夢の痕跡…
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
静まり返ったブリッジに、足音だけが響いていた。
――コツ、コツ、と。
マリア・アトランティアは、自分が歩いていることに気づいていなかった。
ただ、前へ進んでいる。
理由も目的もなく、星舟の中央へ向かって。
照明は落ちているはずなのに、闇ではない。
ぼんやりとした光が、床と壁を曖昧に照らしている。
「……誰か、いますか?」
声を出した瞬間、妙な違和感が走った。
音が、返ってこない。
反響がない。
吸い込まれるように、言葉だけが消える。
ブリッジの中央に立つと、そこにはいつもの光景があるはずだった。
操舵席。
通信席。
戦術モニター。
だが――
誰もいない。
椅子はある。
計器も点灯している。
なのに、人の気配だけが、完全に欠けていた。
「船長……?」
思わず口にした名前は、途中で掻き消えた。
ルシアンの姿が浮かぶ。
確かに、ここに立っていた。
何度も作戦を練り、決断を下し、仲間を守ってきた背中。
なのに、今は思い出そうとすると、輪郭が崩れる。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
マリアは戦術モニターへ近づいた。
表示されているのは、星図。
だが、座標がどれも微妙にズレている。
星が、本来あるべき位置にない。
「……航路、異常?」
そう呟いた瞬間、背後で“何か”が動いた気配がした。
振り向く。
――誰もいない。
それなのに、確信だけがある。
「今、誰かがいた」と。
マリアは一歩、後ずさった。
ブリッジ全体が、ゆっくりと歪み始める。
床が波打つ。
壁が遠ざかる。
天井が高く、遠くなる。
「……夢、よね」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、夢にしては感触が生々しい。
星舟は確かに、ここにある。
それなのに、誰もいない。
守るべき人たちが、最初から存在しなかったかのように。
恐怖が、じわじわと染み込んでくる。
それは死の恐怖ではない。
“意味が消える”恐怖だった。
自分が積み上げてきた判断も、犠牲も、覚悟も。
すべてが、最初から無かったことになるような感覚。
「……嫌」
その瞬間。
ふっと、胸の奥に温度が戻った。
理由は分からない。
映像も、言葉も、記憶もない。
それでも、確かに“誰かがここにいる”という感覚だけが、強く残った。
マリアは目を閉じた。
次の瞬間――
はっと、息を吸い込む。
自室の天井。
薄暗い照明。
いつもの船内音。
心臓が、早鐘のように鳴っていた。
「……夢、か」
ベッドに腰掛け、深く息を整える。
冷や汗が、背中に張り付いている。
だが、不思議と恐怖は残っていなかった。
むしろ、胸の奥には理由のない安心感がある。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
それでも、自然とそう呟いていた。
ブリッジに誰もいなかった夢。
なのに、“独りではなかった”という確信。
マリアは立ち上がり、窓の外を見る。
星々は、正しい位置にあった。
航路も、船も、仲間も――すべて、ここにある。
「……まだ、終わっていない」
その言葉だけが、静かに残った。
マリアは制服の襟を正し、扉へ向かう。
今日も、判断すべきことがある。
守るべき人がいる。
そしてそれは、夢ではない。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




