何かが始まる前の静けさ
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
星舟ノア・レムリアは、何事もなかったかのように宇宙を滑っていた。
エンジン出力、航行軌道、外殻温度、重力制御。
ブリッジのメインスクリーンに並ぶ数値は、どれ一つとして異常を示していない。
それでも――。
「……妙だな」
低く呟いたのは、船長ルシアンだった。
彼は椅子の背に身を預けたまま、視線だけを前方の虚空へ向けている。
「どこが、ですか?」
即座に反応したのは、参謀マリア・アトランティアだった。
彼女の指はすでに操作卓の上を滑り、補助モニターを次々と立ち上げている。
「説明できない。だが、船が“静かすぎる”」
ルシアンの言葉に、マリアは一瞬だけ瞬きをした。
静かすぎる――それは、数値では測れない違和感だった。
「エンジン音、振動、船体共鳴……すべて基準値内です。
むしろ、安定しすぎていると言っていい」
「それだ」
ルシアンは短く頷いた。
「安定というのは、常に微細な揺らぎを含む。
完全な静止は、死んだ水面と同じだ」
マリアはその言葉を否定しなかった。
彼女自身も、先ほどから同じ感覚を拭えずにいたからだ。
ブリッジの空気が、薄く張りつめている。
誰かが咳払いをするでもなく、計器の電子音だけが一定の間隔で鳴り続ける。
「……カイ」
ルシアンが呼びかける。
「操縦系に違和感は?」
「ありません。
いつも通り……いえ、いつも以上に反応が良すぎます」
操縦席のカイは、困惑した表情で答えた。
「舵が“先を読んでいる”みたいなんです。
こっちが操作する前に、もう最適解にいる」
ルーナが整備端末から顔を上げる。
「船体構造材の応力分布、変化してます。
でも損傷じゃない……むしろ、自己調整?」
「自己進化、というほど派手でもない」
マリアは静かに言った。
「例えるなら……
船が“何かを待っている”」
その言葉が、ブリッジに落ちた瞬間。
全員の背筋に、わずかな寒気が走った。
「待っている、か」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「なら、問いは一つだ。
――何を、だ?」
誰も答えられなかった。
スクリーンの向こうには、ただ静かな星海が広がっている。
だがその静けさが、永遠でないことだけは、全員が直感していた。
「記録しておきましょう」
マリアが言った。
「数値上は“異常なし”。
けれど、主観的違和感あり――と」
「公式記録に?」
「いえ。
私個人の航行メモに」
ルシアンはそれを聞いて、わずかに笑った。
「参謀殿がそう判断するなら、無視はできないな」
マリアは視線を落としたまま、そっと指を止める。
「……理由は分かりません。
ただ、嫌な予感とも少し違うんです」
「ほう?」
「“何かが始まる前の静けさ”
それに、よく似ている」
ルシアンは椅子から立ち上がり、ブリッジ中央へ歩み出た。
「なら、備えるしかない」
星舟ノア・レムリアは、なおも静かに進む。
まるで、自らの役割を思い出そうとしているかのように。
誰にも気づかれぬまま、
確実に――次の段階へ向かいながら。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




