触れてはいけない座標
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
星舟ノア・レムリアは、指定された座標へと静かに接近していた。
接近、と言っても距離は曖昧だ。
空間上に「そこに在る」と示す何かが存在しているだけで、通常の物体のような輪郭は見えない。
「視覚的には、ほぼ空です」
ルシアンが淡々と報告する。
「重力反応もなし。質量ゼロに近い」
「でも、信号はあるんだよな」
「はい。消えずに、ここにあります」
モニターには、淡い点がひとつだけ映っている。
星でも、残骸でもない。
何かを“示す記号”のような存在。
哲人は椅子にもたれ、画面を見つめた。
「まるで……座標だけが置き忘れられてるみたいだな」
「嫌な例えですね」
「でも的確だろ」
シャーロットは腕を組み、表情を険しくする。
「過去に、こういう反応は?」
「記録にはありません」
「じゃあ新しい」
「あるいは、古すぎるか」
ブリッジの空気が、じわりと張りつめる。
そのとき、憂が小さく息を吸った。
「……ここ、懐かしい」
全員の視線が、憂に集まる。
「思い出せる?」
「ううん。何も」
憂は首を振る。
「でも、知ってる。
“来たことがある”とかじゃなくて……
ここに、何かを置いてきた気がする」
その言葉に、哲人は即座に反応した。
「それは――」
「封印、とかじゃない」
憂は先に否定する。
「もっと、個人的なもの。
約束にもならなかった想い、みたいな」
シャーロットは眉をひそめた。
「感情由来の座標……?」
「それ、あり得るのか?」
「理論上は否定できません」
ルシアンが続ける。
「高次干渉下では、意識や記憶が
“位置情報”として残留するケースがあります」
「最悪じゃないか」
「ええ。扱いを誤れば」
星舟は、すでに十分近づいていた。
近づくにつれ、微弱だった信号が変化を始める。
数値では測れない揺らぎ。
だが、確実に「反応している」。
「接触判定、出ます」
ルシアンの声が、わずかに低くなる。
「触れたら、どうなる?」
「不明です」
誰も軽口を言わない。
哲人は一瞬、全員を見回し、そして決断した。
「――直接触れない」
「回避、ですか?」
「いや」
哲人は憂を見る。
「呼びかける」
憂は一瞬だけ目を見開き、すぐに理解したように微笑んだ。
「言葉じゃなくて、気配で?」
「ああ。できるなら」
憂は静かに前へ出る。
通信席でも、操舵席でもない、ブリッジ中央。
星舟が、まるで彼女の動きを待っていたかのように、わずかに減速する。
憂は目を閉じた。
――名前はない。
――姿も、記憶もない。
――でも、確かに“あった”。
祐徳稲荷の摂社で祈った、あの感情。
吉野ヶ里で感じた、言葉にならない既視感。
それらが、一本の細い糸のように胸の奥で繋がる。
(……聞こえなくていい)
憂は、心の中でそう思う。
(ただ、残っているなら)
(もう、行けるって伝えたい)
その瞬間。
座標の淡い点が、ほんの一瞬だけ――呼吸するように明滅した。
「反応!」
ルシアンが声を上げる。
数値が跳ねるが、暴走はしない。
むしろ、整理されるように減衰していく。
「信号、消失します」
「消えた?」
「……いえ。“完了”です」
ブリッジに、静寂が戻る。
何も起きなかった。
爆発も、転移も、奇跡もない。
ただ、
置き忘れられていた何かが、そっと片付けられただけ。
憂は目を開け、深く息を吐いた。
「……大丈夫」
「何が?」
「ここは、もう空」
哲人は頷いた。
「じゃあ、行こう」
「どこへ?」
「次の“呼ばれてる場所”へだ」
星舟ノア・レムリアは、再び進路を定める。
その背後で、誰にも観測されないまま、
ひとつの座標が――完全に、宇宙から消えた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




