覚えていようとする側
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
哲人は、シャッターを切らなかった。
目の前にあるのは、ありふれた商店街。
昼下がりの光、開きっぱなしの店の扉、風に揺れるのぼり旗。
――何もおかしくない。
「……でも」
彼は、ファインダー越しに、もう一度同じ景色を見る。
違和感は、音もなくそこにあった。
「ここ、前より……狭くなってないか?」
独り言のように呟くと、通りすがりの老婦人が怪訝そうにこちらを見た。
「何かありました?」
「あ、いえ……」
哲人は慌てて首を振る。
「なんでもないです」
嘘ではない。
説明できない以上、“なんでもない”としか言えなかった。
だが、彼の中でははっきりしている。
――何かが、削られている。
哲人は、カメラを下ろし、手帳を取り出した。
日付、時刻、場所。
それから、短い一文。
『商店街。以前より距離感が曖昧。理由不明』
それだけを書き留める。
「……映らないなら、書く」
彼は、誰に聞かせるでもなく言った。
カメラは、“あるもの”しか写さない。
だが、言葉は、“あった気がするもの”も残せる。
「哲人」
背後から声がした。
振り返ると、憂が立っている。
人混みの中にいても、不思議とすぐ分かる。
「どう?」
「……分からないことが、分かった」
哲人は苦笑した。
「写真、全然ダメ。
でも、さ」
彼は、胸の辺りを指で叩く。
「ここが、ずっとザワザワしてる」
憂は、少し考えるように視線を落とした。
「それで、いい」
「いいの?」
「うん」
彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「全部分かるようになったら……
多分、間に合わない」
哲人は、ふと彼女の横顔を見る。
「憂は、分かってるんだろ?」
「……分かってることと、思い出してることは、違う」
その答えは、どこか遠回りだった。
だが哲人は、それ以上踏み込まなかった。
「なあ」
彼は、商店街の端を指差す。
「さっきまで、あそこに自販機あった気がするんだけど」
憂は、そちらを見る。
そこには、何もない。
「気のせい、かな」
哲人が言うと、憂は首を横に振った。
「気のせいじゃない」
「……だよな」
二人は、しばらくその場に立っていた。
誰も足を止めない。
誰も気づかない。
「……書いとくか」
哲人は、また手帳を開く。
『自販機があった気がする場所。現在なし。
誰も気にしていない』
ペンを止めたとき、
不思議と胸のざわめきが少しだけ静まった。
「記録すると、落ち着くんだな」
「うん」
憂は、ほっとしたように息をつく。
「それが、“残す”ってこと」
哲人は、空を見上げた。
雲一つない空。
変わらない青。
「……だったらさ」
彼は、決意を込めて言う。
「消える前に、全部は無理でも――
気づいた分だけは、残す」
それが、正しいかどうかは分からない。
だが。
“忘れられる側”ではなく、
“覚えていようとする側”に立つ。
それだけは、選べた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




