焚き火
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
焚き火の音は、不思議と記憶をほどく。
ぱち、と小さく木が弾けるたびに、時間の輪郭が緩み、今がいつなのか分からなくなる。
その夜、火を見ていたのは哲人ではなかった。
ルシアンだった。
彼は少し離れた場所に腰を下ろし、炎を真正面から見つめていた。
近づきすぎず、離れすぎず。
まるで、火そのものに敬意を払うような距離だった。
風は弱く、星舟の影が地面に長く伸びている。
周囲は静かで、誰かが声を上げれば、それだけで壊れてしまいそうだった。
ルシアンは、火を見ながら考えていた。
――これは、いつの焚き火なのだろう、と。
記憶の中には、似た光景がいくつもある。
地球に来てからのものもあれば、それ以前のものもある。
だが、どれも決定的な違いがない。
焚き火は、いつも焚き火だった。
「……あんた、起きてたのか」
背後から、低い声がした。
タケルだ。
「眠れなくてね」
ルシアンはそう答え、火から視線を外さなかった。
タケルは少し迷ったあと、隣に腰を下ろす。
何も言わず、同じように炎を見る。
しばらく、音は火の爆ぜる音だけだった。
「さ」
タケルが、ぽつりと言う。
「哲人がさ。前に言ってたんだ」
ルシアンは、黙って聞いている。
「焚き火を見ると、なんか安心するって」
「……ああ」
「理由は分からないけど、分からないままでいい気がするって」
タケルは、そう言って肩をすくめた。
「変なやつだよな」
「彼らしい」
ルシアンは、ほんの少しだけ笑った。
炎が揺れる。
赤でも橙でもない、境界の色。
「焚き火はね」
ルシアンは、独り言のように言った。
「記憶を呼び起こすものじゃない。記憶を“整える”ものだ」
「整える?」
「思い出せないことを、思い出さなくていい形にする」
タケルは、首を傾げた。
「難しいな」
「そうでもない」
ルシアンは、火に一本、小枝をくべる。
「全部覚えていたら、人は壊れる。だから、忘れる。でも、忘れすぎると、自分が分からなくなる」
火は、枝を静かに受け入れた。
「焚き火は、その中間だ。覚えていなくても、“あった”という感覚だけを残す」
タケルは、しばらく黙っていた。
「……じゃあさ」
やがて、彼は言う。
「俺たちがここにいる理由も、そうやって残るのかな」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
星を見上げる。
星舟の灯りが、微かに反射している。
「残るさ」
静かな声だった。
「形は変わるが、温度は消えない」
タケルは、焚き火に手をかざす。
「温度、か」
「そうだ」
ルシアンは、炎を見つめたまま続ける。
「名前も、出来事も、理由も忘れても……寒いときに、なぜかこの火を思い出す」
「それでいい」
風が少し強まり、火が揺れた。
一瞬、炎が高くなる。
その光の中で、ルシアンは、ふと哲人の背中を思い出していた。
火を見つめる、あの横顔。
何を思い出しているのか、自分でも分からないまま、安心している顔。
(彼は、きっと覚えていない)
だが、それでいい。
焚き火は、答えを残さない。
ただ、温度だけを残す。
それが、夜を越えるために必要な、最低限の記憶だ。
火は、静かに燃え続けていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




