存在していたという感覚
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
マリアは、はっきりとした理由もなく、立ち止まっていた。
誰かに呼ばれたわけではない。
何かを見たわけでもない。
ただ、足が、これ以上前へ進むことを拒んだ。
空気が違う。
そう表現するのは簡単だが、正確ではない。
空気そのものは、変わっていない。
温度も、湿度も、匂いも。
計測すれば、きっと「異常なし」と出るだろう。
それでも――
“ここから先は、帰り道が同じではなくなる”
そんな確信だけが、胸の奥に沈んでいた。
「……待って」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
前を行く哲人が振り返り、少しだけ眉をひそめる。
「どうした?」
マリアはすぐに答えられなかった。
説明できる言葉が、頭の中に存在しなかったからだ。
説明できない、という事実そのものが、彼女を不安にさせた。
自分は参謀役だ。
曖昧な勘や、理由のない予感を口にする立場ではない。
けれど――
それでも。
「……嫌な予感、ではないの」
ようやく選んだ言葉は、否定から始まった。
「ただ……ここ、前にも来た気がするのよ」
哲人は、すぐには笑わなかった。
冗談として流すには、マリアの表情が真剣すぎた。
周囲には、遺構と呼ぶにはあまりにも素朴な石組みが点在している。
派手さはなく、観光地として整備されている様子もない。
それなのに、妙に“残っている”。
壊されず、埋もれず、忘れられもしないまま、
ただ「そこにある」。
マリアは、無意識のうちに手袋の上から指を握りしめていた。
胸の奥で、微かに何かが軋む。
記憶を探ろうとすると、必ず同じ場所で思考が途切れる。
まるで、最初から「そこから先」を持っていなかったかのように。
「前に来た、というのは……」
哲人が言葉を選びながら問いかける。
「夢とか? 資料で見たとか?」
「……どれでもないわ」
マリアは首を横に振った。
夢にしては、感触がはっきりしすぎている。
資料にしては、感情が混じりすぎている。
何より――
その“記憶”には、自分がいなかった。
見ている視点が、自分ではない。
けれど、他人でもない。
そこにあるのは、名前も顔も輪郭も持たない、
ただ“存在していた”という感覚だけだった。
風が吹いた。
石の間を抜ける音が、わずかに反響する。
その音を聞いた瞬間、マリアの背筋に、冷たいものが走った。
――ブリッジ。
理由もなく、その単語が浮かぶ。
金属の床。
計器の光。
そして、誰もいないはずの空間。
「マリア?」
哲人の声が、少し遠く聞こえた。
「……大丈夫」
反射的に答えながら、マリアは理解していた。
これは「大丈夫ではない」時の感覚だ。
だが同時に、奇妙な安堵もあった。
恐怖だけではない。
懐かしさに、似ている。
「ここは……たぶん」
言いかけて、言葉を飲み込む。
断言してはいけない。
まだ、確かめてもいない。
けれど、心の奥では、すでに知っていた。
ここは、
“何かが終わった場所”であり、
同時に、
“何かが始まらなかった場所”だ。
封印。
その言葉が、静かに浮かぶ。
誰が。
何を。
なぜ。
答えは一つも出ない。
それでも、マリアははっきりと感じていた。
――ここで、世界は一度、選ばなかった。
選ばれなかった未来が、
今も、沈黙のまま横たわっている。
「……先に進みましょう」
マリアは、そう言った。
立ち止まったままでは、何も分からない。
それは参謀としてではなく、
一人の人間としての判断だった。
歩き出した瞬間、
背後で、何かが“閉じる”気配がした。
振り返っても、何もない。
ただ、風が止んだだけだ。
それでも、マリアは確信する。
――もう、戻れない。
そして同時に、
“見るべき夢”が、近づいていることを。
胸の奥で、静かに、夜が息をしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




