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第1話 灯りは、春の匂いとともに

鴇田ときた なぎ

・受け

・18歳/大学1年生

・詩や短編を書くのが趣味。

・一見クールで感情が読めないが、実は極度に人の目を気にする小心者。高校時代に同性に告白してフラれ、以来「叶わないのが普通」と思っている。


丹羽にわ 佐名さな

・攻め

・18歳/大学1年生(ハーフ:日本人×フランス人)

・社交的でフレンドリー、少し感情表現が豊かすぎて誤解されやすい。誰とでも仲良くできるタイプだが、恋愛はからきし。

・くしゃっと笑う顔が印象的。金髪と黒髪の混じるクセ毛で緑がかった目。

・高校の時、同性を好きになって告白したが「好奇心かと思われて」拒絶された過去あり。それ以降、“誰かを好きになること”が怖い。

・凪のことを「どこか似ている」と感じて、つい目で追ってしまう

 四月の朝、桜の花弁がまだ路肩に残る静かなキャンパスを半ば俯きながら歩いていた。入学式は終わり、講義初日の高揚も不安も湿った花びらを踏む靴の裏で潰れて形をなくしていく。長い冬の底に閉じ込めていた息遣いを春の匂いが無理やり引き出してくる。だけど胸の奥は、まだ凍った池の底みたいにざらついていた。


 誰と目を合わせるでもなく、掲示板の講義コードだけを追いかける。文学部棟へ向かう道は、まるで見知らぬ街の幹線道路のように幅広く、行き交う新入生たちの会話が左右から押し寄せてきた。笑い声、方言、弾むような期待。僕だけが、まったく別の周波数で生きているみたいだ。教室に着くと適当に座った。


「ここ、空いてる?」


 振り返ると、光をはらんだクセ毛が揺れていた。金と墨が入り混じるような色合い。薄い緑の瞳を細め机に触れた指先で空席を示していた。僕は頷くだけで声を出せない。無愛想だと自覚しているし、言葉の出し方を忘れていた。


「ありがとう」


 彼はそう言って笑い隣に腰かける。そして、肩のラインで切り揃えた髪を指で梳いた。光が跳ねて淡い金の破片が宙に散ったように見える。教壇に教授が現れ受講登録の説明を始めた。教室じゅうが新生児のようにざわつく。だけど僕は半分しか聞けず、視界の端で筆を滑らせる彼の横顔ばかり追っていた。ふと視線が重なり、慌てて黒いインクのシミに目を落とす。心臓が鞄の底で跳ね返る。


 ――まずい。


 こんなふうに人を見つめたら、きっと誤解される。僕はただでさえ、人を好きになっても報われないと決めつけて生きてきた。それが同性愛だからではなく、僕の生き方そのものが誰かの光になりえないからだ。そう思ってきた。講義終了のチャイム。学生たちが波となって流れ出す中、彼ははゆっくり立ち上がり、僕に向かって「またね」と言った。僕はただ頷くしかなかった。言葉を交わしたのは、それだけ。昼の陽射しのように温かい声が耳たぶの裏に残って離れない。


 昼休み、学部棟の中庭ではサークルの勧誘が始まっていた。色とりどりのチラシが風にめくられ、上級生たちがビラを差し出すたび僕の肩が小さく跳ねる。飛び交う呼び声の間を縫って歩みながら、ふと視界の向こう側に彼の姿を見つけた。演劇研究会のテーブルの前で先輩に笑いかけられている。英語混じりのセリフ読みを頼まれたらしく、照れ臭そうに台本を受け取っていた。


「発音良すぎ!」


 上級生と盛り上がり、彼は肩をすくめて笑う。その笑みを見るだけで胸の奥の古傷がくすぐったく疼いた。近づかなければいい。目で追わなければいい。そう自分に言い聞かせる。けれど足は勝手に文学サークルの旗が立つテントの方へ向かっていた。薄い布に書かれた『詩と批評』の文字。その前に立つ女性が僕を見つけてパンフレットを差し出す。


「新入生?文章、書く?」

「少しだけです。」

「いいじゃん!初心者も大歓迎。原稿用紙三枚でも、推敲手伝うし。」


 言葉を返しながら、僕はテントの隙間から彼のテーブルを横目で探していた。演劇研究会の人ごみの中で、彼がこちらを振り向いた気がして息が詰まる。視線が重なったかどうか判別できないほど、僕の視界は霞み喉が焼けた。サークルの先輩は、入部届を差し出しつつ言う。


「今年はコラボで朗読会もやる予定なんだ。演研さんと組んでね。良かったら――」


 掌が熱くなった。まるで、運命の糸が勝手に絡みつくのを感じるようだった。演研と文学サークル。その間に立つ自分。そこに彼がいる。不意に背後から軽い声が降ってきた。


「お、君は文学サークル?」


 振り向くと、やはり彼がいた。肩越しにのぞく翠色の瞳が日差しを吸い込んで輝く。僕は息を呑み頷くことすら遅れた。


「実はさ演研も面白そうだけど、文章書くのも好きなんだ。二つ掛け持ちってアリかな?」


 先輩が嬉しそうに手を叩く。


「もちろん!大歓迎だよ!」


 彼は笑った。その笑顔を見ているだけで、僕は自分が驚くほど居場所を得た気がする。


「君、名前なんて言うの?」

鴇田凪(ときたなぎ)。君は?」

丹羽佐名(にわさな)。よろしく!」

「うん。」


 それしか言えなかった。けれど胸がわずかに熱を帯びる。凍った池の底がほんのひと欠片だけ溶け始めるように。


「じゃあさ、十号館前一緒に行かない?入学オリエンテーション。迷子になりそうで!」


 心臓が慌ただしく春風を吸い込んだ。僕は喉の渇きをごまかすように小さく息を吐き首を縦に振った。佐名は満足げに笑い、演研の先輩に「後で台本返しますね」と告げて去っていく。その背中を見送りながら、僕はパンフレットを握りしめた。白い紙に僕の汗がじわりと滲んで円を描く。


 ほんの少しだけ、世界が明るく見えた。


 もちろん、報われるなんて思っていない。そう思い込もうとしている。だけど、春の匂いの中で名を呼ばれた瞬間、胸に小さな灯りがともった。それを消さないように、そっと両手で覆い隠す。


 十号館前の階段に並んで座りながら、僕たちは大学の地図を膝の上に広げていた。講義棟、図書館、カフェテリア。佐名が指先で辿るたび、シアンのインクで印刷された線が淡く揺れた。


「ここのカフェ、クロワッサンが美味しいらしいよ。フランスの焼き方に近いって聞いたんだ」


「そうなんだ。」


「今度、行ってみる?二人で。」


 僕は地図の片端を強く握った。紙がくしゃりと鳴る。


「行かない?」

「……行く。」


 それだけで、佐名は嬉しそうに笑った。太陽が雲間からこぼれて彼の睫毛に白い光の粒を置く。


「よかった。凪って、ちょっと無愛想だけど話すと優しいよね」


「優しくなんてない。」


 思わず零れた本音に、佐名は首を傾げる。


「そうかな。僕にはそう見える。」


 彼は否定しない。僕の中の暗闇をも肯定するように軽く笑った。胸の奥で何かが軋む。それはきっと、長い間閉ざしていた扉が誰かの手でわずかに揺れた音。遠くで、アナウンスがオリエンテーション開始を告げる。人波が動き出し僕たちも立ち上がった。


 階段を降りる瞬間、佐名の指先が僕の肘に触れバランスを取るみたいに軽く掴んだ。僕の心臓はまた跳ねる。けれど彼は気づかない。きっと当たり前の仕草なのだ。でも、その当たり前は奇跡だ。誰にも触れられなかった僕の世界に風が吹き込む。その風は、金と黒が混ざる髪を揺らし緑の瞳を透かして新しい季節の匂いを連れてくる。僕は小さく息を吸った。優しい光が、まだ硬い蕾のような僕の心を撫でる。


 きっと、ゆっくりでいい。


 講義からサークル勧誘、そしてまた次の講義へ。時間軸はゆっくりと僕たちの間を歩いていく。振り向けば、翳りを孕んだ僕自身の影が佐名の笑顔によって少しだけ薄くなっていた。


 それだけで、今は十分だ。

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