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私は倉庫の片づけに慣れてくると、時々店番もさせてもらえるよう
になった。
その日は私が一人で店番をしていると、一人のスーツ姿の男性が店
にやって来た。
その男性は二十代後半から三十代前半ぐらいの年齢で、その纏って
いるスーツは皺一つない折り目がきっちり付いた上品なもので、髪
も整髪料でお洒落にまとまっていて、とてもこんな商店街の小さな
本屋には不釣り合いだった。
男性は店に入るなり、辺りをきょろきょろと窺っては落ち着きが無
く、全く本に用事があるようには見えなかった。
「あっ、近藤さん。」
たまたま店に現れた母のその男性を見る瞳には、どことなく戸惑い
の色が見られて、二人の間には独特の雰囲気が漂っていた。
「今日は、仕事を早く終わらせたて来たんです。」
そう言って男性は、母に向かって微笑む。
「はい・・・。」
「この近くに、パスタのおいしい店があるんです。 これからそ
こに行こうかと思ってるんです。」
視線を逸らす母に、男性は続ける。
「あなたと一緒に。」
その言葉を聞いた母は、俯いて何も言わない。
「今日は・・・・、一緒に行ってもらえますか?」
男性はそれだけ言うと、母を真剣な眼差しで見つめて黙って返事を
待った。
答えに窮しているのか暫く黙って俯いたままの母が、ようやく絞り
出したような小さな声で答える。
「ごめんなさい・・・。あの・・・わたし・・・だめなんです。
・・・・ごめんなさい。」
そう言って母は、逃げるようにこの場所からいなくなった。
母がいなくなたあと、男性は暫くその場所に立ち尽くしていた。
「今日も駄目だったな・・・。 どうしたら怜奈さんは僕の気持に
答えてくれるのかな・・・。」
男性は私の方に顔を向けると、独り言のようにそう言って、静かに
店から出ていった。
目の前の出来事に私の中で一つの思いが浮かんできて、鼓動を早くする。
‘今の人が、母の大好きな人?‘
‘今の人が、私の・・・・・。’
思いがどんどん強くなった私は、母の後を追わずにはいられなかった。
決して何一つ、直接確かめることなど出来る訳がなかったけれど・・・。
母を探すと、居間を抜けた所にあるこの家の庭にその姿を見つける
事が出来た。
母は庭に咲いた幾つかの花の前に屈んで座っていて、一点を見つめ
て何か思いにふけっている様だった。
私はゆっくり母に近づくと、屈んだ母の後ろまで来て立ち止った。
それでも私には、話しかける事もそれ以上近づく事も出来なかった。
私は後を追ってきた事を、少し後悔した。
暫くの沈黙の後、一点を見つめたままの母が口を開く。
「ごめんね、変なとこ見せちゃった。」
「ううん。」
私は大きくかぶりを振った。
「近藤さん、とってもいい人なの。 いつも優しく声をかけてくれ
て私を気遣ってくれる・・・・・。」
そう言う母の表情が一瞬曇ったのが、背中越しにでも分る。
「でもだめなの・・・。」
「だめ?」
「だめなの・・・。 私は・・・・・」
そう言うと母は、またしばらく沈黙する。
「バカね・・・。」
暫くぶりに開いた母の口から、零れた言葉。
「バカ?」
「うん、・・バカ・・・。」
そう言うと母は立ち上がって私の方に振り返ると、いつもの穏やか
な笑みを浮かべる。
「ほら戻ろう。 店を空にすると咲さんに怒られるよ。」
「うっ、うん。」
母が語った言葉の意味も、私が抱いた思いについても、何一つ理解
することは出来なかったけれど、私にはそれ以上何も聞く事が出来
なかった。
それから、この店には‘近藤さん’の様に母に思いを寄せる人が
幾度となく現れたけれど、母は決して誰の思いも受け入れる事は
無かった。