第2話 春光、まだほどけぬ心
あの日から、なぜか佐名は毎日のように僕の視界に現れるようになった。講義の合間や学食の列、図書館の自動ドアをくぐる瞬間、さらには帰り道の交差点で信号待ちをしているときまで――ふと顔を上げれば、あの柔らかなクセ毛と翡翠色の瞳が揺れている。
「やぁ、凪。偶然だね!」
彼はそう言って屈託のない笑顔を見せるのだが、偶然にしては頻度が高すぎる。陰キャの僕が明るい人に絡まれるなんてコミュ力ある訳ないだろ?!と心の中で叫んでも、声は喉の奥で丸まったまま転がり落ちていく。
四月の終わり。桜の花弁はすっかり舗道の隅で色褪せ代わりに初夏の芽吹きが街路樹を淡い緑で染め始めていた。昼過ぎのキャンパスには、どこか初めて見るような透明な光が降りていて講義棟の壁を白く照らしている。文学概論の授業が終わると、佐名がいつものように僕の席まで歩いてきた。
「このあと空いてる?図書館の横に新しいカフェがオープンしたんだって。一緒に行かない?」
聞き慣れた誘い文句。僕はいつものように一瞬躊躇し、それでも「うん」と呟いた。小さな声でしか返せないのが申し訳なくてリュックのストラップをぎゅっと握る。羽織っているカーディガンの袖口が指に絡み、少し湿った掌にまとわりついた。
教室を出ると廊下には新入生らしきグループが列をなして歩いている。楽しそうな笑い声が響くたび耳の奥がチリチリと痛む。僕は人込みが苦手だ。けれど佐名がすぐ前を歩き、時折振り返っては緑の瞳で「大丈夫?」と聞いてくる。そのたびに僕の心臓は焦げつくほど熱くなり、同時にどうしようもなく冷える。
僕なんかと一緒にいて退屈しないんだろうか。
自嘲ぎみに視線を落とすと、白い壁に貼られたサークルのポスターが目に入った。演劇研究会の春公演の告知。主役の名前の横に小さく “脚本・朗読協力” とあり、そこに佐名の名前がある。僕は密かに息を呑んだ。演劇と文学――彼はどちらでも輝けるのに、僕はまだ何者にもなれない。
「ねえ、凪。」
突然呼び止められ、顔を上げる。カフェへ向かう敷石の小道の途中で佐名が振り向いて立っていた。
「例のポスト構造主義の話、難しかった?」
「ちょっとね。」
「だよね。途中で意識が飛びそうになった。」
佐名は笑い、僕もかすかに口角を上げた。こうして小さく共感を分け合う瞬間、胸の奥に生まれる熱は決して嫌なものではない。その熱が形を持ってしまえば、きっとまた報われない想いを抱えることになる。そんな恐怖を無視するように歩を進めると、硝子張りのドアを持つ小さなカフェが現れた。看板には “Brioche & Verse” と洒落た字体が踊り、店先のメニューにクロワッサンサンドやカヌレの写真が並んでいる。
店内に入ると、木とラタンの混ざった甘い香りが鼻腔をくすぐった。壁一面の本棚には詩集やフランス文学の原書が隙間なく並び、奥のカウンターではバリスタがラテアートを描いている。午後の光が高い窓から差し込み、埃の粒を黄金色に浮かべていた。僕たちは窓際のテーブルに腰を下ろす。向かい合う形になると、自然と視線がぶつかり途端に胸がざわめいた。佐名は手帳を取り出し、さらさらと万年筆を走らせ始めた。
「台本の修正?」
「うん。それと次号の文芸誌に載せる詩のメモ。授業で使った引用を盛り込みたくてさ。」
緩やかなフランス訛りが混じる声。滑らかな指の動き。僕はそれを眺めながら紙ナプキンの端を折り続けた。
「凪は最近、書いてる?」
「……少しだけ。」
「読んでみたいな!」
「まだ、人に見せられるものじゃないよ。」
そう言って視線を落とすと、テーブルに置かれた水のグラスに天井の灯が揺れていた。ガラス越しに歪む世界は美しく、同時にどこか手の届かない遠さを感じさせる。やがてカプチーノが運ばれてくる。中央にハートが描かれ、その輪郭がふわりと溶けそうに柔らかい。佐名が「かわいいね」と笑いながらスマホで写真を撮り次に僕のカップも撮った。
「SNSに載せるの?」
「個人用のアルバムみたいなもん。記憶って消えちゃうから、残しておくと安心するんだ。」
彼は撮った写真を見ながら、ふっと表情を曇らせた。
「昔、大事なものが手から零れるみたいに消えたことがあってさ。――ごめん、変な話だよね。」
「僕も、似たようなことあるから分かるよ。」
言葉にすると、胸の奥の古傷が軋んだ。けれど佐名は驚いたように目を見開くと、すぐに柔らかく笑う。
「そうか……似てるね、僕ら。」
似ている。沈黙がふわりとテーブルに降りる。外の通りをゆっくり自転車が通り過ぎ、日差しが背後のガラス戸に淡い影を落とした。そのとき、佐名が急に身を乗り出す。驚いて身じろぎすると彼の指が僕の額に触れた。
「前髪さ長いね。ほら。」
柔らかな指先が、僕の前髪をそっとすき取るように掬い上げる。暗い髪の隙間から光が瞳の奥へ降り注いだ。
「やっぱ目、キレイじゃん。」
囁くような声が鼓膜を震わせた瞬間、僕の思考は白いノイズに包まれた。
――やめてくれ。そんなふうに無防備に褒められたら誤解してしまう。
心臓が暴れ言葉にならない声が喉の奥で揺れた。慌てて視線を逸らすと、テーブルの上に落ちた髪の影が揺れている。
「ごめん、嫌だった?」
「別に、嫌じゃないけど。」
小さな声が震えた。佐名は僕の反応を観察するようにしばらく沈黙し、それから微笑んだ。
「よかった。凪の目、光を映すと灰色じゃなくて淡い青に近いんだね。綺麗だと思った。」
これ以上言われたら、どうなってしまうだろう。胸の奥に閉じ込めていた感情の蓋が、かちんと音を立てて軋む。その隙間からこぼれた熱が、指の先、耳の裏、喉元の薄い皮の下を駆け巡り体の内側だけが火照っていく
「外、歩かない?」
思わず切り出した。ここに座り続けていたら、きっと自分を保てない。
「うん、行こうか。」
カップに残ったカフェラテを飲み干し、僕らは席を立った。レジで会計を済ませようとすると佐名が当然のようにふたつ分の代金を出そうとする。慌てて小銭を取り出し「自分の分は払う」と制した。彼は「じゃあ半分こ」と笑い差し出した硬貨の上に僕の硬貨を重ねた。金属同士が触れ合う細い音が、なぜか胸の奥で長く尾を引いた。
カフェを出ると、午後の光は少し傾き街路樹の影を伸ばす。舗道に立つと柔らかな風が前髪を揺らした。さっき掬われた感触がまだ額に残り、思わず髪を押さえた指先が微かに震える。
「このまま河川敷まで歩く?」
佐名の提案に頷く。言葉は少ないが不思議と歩幅は合った。大学の外縁を縫うように流れる小さな川は、陽光を反射して銀色に輝いていた。堤防沿いの遊歩道には菜の花が咲き、遠くで子どもが凧を揚げている。
「桜が散ったら、どんな花が好き?」
突然の問いに佐名は足を止める。佐名は空を見上げ光に透ける雲を眺めながら言った。
「菜の花とか、藤の匂いも好きだな。凪は?」
「……ツツジかな。」
「へぇ。」
「小学校の門の前に植わってて、蜜を吸って遊んでた。」
思いがけず子どものころの記憶がこぼれる。佐名は楽しそうに笑った。
「可愛いね。今度ツツジ見に行こうよ。」
言葉の端々に「今度」「一緒に」が散りばめられる。そのたびに胸ポケットに忍ばせた鼓動が跳ねる。歩きながら、僕はふと疑問を抱いた。
――なぜ彼は僕に絡んでくるんだろう。
明るくて、社交的で、誰とでも仲良くできる人が、こんな陰気な僕に話し掛け続けて何になる?
ほんの好奇心?
それとも同情?
問いは喉元まで上がってきたけれど、声にする勇気はなかった。代わりに、ポケットの中で拳を握る。指先が爪を立てじくじくと痛む。堤防のベンチに腰掛けると川面を渡る風が長い前髪を揺らした。また目にかかり、額に触れる。指を伸ばし払おうとした刹那、佐名の手がそっと僕の髪に触れた。
「やっぱり長いね。」
彼は二度目の仕草で前髪を掬い、そのまま耳にかけようとする。僕はとっさに肩をすくめ首を引いた。
「ごめん、触られるの苦手?」
「そういうわけじゃ。」
「じゃあ、何が嫌?」
真正面から見つめられ言葉を失う。緑の瞳は透明で、そこに映る自分の影が怖かった。“嫌” ではなく “怖い” のだ。そこに芽吹きそうな感情が報われない予感と共に蠢いている。
「凪」
佐名が僕の名を呼ぶ。その音色は、まるで陽だまりのなかで水滴が弾けるように澄んでいた。
「前にも言ったけど、君の目は綺麗だよ。自分じゃ気づかないかもしれないけど。」
褒め言葉が喉を通り抜け、胸の中心に触れた瞬間、涙腺がほんの少しだけ熱を帯びた。褒められることに慣れていない。肯定されることにも。
「どうして、そんなに僕に構うの。」
とうとう口を突いた。唇が震え声はかすれた。佐名は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに真剣な表情で僕を見つめる。
「凪は――僕と似てる気がするんだ。どうにもならない想いをずっと抱えてて、でもそれでも諦めきれないところ。まだ、数週間しか経ってないけど、そういうところが放っておけないって。気づくと目で追ってた。」
「なんで、何も話してないのにわかるの?」
声が掠れていた。問いかけというより、思わず漏れた心の奥の独白に近い。堤防沿いの風が少し強くなり菜の花が波のように揺れる。川面に映る春の光が揺れて目に刺さるほど眩しい。
佐名は立ち止まったまま、視線を川ではなく真っ直ぐ僕へと向けていた。彼の瞳は緑に金を溶かしたような翡翠色で、春の光をそのまま閉じ込めているみたいだ。笑ってもいない冗談でもない本気の顔。いつも軽やかに見える佐名の真っ直ぐな眼差しが胸に刺さる。
「勘って言ったら嘘になるけど。」
少し間を置いて、佐名は柔らかく微笑んだ。
「……似てるから。君と僕。」
「似てる?」
「うん。心の奥に“誰にも触れられたくない場所”がある感じとか。人と一緒にいるのは嫌じゃないけど、そこに踏み込まれたくないとこがあるっていうか……ね。」
さらりとした声で言うその言葉が、思いのほか真っ直ぐで胸の奥をじんと突いた。僕は無意識に唇を噛む。誰にも言っていないはずの自分の心の形を、彼がなぞるみたいに言葉にしていく。
「僕、そういうの顔に出てるのかな。」
「出てるよ。僕、見ちゃうタイプだから。」
佐名は少し肩をすくめて、空を見上げた。
「高校のとき、似たような人がいてね。本当はずっとその人のこと好きだった。誰にも言えなかったし言わなかった。でも、見てるとわかるんだ。孤独の隙間って同じ匂いがするから。」
心臓がドクンと跳ねた。その言葉に触れた瞬間、胸の奥で固く閉じていた記憶の箱がひび割れる音がした。
――高校時代の、あの失恋。
心の奥にしまって、なかったことにしてきた痛み。本人以外の誰にも言わず、誰にも気づかれず、ただ冷たい空気の中に沈めてきたそれが春の光に晒される。佐名はゆっくりと視線を戻し穏やかな声で続けた。
「だから、放っておけないんだよ。君のこと。」
空気がふっと止まったような気がした。春の堤防を撫でる風の音も、遠くの子どもの声も、すべてが少し遠くに霞んでいく。目の前にあるのは、まっすぐな瞳だけ。思わず視線を逸らした。その優しさが怖い。佐名の言葉が、まるで鍵みたいに閉ざした心の奥の蓋をこじ開けてしまいそうで。
「君って、ずるいね。」
「え、どこが?」
「そうやって……僕が言えないことを先に言うところ。」
小さく吐き出した言葉に、佐名はふわっと目を細めた。
「うん。たぶん、ずるいんだと思う。でも、そうしないと凪ずっと僕の外側に立ってるでしょ。」
返す言葉がなかった。いつも、誰の輪にも半歩外に立って輪の内側がぼんやりと見える距離で止まっていた。踏み込むことも、踏み込まれることも、怖かったから。佐名はベンチに腰を下ろし、手のひらをぱたんと横に広げた。
「……ね、ここ、座ってよ。」
促されるままに、隣へ腰を下ろす。肩が触れるか触れないかの距離。夕方の光が傾き川面の銀色が橙色に変わる。少しだけ冷たい風が髪を揺らし、先ほど佐名が掬った前髪が頬にかかる。
「最初から“偶然”じゃなかったんだ。」
「……え?」
「凪に何度も顔を合わせるの。あれ、全部“狙って”なんだよ。君が気づかないように、時間ずらして講義出たり、通り道合わせたり……ストーカーみたいに聞こえるかもしれないけど。」
おどけたように笑いながら言うその声には、悪びれた感じはない。少し照れたような真実味が滲んでいる。
「君が気になったんだよ。初めて見たときからずっと。」
凪は返す言葉を見つけられなかった。頬に触れる風が妙に熱い。胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
「……なんで僕なんだろ。」
ようやく搾り出した声は、ひどく弱々しい。佐名は少し間を置いて柔らかく笑った。
「なんでって言われても……“君だった”からとしか言えないんだよね。」
それは、あまりにもまっすぐな言葉だ。嘘も飾りもなく、まるで詩の一節のように淡々と心の芯に届いていく。
堤防の上、春の光の中。
凪は知らないうちに、自分の胸の奥がゆっくりと音を立て始めていることに気づいた。
――これは、始まりの音だ。
怖さと、ときめきと、痛みと、期待が、全部ひとつに溶け合った音。
彼の“偶然”は、ずっと前から、僕の世界に忍び込んでいたのだ。
茎同士が擦れる軽い音がさざ波のように続く。佐名はもう一度、今度はゆっくりと僕の前髪に触れた。驚きはしたが拒まない。指先が髪を梳き耳元へとかけられていく。僕の視界が一瞬揺れ、晴れた午後の光が直接瞳に落ちた。
「綺麗だよ。」
囁きは風に混ざり、僕の鼓膜で静かに震えた。睫毛の影が頬に映り陽光が瞳の奥へ注ぎ込む。世界が澄んで見えた。遠くで子どもが凧を揚げながら歓声を上げる。堤防の上を自転車が通り過ぎ、タイヤが砂利を噛む乾いた音を残した。
取り残されたように静かな時間。
前髪をかけ終えた佐名の指先が、まだ僕の耳のすぐ上に留まっている。ほんの数センチの距離、けれどその熱は全身を支配した。言葉を探す。けれど舌は乾き喉が鳴るばかりで呟けない。佐名はそっと手を引き、ベンチの背もたれに寄りかかった。
「今度、美容室行く?僕の行ってるところ、カット上手だよ。」
軽やかな誘い。でもその言葉の奥で何かが静かに変わり始めていると感じた。
「うん、行く。」
短い返事。だけどたったそれだけで、影絵のようだった僕らの輪郭が少しだけ満たされる。河川敷の風景は、日差しと影の濃淡でゆっくり色を変えながら続いていた。菜の花の甘い匂い、遠い水音、頬を撫でる初夏の風。そのすべての中で、佐名が投げかけた一言だけが、僕の胸でいつまでも鮮やかにこだましていた。
佐名はふいに身体を前に傾け、足元の小石を軽く蹴った。小石が舗道をコツコツと転がって少し先で止まる。その音を追いかけるように彼はぽつりと口を開いた。
「凪は僕の大学での初めての友達なんだ。」
不意打ちの言葉。あまりにも自然に、柔らかい声で、日常の延長みたいに言うから最初は意味が追いつかなかった。
「……え?」
「本当だよ。」
佐名は軽く肩をすくめ、くしゃっと笑う。
「入学して、いろんな人と話したし、サークルの先輩とかクラスの子とか、それなりに顔見知りはできた。けど、“友達”って呼びたいの凪だけだった。」
一瞬、心臓の音が大きくなった気がした。
僕の……?
僕が佐名の“最初の友達”?
まさか、そんなふうに思われていたなんて。
「僕なんかじゃなくても、もっと話しやすい人いるでしょ」。
精一杯、平静を装って返す。けれど声の奥には、かすかに滲んだ戸惑いが消せなかった。佐名は僕の言葉を否定するでもなく、少しだけ横顔をこちらに向けて言った。
「いるよ。たくさん。でも、凪は“話したい”って思ったんだ。なんでかは、自分でもよくわかんないんだけどね。」
少し照れたように笑うその表情が、夕日の光に照らされて柔らかく滲む。
「僕そんなに話しやすいタイプじゃないけど。」
「うん。全然話しやすくない!」
即答されて思わず吹き出した。佐名は肩を揺らして楽しそうに笑い続ける。
「でも、話してみたいって思うんだよ不思議と。凪ってさ、ちょっと目を離すとすぐどこかに消えそうな感じするでしょ。だから、つい見ちゃう。」
「……そんなことないし。」
「あるって。」
彼はあっけらかんとした調子で言いながら、両手をポケットに突っ込んで空を見上げた。
「僕、そういう人を放っておけないんだ。気づいたら、また君を探してる。」
その言葉は冗談めいて聞こえるのに、どこか真っ直ぐだった。視線を逸らすと夕焼けの川面がゆっくりと金色に染まっている。水面を撫でる風が頬に当たって少し冷たかった。
「……僕はさ」
ゆっくりと言葉を紡いだ。
「友達ってよくわかんないんだ。気づいたら輪の外にいて、話しかけても空気になって、話しかけられても上手く返せなくて。気づいたら誰とも深くなってない。」
思わず吐き出したそれは、心の奥にずっと沈んでいた言葉。佐名は黙って聞いていた。口を挟まず茶化さず真剣に。それが逆に少し恥ずかしいくらいだった。
「だから、“友達”って言われるのまだ実感わかない。」
「……うん。そう言うと思った。」
佐名はふわっと微笑んで、横から僕の肩を軽く小突いた。
「でも、それでもいいじゃん。僕が勝手に“友達”って思ってるだけでも」
「……勝手にね。」
「うん。だから、凪は凪のペースでいいよ。僕は僕で凪の近くにいる。」
言い切るその声は、不思議とあたたかくて、胸の奥のひんやりした部分に静かに滲み込んでいく。春の光が沈みかける時間。菜の花の香りと川風と彼の声が混ざって、妙に心に残った。
僕は“友達”って呼ばれることに、こんなにも戸惑うんだな。でも――その言葉が嫌じゃない。むしろ、少しだけ胸の奥が温かくなるのをはっきりと感じた。
「変なやつ。」
小さく呟くと、佐名は「凪に言われたくなーい」と返して笑え。その笑顔が、いつもより少しだけ近く見えてつい目を逸らした。まだ始まったばかりの関係は、友達という名前の上で、少しずつ、ゆっくりと、形を持ちはじめていた。




