変わらぬ日常の中で
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
朝の空気は、妙に澄んでいた。
昨日まで確かにあったはずの重さが、理由もなく消えている。
空はいつもと同じ色なのに、見上げたときの胸の圧迫感がない。
緒妻哲人は、駅へ向かう坂道の途中で足を止めた。
「……なんだろ」
声に出しても、答えは返ってこない。
ただ、胸の奥が静かだった。
不安が消えたわけではない。
心配事が解決したわけでもない。
それでも、“何かが終わった”という感覚だけが、はっきりと残っている。
昨日のことを思い返そうとすると、記憶は曖昧だった。
吉野ヶ里。
古い土の匂い。
夜風。
隣に、誰かが座っていた気がする。
だが、顔も声も思い出せない。
そもそも、そこに誰かがいたという確信すら、すぐに溶けてしまう。
哲人は小さく首を振った。
「……考えすぎか」
最近、こういうことが多い。
都市伝説を追いすぎたせいか、現実と空想の境目が曖昧になる瞬間がある。
けれど――
その“誰か”を思い出そうとしたとき、胸の奥が少しだけ温かくなるのも事実だった。
理由は分からない。
対象も分からない。
ただ、確かに「大切だ」と感じている感情だけが残っている。
それが不思議で、少し怖くて、同時に救いでもあった。
学校へ向かう電車の中。
窓に映る自分の顔は、昨日と何も変わらない。
なのに、目だけが違って見えた。
どこか遠くを見ていた焦点が、今はきちんと前に合っている。
「……ま、いいか」
哲人はそう呟いて、スマートフォンを取り出した。
新しい都市伝説のメモを開く。
“佐賀県某所。
古い遺構付近で、夜になると星が一つ多く見えるという噂。”
真偽不明。
証拠なし。
オチも不明。
それでも、なぜか心が躍った。
追いかける理由が、以前よりも少しだけ純粋になっている。
恐れでも、焦りでもなく、ただ「知りたい」という気持ちだけで動けそうだった。
哲人は窓の外を見た。
空は、どこまでも青い。
何かが始まる予感も、終わる気配もない。
それでいい、と自然に思えた。
――今はまだ、何も知らなくていい。
知らないままでも、歩いていける。
その確信だけを胸に、電車は静かに走り続けていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




