王の影
王都レガトの空には薄い雲が幾重にも重なり、常に陽光を遮っていた。市場の人々はそれをただの天候と笑い飛ばしたが、宮廷に仕える者たちは密かに囁き合った。――この曇りは、王城に渦巻く疑念と恐怖が空にまで滲み出しているのだ、と。
王政顧問エルディオは、その空を好んでいた。晴天は人に油断を与えるが、曇りは陰を育てる。陰があれば策は潜み、策があれば権力は動く。彼にとってこの空は、自らの理想が実りつつある兆しだった。
先王が崩御したのは半年前。王位を継いだのは若き王子アルノ。しかし、年若く温和な王に統治の手腕はなく、国内は一気に緩み始めていた。
北方諸侯は領兵を勝手に拡充し、南方は税を勝手に軽減。商人組合は王令に背いて独自通貨を発行し、教会は説教壇から「神は王ではなく民を守る」と遠回しに権威を否定した。
だが――そのすべては、エルディオが望んだ通りであった。
彼は王を支える忠臣ではない。王位を奪う野心家でもない。ただ信じていた。王国を導くべきは、力によって人心を操れる者だと。そして、最も操りやすい王とは――弱い王だった。
アルノ王は優しく、善良で、理想を信じていた。ゆえに王としては致命的だった。善良さは国を守らない。**恐怖こそ秩序を生み、尊敬は力ある者にのみ従う――**それがエルディオの信念だった。
◆
ある日の謁見の間。諸侯代表の三名が王の前に進み出て、堂々と要求した。
「税率を半減し、徴兵を停止せよ。民は疲弊している」
王は言葉を失い、視線をさまよわせた。
その沈黙は、諸侯にとっては勝利だった。弱さは可視化された瞬間、牙を呼ぶ。
だが――
エルディオが一歩前に出た。
「陛下は慈悲深い。しかし、慈悲を弱さと履き違える者がいるならば、それは国の腐敗です」
諸侯の顔が強張る。エルディオはさらに続けた。
「王は寛大であるがゆえに、諸侯の意見を尊重する。しかし、王を軽んずる者には――」
その瞬間、扉が開き、武装兵が雪崩れ込んだ。三名は拘束され、膝をつく間もなく引きずられた。
王は蒼白になり、震える声を漏らす。
「エルディオ、私は……処刑など望まない」
「承知しております、陛下。ゆえに、陛下の御手を汚す必要はない。私が行います」
翌日、王都の広場で公開処刑が執り行われた。
王は姿を見せなかったが、噂は瞬く間に広まった。
「陛下は涙ながらに決断されたらしいぞ」
「優しい王が、国のために心を砕かれたのだ」
真実など重要ではない。民がどう信じたか――それだけが現実となるのだ。
◆
処刑を境に王国は変わった。
諸侯は沈黙し、商人は税を納め、教会は王の名を祈りに織り込んだ。街では盗賊が減り、兵は士気を取り戻し、国境の警戒は強化された。
王はその変化を見るたび、胸に重い影を落とした。
ある夜、王はエルディオに問うた。
「私は……恐れられているのか?それとも尊敬されているのか?」
エルディオは即答しなかった。沈黙こそが、王の心を締め上げる道具となると知っていたからだ。
やがて、低く静かに言う。
「恐れられるほうが、裏切られません。尊敬は、力ある者が自然に得るもの。陛下はまだ、その段階にはございません」
王は俯き、言葉を失った。
その夜、王は初めて眠れなかった。夢にも罪なき人々の顔が現れ、目覚めても胸は重く、朝日を見ても心は曇っていた。
◆
半年が過ぎたころ、王の周囲はすべてエルディオの者で固められていた。軍も財務も書記も情報も――すべてが彼の掌にあった。
そんな折、王は一通の手紙を受け取る。
差出人は地方貴族の娘、幼なじみのリーデリア。そこには震える文字でこう綴られていた。
《エルディオは陛下を傀儡としています。やがて王位を奪うでしょう。どうか目を覚ましてください》
王の手は震え――しかしその震えは、もはや恐怖ではなかった。
◆
数日後、エルディオは王の執務室へ呼び出された。
「ご用命でしょうか、陛下」
王は静かに問う。
「そなたは……私を操っていたのか?」
エルディオは微笑し、否も肯も述べなかった。その沈黙こそが答えだった。
「国のためです、陛下。弱い王は民を不幸にします」
王はゆっくりと立ち上がり、かつてとは違う眼差しで見下ろした。
「国のためならば――そなたは不要だ」
次の瞬間、隠れていた近衛兵がエルディオを囲んだ。
彼は驚かず、ただ満足げに言った。
「恐怖を学ばれましたな」
「そなたが教えたのだ」
そして王は、初めて真の王の声で命じた。
「――処断せよ」
連行されながら、エルディオは微笑んだ。
自らの死が、自らの教えの完成であることを理解していたからだ。
その日、王都の空には久しぶりに陽光が差したという。
だがそれを見上げた者は、皆こう囁いた。
「どちらが真の支配者だったのだろう?」
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袋に詰められた子供たち
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