第1話 高解像度の魔法
「……なるほど。この世界の魔法は、あまりにも解像度が低すぎる」
それが、公爵家の三男として生を受けたアルリック・フォン・クロムウェルが、三歳になって初めて言語化した感想だった。
彼には、前世の記憶がある。
高度に発達した科学文明。清潔で、論理的で、快適な生活。
その鮮明な『4K画質』の記憶を持つ彼にとって、このハイファンタジーな世界は、まるでひと昔前のドット絵のように粗く、不鮮明なものに見えていた。
肌に触れるシーツは、最高級の麻だというのに、繊維が毛羽立ってチクチクと不快なノイズを走らせる。
部屋の隅には、掃除しきれていない埃と、わずかに酸化した油の匂いがこびりついている。
(不快だ。あまりにも、ノイズが多すぎる)
アルリックは小さな溜息をつき、天蓋付きのベッドから這い出した。
周囲の大人たちは彼を「神童」と呼んで持て囃すが、彼に言わせれば、周囲の人間が「見えていなさすぎる」だけだった。
「アルリック様、おはようございます。さあ、朝のスープですよ」
部屋に入ってきたのは、ふくよかな乳母のノーラだ。
彼女は慈愛に満ちた笑顔で、湯気の立つ銀の器をサイドテーブルに置いた。
アルリックは、その器の中身を覗き込む。
瞬間、彼の眉がわずかに寄った。
そこにあるのは、公爵家の料理人が腕によりをかけた野菜のポタージュ。
だが、アルリックの『解析』の瞳には、まったく別の光景が映し出されていた。
(……野菜の繊維が破壊され、細胞壁が舌触りを悪くしている。肉の灰汁が取りきれておらず、脂質の酸化臭が鼻を突く。何より――水だ)
この世界の水は、魔法で浄化されているという。
だが、その術式はあまりにも大雑把だった。「清くなれ」という曖昧なイメージで濾過された水には、微細な金属イオンや、雑味の原因となる有機物が残留している。
(こんな『低解像度』なものを体に入れるのか? ……冗談じゃない)
アルリックは、差し出されたスプーンを小さな手で制した。
ノーラが怪訝な顔をする前で、彼は静かに、その器へと右手を翳す。
この世界の魔導師たちは、魔法を「神秘」として扱う。
太い筆でキャンバスを塗りつぶすように、莫大な魔力を使って「火よ」「水よ」と叫ぶだけだ。
だが、現代知識を持つアルリックは違う。
彼にとって魔法とは、物理法則を書き換えるための精密な『設計図』だった。
(イメージするのは、単なる『浄化』じゃない。……分子レベルの『選別』だ)
アルリックは脳内で、魔法の解像度を極限まで引き上げる。
視界に映るスープの情報を、ミクロの単位まで拡大する。
水分子(H2O)と、アミノ酸などの旨味成分はそのままに。
舌触りを悪くする繊維カス、臭みの元凶である酸化脂質、そして水の雑味となる重金属だけをターゲットにする。
(対象指定、完了。……除去)
掌から、淡い月光のような青い光が溢れ出した。
それは、通常の魔法のような荒々しい奔流ではない。針の穴を通すような、静謐で緻密な魔力の糸だ。
ノーラが息を呑むなか、器の中で劇的な変化が起こる。
濁った茶色の液体から、不純物が光の粒子となって霧散していく。
分離した脂質は再構築され、香ばしい香りだけを残してスープに溶け込んだ。
数秒後。
そこに残っていたのは、宝石のように透き通った『琥珀色の雫』だった。
「あ、アルリック様……? いま、何を……?」
驚愕に固まるノーラを余所に、アルリックは自らスプーンを口に運んだ。
とろりとした液体が舌の上を滑る。
雑味がない。ノイズがない。
素材が本来持っていた大地の甘みと、純粋な旨味だけが、クリアな和音となって脳髄を揺らす。
「……うん。これなら、僕の体の一部になってもいい」
五歳の子供とは思えない、落ち着き払った声だった。
アルリックは満足げに頷き、スープを飲み干す。体が芯から温まり、指先まで血が巡るのがわかる。
(……ふむ。やっぱり、現代知識は最高の『高画質化プラグイン』だ)
彼は確信した。
この世界の魔法は未熟だ。けれど、その分「伸びしろ」は無限にある。
自分が知っている科学知識と、この万能の魔力を組み合わせれば。
(シーツの繊維構造を書き換えて、シルク以上の肌触りにすることも。空気中の熱エネルギーを制御して、常夏の室温を作ることも、不可能じゃない)
アルリックは、自分の小さな掌をじっと見つめた。
かつての世界で追い求めた、理想の暮らし。
それを、この不便な異世界で、自分の手で作り上げるのだ。
「ノーラ。おかわりを貰えるかな? ……ただし、次も僕が『仕上げ』をするけれど」
これが、後に『解像度の支配者』と呼ばれ、世界中の生活水準を数世紀分進めてしまう神童の、ささやかな朝の目覚めだった。




