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二百年史

ヤマト貴族団

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/01/24

2193年、雑誌「明星」より抜粋


 神君が国家平定のために尽力なされた2050年代から2060年代にかけては、生存者が完全にいなくなった昨今、もはや文字通りの神話となりつつある。

 あらゆる小説や映画で、この時代についての名だたる名士の英雄的活躍が描写されるが、それらはほとんどが当時、あるいは後世の脚色で多分に潤色されたものであり、史実に基づいたものではない。事程左様に、それらの出来事が起きた時点で、

 たとえば救国戦争の後すぐに平和がやって来たわけではなく、十年ほどの間ひたすら戦乱が続いたことはあまり知られていない。

 近年はあまりにも神君による国内統治が成功したという歴史観が定着し、その中でとりこぼされた歴史的事実に関しては省みられることがなかった。

 匠将軍閣下の即位後、このような教育にも見直しが観られ、ようやくその周辺の状況に関する教育要領に盛り込むことが決まり、隠された歴史への理解が進むことが期待されている。


 救国戦争後、神君哲雄が北海道に割拠する佐藤家、縄文主義者に次いで、もっともその撲滅のために心血を注いだのがヤマト貴族団という過激派組織であった。

 ヤマト貴族団は主に東日本に割拠し、官憲による管理の薄れた各地で活動を行い、信奉者に破壊活動を行わせるなど、その行動は恐るべきものがあった。

 ヤマト貴族団に関してははっきりとしない事実が多い。この組織は潰滅の直前に、証拠を隠滅するため多くの機密書類を焼却したからである。だが何もかもが闇に葬り去られたのではなく、組織からの脱走者の証言や、組織が発行したプロパガンダから活動内容について部分的にうかがい知ることができる。

 この組織を立ち上げたのははやし貞政さだまさ(1987-2062)という男だった。

 貞政は元々右翼的な思想を持っていたが、2020年代の国際的混乱からむしろ左傾し、また当時コロナウイルスの余波で失業したこともありそこから陰謀論に傾倒して行ったらしい。

 彼は、この日本を統治するにもっともふさわしいのはヤマト貴族のみである、という思想を打ち上げた。『ヤマト』と片仮名で書くのは、民族の独自性を示すための表記らしい。ヤマト貴族が何を意味するかは、様々な書籍によってまちまちで定まらない。ただ、支配階級の道徳を高めるためのノブレス・オブリージュの概念にあこがれていたようだ。


 2030年代から貞政は既存の日本国家を否定し、新たなる国家を築くべきであると主張していた。貞政はまた市民の武装権をも多いに認めるべきだとした。今後数十年は混乱の時代が続く以上、市民は自由のために武装して自己防衛につとめるべきであると。この中でも武装権に関しては貞政の受け売りなどではなく、当時の活動家の受け売りの文句だった。

 2040年代に入ると治安の悪化や獣害の増加によって市民の武装権に関する議論が非常に盛んになっていた。

 都市の『要塞化』が主張され、地方でも監視ドローン、およびカメラの増加や耕作地への泥棒防止の無人銃座の備え付けなどが進んでいた。舗装されていない道路では、安全なルートを指し示す音声標識が立ち並んだ。国際情勢の不安定化ともあいまって軍事への期待が高まり、それまでは忌避の対象となっていた兵器がむしろ国民を守る物として評価されるようになった。

 自衛隊や特殊鉄鋼軍事部門への期待も高まった。こうした中で街の生活に兵器が入り込んでいることはほとんど日常のようになり、21世紀初頭に比べると『軍事化』が非常に進んだ。良くも悪くも現代の日本社会の萌芽はすでにここに存在したのである。


 しかし貞政は、軍事化はやむを得ないことだとしつつも、日本国民に確固としたナショナリズムが存在しないことを危惧していた。政府が出生地主義をとり、参政権が居住者の多くに拡大され、かえって人々はアイデンティティの危機に見舞われ、一層不寛容になっていった。

 貞政はそのような不寛容の時代の打破のためにナショナリズムの復興を訴えた。そして日本国家形成のモデルは、二千年前のヤマト人の列島征服事業にさかのぼるとした。貞政は、帝国主義を彷彿とさせることなく、軍事方面に訴えようとしたのである。

 だが結局団結の手段としてのレイシズムから卒業できなかったことに、組織の限界があった。たった一人の君主に対する忠誠の他に、民族や人種を越えて連帯するすべを国民は知らなかった。


 貞政の活動が本格化したのは、救国戦争が始まってからである。

 まず、救国戦争中の混乱によって大量の兵器が民間に流出することとなった。それがますます国民の自衛意識を加速させ、いよいよ社会の溶解は決定的な物になっていった。

 貞政は混迷する情勢を受けて、戦争直前の2046年には『ヤマト貴族論』なる書物を著した。この中ではヤマト貴族とは精神性を体現するものだとした。

 宇野うの翔男かけお(2003-2087)という男が貞政の思想に共鳴し、すぐ貞政の元に馳せ参じた。翔男は貞政の『宰相』を名乗り、貞政を補佐していた。

 貞政は徒党を組んで大垣の市街地に乗り込み、周囲にバリケードを築き、事実上の独立国のように振舞った。

 彼はそこを拠点にして全国への征服を開始する、という奇矯な思想に囚われていた。

 貴族団は長野県にも進出し、現地の特殊鉄鋼の警備兵と交戦状態に入った。そして特鋼の兵士の多くを捕虜にし、身代金を要求した。

 

 貞政は相当な老齢であったが、面識のある人物によれば彼はむしろ若い頃より生き生きとして、眼光が光り輝いていたという。

 そして、読書家でもあり、常に多くの感想や論評を書きつけていたが、翔男の証言によればそれらのほとんどは自説を補強するための牽強付会であった。

 その牽強付会をさらに補強するために貞政は縄文主義者と接触していた。それは縄文とヤマトという二つの文明を接合する理論を見いだすことで、新たな歴史観を構築することを目的としていた。

 しかし日本民族が連綿として暮らし続けていたとする縄文主義者にとって、大陸から列島に渡った強き征服者であるとするヤマト貴族者の意見は相いれないものであった。そして縄文主義者が早くから哲雄との対決姿勢をとっていたのに対して貴族団はしかるべき時まで哲雄に従うふりをしているべきだとした。それゆえに共闘路線を取りえず、彼らは袂を分かった。


 救国戦争のさなかには中央の監視の目が届かない所で、茨の冠教団、妙法塾など多くの武装勢力が割拠しており、神君もすでに早くからを撃滅することを考えていたが、特殊鉄鋼軍との戦いに注力せねばならず、当初彼らに対して対処するだけの余力がなかった。ヤマト貴族団はそれらを救国軍のために滅ぼすという声明を発表することで直接対立することを避けた。

 ヤマト貴族団は2048年三月長野県の松本市を占拠。特殊鉄鋼の工場を接収し、ドローンや銃を獲得した。

 おりしも中部地方では数年前に大地震が起きており、ましてや戦闘によって復興など望むべくもなかった。そこで貞政は被災地にいた人々に対して慈善活動を行い支持を集めた。もはや当時政府への信頼は失われていたため、市民はたとえ分離主義者であろうとも彼らにすがることでしか生き永らえることができなかった。

 これに先立って貴族団は奈良県南部の僻地にひそかに銃の工場を建設し、長野県へと製造した銃を密輸していた。

 貞政には、日本政府を打倒し、特殊鉄鋼をも撃破して全く新しい日本国家を建設しようという明確なビジョンがあった。ある意味この計画は神君の御意思に先立つ物ではあった。

 2049年、貴族団は奈良県民や長野県民の有志を募った上で松本市に駐屯する特殊鉄鋼の部隊と交戦し勝利。特鋼の兵士を手勢に加え、富山県の特鋼の駐屯地にも襲撃をしかけた。さらには反特鋼の思想を持つ自衛隊の高官をも味方につけ、米軍の払い下げ品を大量に入手したという。

 これにより一時的ではあるが半独立国家が中部地方に樹立されようとしていた。

 翔男は立証されているだけでも千葉、神奈川の知事の暗殺を計画していた。そして実行部隊の隊長をつとめたのは黒田くろだ望明もちあき(2023-2062)である。

 望明は戦火の中家族とはぐれ、無一文となっていたところを貞政に拾われ、彼に忠誠を誓った。

 救国戦争中、首都も無事では済まず特鋼の施設がミサイル攻撃を受ける事態が相次いでいた。

 ヤマト貴族団の活動家である熊谷くまがい豊子とよこ(2023-2062)という女性が、暴力革命をは首都に乗り込み、街中に特殊鉄鋼を非難し自身への参加を呼び掛けるビラを配布した。

 さらに古代の民族精神を取り戻すために新たに日本国家を作り直すべきであるという趣旨の文書を流し、ヤマト主義に人々を引き込もうとした。

 しかし、貞政はむやみに対立と挑戦を好んでいたわけではなく、意見が合いさえすれば哲雄と協力する考えを捨てていなかった。もっともあくまで野望実行のため哲雄を利用するという形でだが。

 2051年、岐阜と長野の占拠を解き、土地の主権を返上すると哲雄に伝えた。この際国家にではなく、哲雄にといった事が重大であり、すでに政府の威信は消えてなくなっていたことがよく分かる。

 この時点では、貞政はあえて毒牙を隠していた。自らが築きかけた国を譲渡したのも決して敗北だとは思っていなかった。貞政は、極めて慎重に新国家計画を進めていたのである。


 ヤマト貴族団は現代から見れば紛れもないテロリスト集団ではあるが、彼らの成功の裏には彼らを支持する市民の存在があったことを忘れてはならない。太平洋戦争の敗北から間もない頃に、裏社会を支持する者がいたのとそれは似ていた。

 ヤマト貴族団は現体制が崩壊する時を見越して、内部に政府の省庁を模した組織構成を抱えていたらしい。しかし新国家の樹立を志しつつも、内部には任侠的な雰囲気があった。そこにあったのは上が下のために生命を保証し、下は上を保護する、という思想である。

 21世紀中頃、官僚を始めとする政府の命令を遂行する中間の組織は摩耗していた。

 太平洋戦争後一世紀近く続いた民主主義体制は、社会がそれに見合ったコストを払えなくなることですでに限界を迎えていた。国家を国民が頂き、営んでいく民主主義は維持するのが困難である。その国家が機能不全に陥り、頼れなくなると、民間の側から自治を行う風潮が芽生えざるを得ない。そしてそれは、国家が一つの組織として存在する必要性を国民が認識しなくなることを意味する。

 もし神君が列島遠征の大義を実行しなければ、列島は小国への分立という事態を招いたであろう。

 その分立を誘発させかねない貴族団などの武装組織と敵対する内に、神君の率いる側近たちや一般民衆も彼らと同じ悪しき思考に染まっていた。そしてそれが、旧体制の保護という方向性を神君に捨てさせるに至ったのである。


 ヤマト貴族団は縄文主義者に比べればまだ寛容ではあったが、それでも排他的な集団ではあった。自分たちが踏み込んだ先の、多くの住民である大和人の支持を得るためにはやはり「我々」の共通性を主張するために反移民の言説を述べ立てねばならなかった。

 救国戦争以後、哲雄に恩を売った貞政は耕作放棄地や山奥に新国家建設のための拠点を作りつつあった。

 戦火を逃れて住民が逃げ込み、武装して自治を行っている半独立の地域に貴族団の一員を送り込み、自陣に引き入れるのが貞政にとって急務だった。

 奈良県に建設した兵器工場は稼働し続け、これらの地域に銃とドローンを送り届けていたのである。貞政はそこに割拠している指導者にヤマト貴族としての称号を与え、上下関係を築いた。

 いまだに哲雄が全国の支配を確固としたものにできなかった中で、ヤマト貴族団の影響力は恐るべきものがあった。国家に代わって人々の生活や安全を保障するという点で、彼らは救国軍から恐れられていた。


 当時の人々にとって救国戦争その物はあくまで列島再統一の一環でしかなく、その後のヤマト貴族団および縄文主義者の鎮圧、佐藤政権の征伐とそのまま地続きの戦いであるというのが当然の認識だった。将軍就任に十年以上を要したのは、まさに日本政府を保護しただけでは到底いえなかったからに他ならない。

 その政府にも縄文主義者の議員が多数進出しつつあった。神君は彼らをみだりに罰することはできず、彼らが自らぼろを出すまで待たなければならなかった。そしてその時間に貞政はつけこもうとした。

 国会にも貞政の支持者が存在していたようだ。これらの議員の中には数十年後、原因不明の急死を遂げた者もいる。議員の中にはヤマト貴族団と哲雄を激しく衝突させ、共倒れを狙う者もいた。神君を倒すために誰もが手段を選んではいられなかった。

 このように多くの者を秘密裏に操っていた貞政の思い描いた新国家はこのようなものである。しかるべき日に全国で闘争を展開して哲雄を打倒し、政府から権力をゆだねられた後、東京をもって新大和京しんやまときょうと改称し、自らを総統と称して『ヤマト貴族』という特権階級に任じた幹部と共に国を統治するつもりだった。貞政は明らかに誇大妄想に犯されていた。しかしその誇大妄想を現実にするだけの行動力がこの妄想狂の集いには存在した。

 2051年から2054年に至るまでヤマト貴族団は各地に拠点を建設した。地下でひそかに火器を保管させ、いつでも蜂起できるように準備をさせたが、上辺はあくまでボランティア団体による土地の再開拓であるかのようにカモフラージュした。

 しかしヤマト貴族団の暗躍も白日に晒される日がやって来た。

 2053年八月七日、関東一円のヤマト貴族派の施設が一斉に検挙されたが、警官と激しい戦闘を行った挙句に捕まった者は自殺を行い、秘密をあばくことはできなかった。しかし、貞政が相当なカリスマであることは分かった。

 貞政の居場所を突き止めるのではなくその周辺を揺さぶる必要があった。

 2054年九月、救国軍の一部隊によって奈良県南部の兵器工場が特定され、破壊される。この際接収された兵器は北海道遠征において大いに活用されることとなる。

 同年十一月二十七日、ヤマト貴族団の一派が松本市を占拠し独立を宣言。人々は初めて神君に助けを乞うた。

 一か月間ほどにらみ合いが続いたが、これに対し救国軍は兵糧攻めに転じ2055年一月、果たして松本市の奪還に成功する。かつて貴族団にすがることでしか生き永らえられなかった人々は神君の軍を前に歓呼の声を揚げたのである。

 国家を転覆させかねない組織としてのヤマト貴族団はこの日終焉を迎えた。

 この時から表立った動きができなくなったヤマト貴族団は地下活動に転じなければならなかった。

 同年八月、熊谷豊子の率いる一派が救国軍の施設に爆弾を仕掛けた。実行犯の一部は射殺されたが豊子自身は逃げ延びた。

 2056年四月、望明は東京の混乱に乗じて防衛相古賀こが賢吾けんごを誘拐した。政府内の親貴族団派をたきつけるのが目的だったという。

 賢吾はこの時の詳細な証言を残している。

「なぜこのような蛮行ができるのだ?」という質問に対し、

「我々には過剰な愛国心があるわけではない。ただ、彼らの所業があまりにも目に余るので適切に対処しているだけだ」

 と返答した。同時代の欧州を席巻したネオナチ系組織にも同様な主張が観られる。しかし賢吾は脱走に成功し、この事件が明るみになったことでヤマト貴族団への支持は急に下がった。

 それまで救国軍の中におけるヤマト貴族団への評価は決して一様ではなく、帰順させることができるのではないかという意見も存在した。だがこの件があってからそのような意見も消え去った。

 2058年、政府と救国軍の会合で、古賀賢吾はヤマト貴族団を絶対に殲滅すべきであると主張した。自身が誘拐されたことへの恨みもあるが、このような組織を放置すれば必ず大規模な反乱に繋がると見てのことだった。賢吾はまた、辺境や山間部に点在する組織に自治を任せるわけにはいかず、徹底的に中央の権力に従属させるべきであるとも断言した。賢吾は決して神君寄りの人間ではなかったが、彼の武断的態度は民衆に神君が求めていたものであり、そのまま日本政府から神君への権力移譲の可能性を生むこととなった。

 ある意味では賢吾はその後の日本の体制を決定した張本人の一人であるともいえる。


 2059年六月十三日、当局が先に生け捕りにした貴族団の脱走者が暗殺される事件が起きた。遺体の腕には軽い刺し傷があり、ボールペンに仕込まれた毒薬で命を奪われたのではないかと見られた。

 同年七月にはヤマト貴族団派の施設が摘発されたが、すでに貞政は極めて情報統制を敷いていたので彼の元に捜査の手が及ぶことはなかった。また彼自身の証言によれば、この年に翔男は熊谷豊子を処刑している。彼はアジトの一室で翔男と、今後の世情を議論しながら食事をしている最中にいきなりナイフで刺殺されたのである。豊子は常に護身用の拳銃をたずさえていたが、焼き魚の内部に仕込まれたナイフに気づくことはできなかった。

 翔男によれば豊子が自身の悪事を漏らそうとしたので処刑したという。

 彼は明らかに組織の行く末を憂いていた。古賀賢吾の誘拐が、想像以上に当局の怒りを買ったことを警戒したのである。実際、混乱の収拾が一段落した救国軍は明確にこうした不穏分子の抹殺に力を入れ始めた。

 2060年、縄文主義者の首魁かつら聖邦きよくにが処刑され、国内の反体制派は下火になっていった。哲雄に対する譲歩を口にする幹部も現れ始め、貞政はいよいよ組織の緩みを除かねばならないという焦りに駆られた。

 こうして2061年九月にはヤマト貴族内部での粛清が起きた。哲雄に対し少しでも共感を示した一部の幹部が追放されるか、謎の死を遂げた。貞政は幹部の入れ替わりを通して紀綱を一新することを意図したが、権力はさらに少ない有力者によって維持されることとなり、かえって組織運営は硬直した。

 この粛清の発端は、息子の慶朝よしともが、父を惰弱な人間として批判したことからである。慶朝はこのまま地下活動を続けず、哲雄と一戦を交えるべきであると大真面目に主張した。だがもはやそのような余力は組織には残っていなかった。

 翔男の証言によれば、慶朝は父を暗殺することを企んでいたらしい。また、以前から翔男とも仲が悪く、貴族団から離脱して新たな組織を立ち上げることすら考えていた。数年前には北海道の佐藤政権と接触し、協力を呼び掛けたが相手にはされなかった。

 そしてこの時、ついに居場所を危ういと感じた宇野翔男が離脱した。これは林貞政にとっては大きな衝撃であった。

 翔男は恐らく貞政が次第に国家を転覆させようという野望を失い、現状維持に汲々とするようになったのを嫌ったのだろう。

 貞政は脱走者を出さないようにアジトを密閉していたが、翔男は特別に用意した鍵で脱出した。

 望明が翔男を射殺しようと試みたが、追った時にはすでに翔男は森の奥に行方をくらましていた。

 また翔男はこの際腹いせのためか貴族団の資料を持ち去ってしまっており、これを阻止できなかったのも密かに事を進めるための組織構造すら保てないことの証左だった。彼は2066年、奈良県のある隠れ家にいたのを発見されるまで姿をくらます。

 だが神君にとっていまだに手ごわい敵であることに変わりはない。2062年には新潟の練兵場を視察に訪れた神君の暗殺を試みるが、たまたま神君を載せた車が土砂災害により遅れたために失敗した。これが致命傷となって、ヤマト貴族団の動向が神君の元にも次々と伝わることとなる。それを仔細に伝える元凶となったのが、翔男の息子真一しんいち(2037-2087)だった。真一は、ヤマト貴族の活動に手を尽くしていたものの、組織に将来がないことを予見し、翔男の助命を嘆願するために脱走し神君に帰順したのである。

 真一の協力により、情報局は貞政の隠れ家をつきとめた。そして、二百人以上の兵士を待機させ、五月二日未明、和歌山沿岸にある隠れ家に突入させた。当時隠れ家には六十人以上の職員があり、武器を携帯して貞政の護衛に当たっていた。

 アジトへの攻撃の指揮をつとめたのは後日、将国日本において初代首都防衛長官をつとめる高際たかぎわ敬寿けいじゅ(2003-2077)だった。

 銃撃戦は四時間以上に渡って続いた。戦闘に参加した兵士の証言によれば、敵は奇声を上げており、明らかに薬物の使用の兆候が見られた。

 この戦いでヤマト貴族の構成員は徹底的に殲滅された。

 望明は重傷を負い、捕虜にされたが、「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と今際に叫び、隠し持っていた毒薬を腕に注射して自殺した。

 貞政も望明に続いて死のうとしたが、虫の息となった所を拘束されて果たせなかった。

 当局においては、反逆者に栄光の死を与えてはならないというのが基本方針だった。あくまでも反逆者は意志をへし折られ、無様な死を遂げなくてはならない。

 当初貞政は自分自身の妄執に殉じて死ぬ覚悟があったようだ。しかし長谷川炭治郎が案じた一計によって貞政は忠実な神君の僕として更正し、神君の臣下となれたことを感謝しつつ銃殺された。


 翔男は情報局の追求を逃れ、神君没後の2087年に家族に囲まれながら天寿を全うした。そしてその時には関係者のほとんどがすでに鬼籍に入っていた。ヤマト貴族団に関係のあった人々は口をつぐみ、その活動の全容はたちまちつかめなくなってしまった。だが、まだ彼らのアジトと思われる形跡が時折発見されている。旗や貞政の著作などだ。しかしそこから組織の全容を知ることは依然できていない。

 民間の私的な武装組織が救国軍や特殊鉄鋼にたちまちつぶされたのとは異なり、しぶとく抵抗し存続したヤマト貴族団は良くも悪くも傑物であった。

 そしてこれらの騒乱をもたらした組織に、戦いの方法など知らなかった人々がなぜ身を投じ、命を捧げることができたのか?

 戦乱など知らない平和な時代であったにも関わらず、たったその数十年後に突如として現出した乱世に驚くほど適応できたのか?

 オウム真理教にも並ぶ21世紀のなぜこれほどの混沌とした時代が現出したのか、そこにあった人々の心性は何を基盤としていたのかが課題となっている。

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