空調と、座席のクッション改良だ)
座席の中綿を、先日開発した『天使の羽毛(高反発ウレタン風)』に入れ替え、室温を常に二四度に保つ結界を張る。
「……よし。完成」
作業時間はわずか三分。
見た目は変わっていないが、その馬車は中身だけが『高級リムジン』へと進化していた。
「さあ、父上、母上、姉上。どうぞ」
アルリックが扉を開けて促す。
半信半疑の家族たちが乗り込み、御者が鞭を振るった。
――ヒヒン!
馬がいななき、馬車が動き出す。
石畳の道を、鉄の車輪が転がっていく……はずだった。
「…………あれ?」
車内は静寂に包まれていた。
ガタガタという振動も、ゴトゴトという騒音もない。
まるで氷の上を滑っているかのように、あるいは雲の上を飛んでいるかのように、馬車は音もなく滑らかに進んでいく。
「ど、どうなっているの!? 動いているのに、揺れないわ!」
姉のセシリアが窓の外を見て叫んだ。景色は流れているのに、手元のティーカップの水面は鏡のように静止している。
「……信じられん。石畳の凹凸を、完全に無効化しているのか?」
父のエドワードは、座席の背もたれに深く体を預けた。
いつもなら腰にくる衝撃が一切ない。それどころか、魔法のクッションが体圧を分散し、まるで高級ベッドに寝ているような心地よさだ。
「これなら……戦場で負傷兵を運んでも、傷が開くことはあるまい」
またしても軍事転用を考える父を無視し、アルリックは満足げにクッションに沈み込んだ。
「ふあ……。これなら眠れますね」
外の気温は寒いが、車内は春のような暖かさ。
振動ゼロ、騒音ゼロ、完全空調完備。
アルリックは王都までの三日間を、優雅な「移動式スイートルーム」で過ごす権利を勝ち取ったのだ。
***
三日後。
王都の城門に、一台の馬車が到着した。
長旅の後だというのに、降りてきたクロムウェル公爵一家は、誰一人として疲れた顔をしていなかった。
それどころか、肌は艶やかで、服には皺一つない。
出迎えた王宮の衛兵たちは、我が目を疑った。
「ば、馬車で三日かけて来られたはずなのに……なぜ、あの方々はあんなに優雅なのだ?」
「まるで、隣の屋敷から散歩に来たみたいだぞ……」
ざわめく周囲をよそに、アルリックは大きな欠伸を噛み殺した。
(やっと着いたか。……さて、まずは挨拶を済ませて、市場へ行こう)
彼の頭の中には、すでに国王のことなどない。
東方の貿易船。そこにあるはずの「米」と「コーヒー」のことだけで埋め尽くされていた。
だが、彼はまだ知らない。
この「揺れない馬車」の技術が、王国の物流と軍事に革命をもたらすことになり、国王が彼を絶対に手放そうとしなくなる未来を。
神童アルリック。
彼の行く先々で、常識が音を立てて崩れ去っていく。
ついに、王都編の幕開けである。




