静かな違和感
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
朝の空気は、どこか澄みすぎていた。
佐賀の町外れ、低い山並みの向こうから差し込む光は、昨日までと何も変わらないはずなのに、僕には妙に白く感じられた。理由は分からない。ただ、胸の奥に薄い膜のようなものが張りついている感覚が、目覚めた瞬間から消えずに残っている。
「……夢、かな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、僕――緒妻哲人はベッドから起き上がった。
工房代わりにしている部屋は、いつも通りだ。分解途中の古い無線機、拾ってきた歯車、訳の分からない基板。見慣れた光景が、確かにここにある。それなのに、胸の奥の違和感だけが、現実を少しだけ遠ざけていた。
その原因が何なのか、僕はまだ知らない。
リビングに行くと、憂がいた。
白いワンピースに身を包み、窓辺に立って外を見ている。その背中は細く、どこか頼りなげで、それでいて――理由もなく、目を離せなくなる不思議な存在感があった。
「おはよう、憂」
声をかけると、彼女は少し遅れて振り返った。
「……おはよう、哲人」
微笑みは、いつも通り柔らかい。けれど、ほんの一瞬、その瞳の奥に影が走ったように見えた。
「どうかした?」
「ううん。ただ……」
憂は言葉を探すように、少しだけ視線を逸らす。
「外の空が、きれいだなって思って」
それだけだった。でも、僕の胸の違和感は、むしろ強くなる。
きれいな空を見て、そんな顔をするだろうか。
問いかけは喉まで出かかったが、結局、飲み込んだ。
今の僕には、確かめる勇気がなかった。
昼前、シャーロット財団からの連絡が入った。
理事長――朝宮シャーロット直々の呼び出し。内容は簡潔で、「吉野ヶ里周辺で新たな反応があった」というものだった。
「また、遺跡……?」
憂が不安そうに僕を見る。
「大丈夫だよ。ちょっと様子を見るだけだから」
本心から出た言葉だった。
けれど、その“様子を見るだけ”が、もう通用しない段階に来ていることを、僕はまだ理解していなかった。
財団の車に乗り込むと、マックスとレオがすでに待っていた。
「よお、少年」
マックスはいつも通り豪快に笑う。
「顔色が優れないな。寝不足か?」
「そういうレオは、相変わらず無表情だね」
「感情を表に出すのは、効率が悪い」
いつものやり取り。
けれど、シャーロットだけは、静かだった。
「……始まっています」
車が動き出してから、彼女はぽつりとそう言った。
「何が、ですか?」
僕の問いに、シャーロットはすぐには答えない。代わりに、バックミラー越しに憂を一瞥した。
「世界が、“彼女”を思い出そうとしている」
その瞬間、胸の奥の膜が、微かに軋んだ。
憂は何も言わず、ただ両手を胸の前で握りしめている。
まるで、忘れてはいけない何かを、必死で押し留めているかのように。
吉野ヶ里遺跡に近づくにつれ、空気が変わった。
風が止み、音が遠ざかる。
世界そのものが、一段階、深い層に沈み込んだような感覚。
「……嫌な予感がする」
それは僕の本音だった。
誰も否定しなかった。
遺跡の奥、かつて憂が眠っていた場所とは別の区画。
そこに現れた“反応”は、形を持たないはずのものだった。
古代の壁画が、淡く光っている。
描かれているのは、人とも神ともつかない存在と、空から降り注ぐ“光”。
その光を見た瞬間、憂が小さく息を呑んだ。
「……知らない、はずなのに」
震える声。
「とても、怖い」
僕は反射的に、彼女の手を握った。
「大丈夫。僕がいる」
根拠なんてなかった。
それでも、その言葉だけは嘘じゃない。
その時だった。
壁画の奥、闇の中から、誰かの気配が立ち上がった。
直接姿は見えない。
けれど、確かに“見られている”。
レオが低く告げる。
「……旧支配者の残滓ではない。だが、近い」
マックスが拳を鳴らした。
「つまり、厄介ってことだな」
シャーロットは静かに微笑んだ。
「ええ。ですが――」
彼女の視線が、再び憂に向けられる。
「まだ、目覚めるには早い」
その言葉を聞いた瞬間、憂の胸元で、碧い宝石――レムリアが、かすかに光った。
誰も、それ以上の説明をしなかった。
けれど、僕ははっきりと感じていた。
冒険は、もう“探索”ではない。
これは、神話がこちらを覗き返し始めた合図だと。
そしてその中心に、憂がいる。
――それでも。
それでも僕は、彼女の手を離さなかった。
この違和感の正体が、どれほど残酷なものであったとしても。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




