哲人の既視感
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
朝の空気は、思ったよりも冷たかった。
季節の境目に差し込む風は、どこか判断を保留したまま吹いているようで、哲人は襟元を正しながら歩いた。
特別な予定はない。
調査対象も、緊急の連絡も入っていない。
それでも、今日は「何も起きない」と断言できるほど、気分が軽くはなかった。
街はいつも通りだ。
通勤の足音、シャッターの開く音、信号機の電子音。
だが、それらが微妙に噛み合っていない感覚がある。
ほんの一拍、遅れて聞こえる。
あるいは、先に響く。
理由を探すほどの違和感ではない。
だが、無視するには、少しだけ引っかかる。
哲人は立ち止まり、空を見上げた。
雲は薄く、均一で、天候が崩れる兆しはない。
「……気のせいか」
そう呟いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
言葉にする前に、感情だけが反応したような感覚。
誰かが、隣にいる。
振り向いても、そこには誰もいない。
だが、その「いない」は、確定しきっていなかった。
以前にもあった。
似た背丈。
似た沈黙。
思い出そうとすると、輪郭が曖昧になる。
名前も、声も、確かな記憶としては残っていない。
それでも――
並んで歩いていた、という感覚だけが、消えずに残っている。
哲人は再び歩き出す。
理由のない確信が、足を前へ進めさせていた。
調査者としての勘ではない。
使命感でも、義務でもない。
ただ、
「進めば、思い出さなくていい何かに辿り着く」
そんな予感だけがあった。
街のざわめきが、少しだけ遠のく。
代わりに、静かな温度が戻ってくる。
物語は、まだ動いていない。
だが、世界のどこかで、すでに一つの歯車が噛み合ったことだけは、確かだった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




