名を持たぬ視線
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
吉野ヶ里遺跡を離れた帰り道、車内は不自然なほど静かだった。
エンジン音とタイヤが路面を噛む音だけが、均等なリズムで続いている。誰も口を開かない。その沈黙が、先ほど見た壁画の光よりも、ずっと重く感じられた。
僕は無意識のうちに、憂の横顔を盗み見ていた。
彼女は窓の外を見つめている。流れていく景色を追っているようで、実際には、どこも見ていないような目だった。胸元のレムリアは、今は静かだ。まるで、何事もなかったかのように。
「……さっきの」
声を出したのは、僕だった。
「壁画、どう思う?」
憂は少しだけ間を置いてから、こちらを見た。
「わからない。でも……」
言葉を選ぶ仕草が、どこかぎこちない。
「知っている気がして、怖かった」
その答えは、僕の胸の違和感をはっきりとした形に変えた。
知っているはずがない。
少なくとも、憂自身はそう言い切れるはずだ。
それなのに“知っている気がする”。
レオが、前方を見たまま淡々と口を挟んだ。
「既視感は、記憶だけが原因とは限らない。
構造として刻まれた情報が、感情だけを刺激する場合もある」
「難しいこと言うなぁ」
マックスが頭をかく。
「要するに、思い出せないけど、身体が覚えてるってやつか?」
「近いが、少し違う」
レオは一瞬だけ、ミラー越しに憂を見る。
「彼女の場合、“身体”ですらない可能性がある」
空気が張り詰めた。
僕は反射的に言った。
「それって……どういう――」
「これ以上は、推測の域を出ません」
レオは話を切った。
代わりに、シャーロットが静かに言葉を継ぐ。
「確かなのは一つだけ」
彼女はハンドルを握ったまま、前を見据えている。
「ナイ側も、動いています」
その名前が出た瞬間、背中に冷たいものが走った。
姿を見たことはない。
それでも、“敵”だと直感できる存在。
「今回の反応は、偶然じゃありません」
シャーロットの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
「私たちが彼女と行動していること自体が、向こうへの合図になっている」
僕は息を飲んだ。
「じゃあ……憂が狙われてる?」
シャーロットは、否定も肯定もしなかった。
「“彼女が持っているもの”が、です」
その言い方が、嫌だった。
憂が“もの”として語られた気がして、胸の奥がざわつく。
帰宅後、夕暮れの空は紫色に染まっていた。
風が吹くたび、木々がざわめく。その音が、なぜか遠く感じられる。世界が、薄い膜越しに存在しているみたいだった。
夕食の準備をしながら、憂は時折、手を止めた。
「……哲人」
「なに?」
「私、ここにいていいのかな」
不意打ちのような言葉だった。
「どうして?」
「みんなが、私のことで困ってる気がするから」
包丁を置いた彼女の手が、わずかに震えている。
僕は考えるより先に、答えていた。
「困ってないよ」
憂は驚いたように目を見開く。
「少なくとも、僕は」
胸の違和感は、まだ消えない。
けれど、それ以上に確かな感情があった。
「一緒にいるのが、当たり前になってるんだ。だから……」
言葉が詰まる。
「いなくなられる方が、困る」
憂はしばらく黙っていたが、やがて、小さく笑った。
「……ありがとう」
その笑顔が、あまりにも普通で。
だからこそ、胸が痛んだ。
夜。
僕が眠りについた後、憂は一人、目を覚ましていた。
部屋は暗く、静まり返っている。
彼女は胸元のレムリアにそっと触れた。
「……見られている」
誰に向けたとも知れない呟き。
その瞬間、宝石の奥で、微かな光が脈打った。
遥か彼方。
人の世界とは異なる位相で、何かが笑う。
名を持たぬ視線が、確かにこちらを向いていた。
神話はまだ、語られていない。
けれど、すでに――観測は始まっている。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




