静かな余韻
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
夜が、完全に街を覆った。
哲人は自宅のベランダに立ち、
コーヒーの湯気をぼんやりと眺めていた。
苦味は、いつもより穏やかだ。
理由は分からない。
砂糖の量も、豆も、いつもと同じはずなのに。
——今日一日が、どこか現実感に欠けている。
駅前での出来事を思い返そうとすると、
映像ははっきりしているのに、
感情だけが少し遅れてやってくる。
少女。
名前は分からない。
顔も、正確には思い出せない。
なのに。
「……いたよな」
声に出すと、
それだけで確かになった。
存在していた。
ほんのわずかな時間だが、
確実に同じ空間を共有していた。
哲人は空を見上げる。
雲の隙間から、
一等星がひとつだけ見えた。
幼い頃、
星を見上げる癖があった。
理由は覚えていない。
ただ、
「見上げていないといけない気がした」
そんな感覚だけが残っている。
「都市伝説……か」
誰に言うでもなく呟く。
説明できない出来事を、
人はそう呼ぶ。
だが。
今日のそれは、
怖さも、不気味さもなかった。
むしろ——
「……あったかい」
胸の奥に、
小さな焚き火が灯っているような感覚。
火は弱い。
放っておけば消えてしまいそうだ。
それでも。
確かに、今も燃えている。
哲人はマグカップを置き、
ベランダの手すりに手をかける。
「また……会う気がするんだよな」
確信ではない。
根拠もない。
だが、
“そうなる前提”で世界が進んでいるような、
奇妙な感覚があった。
その夜、哲人は久しぶりに夢を見なかった。
深く、
静かな眠りだった。
⸻
翌朝。
街は何事もなかったかのように動いている。
通勤電車。
コンビニの列。
ニュースの見出し。
どれも、昨日と同じ。
——いや。
一つだけ違う。
哲人の視界に、
「気になる場所」が増えていた。
交差点の角。
使われていない階段。
地図に載らない小道。
説明できないが、
「見落としてはいけない気がする」。
都市伝説を追い始めた頃の感覚に、
よく似ていた。
「……原点回帰、か」
苦笑しながら、
哲人は歩き出す。
その背中を、
誰かが見送っていることを、
彼はまだ知らない。
遠く。
とても遠い場所で。
碧い光が、
一瞬だけ脈打った。
——観測開始。
世界は、
静かに次の段階へ移行する。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




