選ばれた側へ
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
駅前の喧騒は、夜になると少しだけ輪郭を失う。
昼間にあれほどはっきりしていた音は、
今はどれも距離を持って耳に届いていた。
哲人はベンチに腰掛け、
スマートフォンの画面を伏せる。
表示は消えている。
だが、消えたのは光だけで、
中身まで消えたわけではなかった。
——さっきの出来事。
説明できるほど整理はできていない。
けれど「何かを見た」という感覚だけが、
確かに胸の奥に残っている。
「……気のせい、だよな」
誰に向けた言葉でもない。
人は、説明できないことに遭遇すると、
まずそれを否定したがる。
哲人も例外ではなかった。
だが。
否定しきれない“違和感”が、
思考の端に引っかかっている。
風が吹く。
駅前の街路樹が、かすかに揺れた。
その瞬間——
隣に、人の気配があった。
驚いて視線を向ける。
いつから座っていたのか、分からない少女。
年齢は曖昧だ。
高校生にも見えるし、
もう少し上にも見える。
だが、目だけが妙に静かだった。
夜の街よりも、
もっと深いところを見ているような目。
「……あの」
声をかけようとして、
哲人は言葉を止めた。
理由は分からない。
ただ、
「話しかけてはいけない」
そんな感覚が、胸に広がった。
少女は何も言わない。
ただ、同じ方向——
駅の外れ、暗がりの方を見ている。
そこには、
特別なものなど何もないはずだった。
「……」
沈黙。
不思議と、居心地は悪くなかった。
むしろ、
理由の分からない安心感があった。
——どこかで。
——ずっと前に。
——同じように、
誰かと並んで座っていた気がする。
記憶を探ろうとすると、
頭の奥が微かに痛む。
思い出せない。
名前も、場所も、理由も。
残っているのは、
「大切だった」という感情だけ。
哲人は、無意識に空を見上げた。
星は、ほとんど見えない。
それでも。
「……変なの」
小さく呟く。
「何が?」
少女が、初めて声を発した。
柔らかい声だった。
驚くほど、
当たり前の会話の調子で。
「いや……なんでもない」
哲人は苦笑する。
少女はそれ以上、聞かなかった。
やがて、電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
哲人が視線を戻した時——
少女はいなかった。
まるで、
最初から存在しなかったかのように。
ベンチの冷たさだけが、
隣に誰かが座っていた痕跡を残している。
哲人は立ち上がる。
胸の奥に、
説明できない温度を抱えたまま。
「……まあ、いいか」
そう言って、歩き出した。
この時、彼はまだ知らない。
今夜の出来事が、
“観測された”側ではなく、
“選ばれた”側の始まりだったことを。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




