何かが始まる前の気配
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
夜は、あまりにも静かだった。
目的地の街は、地図で見ればどこにでもある地方都市だった。
駅前に小さな商店街があり、住宅地が広がり、
目立つ観光資源も、歴史的遺構もない。
だからこそ――
無貌教団が選んだ理由が、逆に際立っていた。
「……普通ですね」
哲人は、低い声で呟く。
夜の街路灯の下を、数人の住民が足早に通り過ぎていく。
誰もが疲れた顔をしているが、怯えている様子はない。
「“異常が起きていない”ように見えるのが一番危険だ」
隣で、マリアが淡々と答えた。
今回は少人数だった。
哲人、マリア、そして現地協力員として同行するシャーロット。
星舟ノア・レムリアは、遠隔支援に徹している。
「噂の流れは?」
シャーロットが、耳元の通信機に触れながら尋ねる。
「確認できています」
マリアが即座に応じる。
「数日前から、
“ここで願うと救われる”
“何かが始まる前触れを感じた”
そういった話が、断片的に出回っています」
哲人は、胸の奥がざわつくのを感じた。
「具体的な場所は?」
「表向きには、ありません」
マリアは言葉を区切る。
「ですが、必ず“辿り着く人”が出ている」
「……選ばれてる、ってことか」
「ええ。
教団は、もう“信じやすい人”だけを集め始めています」
三人は、商店街の外れへと足を向けた。
そこには、閉店した古いスーパーと、
その裏手に続く細い路地がある。
街灯は少なく、空気がひんやりと冷たい。
「……来てるわね」
シャーロットが、小さく息を吐いた。
路地の奥。
人影が、ひとつ、またひとつと集まっている。
誰かに呼ばれたわけでもない。
声を掛け合うこともない。
ただ、自然に、そこへ向かっている。
「これは……」
哲人は言葉を失った。
集まっている人々の顔に、狂気はない。
むしろ、安堵に近い表情だった。
「“救われる”と思っている顔だ」
マリアが、冷静に分析する。
「恐怖ではなく、
“納得”で人を縛るのが、今回のやり方ですね」
路地の突き当たりに、小さな空き地があった。
そこには、何もない。
――少なくとも、見た目には。
だが、人々は自然と、
空き地の中央を避けるように円を作って立ち止まる。
「……いる」
哲人は、はっきりと感じた。
視えない“何か”が、
そこに“在る”。
「まだ形になっていません」
マリアが囁く。
「けれど、
このまま信仰が積み重なれば――」
言葉の先は、誰もが理解していた。
「止めましょう」
シャーロットが、軽く肩をすくめる。
「幸い、
まだ“舞台装置”は揃ってない」
哲人は、空き地を見つめる。
胸の奥に、嫌な既視感があった。
昔、都市伝説を追っていた頃――
何も起きないはずの場所で、
“何かが始まる前”の気配だけを感じた、あの感覚。
「……僕が行きます」
自然と、言葉が出ていた。
マリアが、哲人を見る。
「役目は、分かっていますね?」
「ええ」
哲人は、一歩、前に出る。
「“何も起こらない”ことを、
ここにいる人たちに、ちゃんと見せる」
それが、今回の作戦だった。
信仰は、実体を得る前が一番脆い。
“起きなかった”という事実は、
どんな反論よりも強い。
哲人は、空き地の中央へと足を踏み入れた。
――何も、起こらない。
風が吹き、
遠くで車の音がするだけだ。
人々の間に、戸惑いが広がる。
「……あれ?」
「何も、ない?」
その囁きが、少しずつ連鎖していく。
マリアは、静かに通信を切った。
「成功です」
シャーロットが、ふっと笑う。
「今回は、ね」
哲人は、胸の奥で小さく息を吐いた。
だが――
この“何も起きなかった”という結果こそが、
無貌教団にとっては、想定外だった。
そして、
想定外は、必ず次の一手を呼ぶ。
夜空には、雲ひとつない月が浮かんでいた。
静かな街で、
確かに何かが、始まりかけていたことを、
知る者は、まだ少ない。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




