いのなかのかわず
現実ってこんなもんよなとおもいました。少し胸糞悪い話です。
グゥ、グゥ……
風の吹き抜ける朝ぼらけ、蛙の鳴き声が木霊する。
ここらでは朝となく昼となく、蛙の鳴き声が聞こえる。それは誰かを呼んでいるようにも聞こえて、なんだかすごく寂しい感じがしていた。
そんな蛙の声が反響する井戸をのぞき込む者がいた。
『井の中の蛙大海を知らず』
ふいに頭上から聞こえてきたそんな言葉に、俺は鳴くのを止め、剣呑な声で「何が言いたい?」と返した。
そいつの姿はここからは見えないが、どこか軽薄さを含んだ物言いが気に入らなかった。
『いや、まさにお前のことだと思っただけさ。』
そいつは、くっくっと押し殺した笑いを漏らしながら続けた。
俺にはその“井の中の蛙”、に続く言葉の意味は分からなかったが、嘲笑されている、ということだけは解った。
「どういう意味だ?」
俺がぶっきらぼうに聞くと、
『自覚もないのか。井の中の蛙とは、広い世界を知らずに、自分の周りの狭い範囲の中だけで物事を考えているということの例えだよ。』
と、そいつはさらに続けた。
『まぁ、例えだけじゃなく、お前は本当に井の中の蛙みたいだけどな。』
確かに俺は文字通り、井戸の中に住む蛙だった。
『お前はそこから出たことはあるのかい?』
「いや、ない。」
俺は冷たく暗いこの井戸の中で生まれ、今までずっと生きてきた。
最初の頃は他にたくさん仲間も居た。
しかし、年月を経るごとに一匹、また一匹と井戸の外へ出ていき、今ではもうここにいるのは俺一匹になっていた。
『そこから出たいとは思わないのか?』
と聞く声に、俺は「思わないね。」と即答した。
『どうして?』
「外に出て行った仲間が帰ってきたとき、誰かが居なくちゃ寂しいだろう?」
俺がそう言うと、上から聞こえる声は少し考え、
『お前がそこから出てその仲間に会いに行こうとは思わないのか?』と聞いてきた。
「思わないよ。その上がどうなっているのかは知らないが、俺がみんなを見つけるよりもここで待っていたほうが確実だろう。」
蛙は強情だった。
さすが、仲間がみんな出て行っても、ただ一匹で井戸の中に住み続けているだけある。
声の主は、また少し考えて言った。
『あのことわざには続きがあるんだ。』
「ほう?」
俺はまあ聞いてやろうと再度顔を上げた。
『井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。』
俺は、声のする方、上にぽっかりと空いた穴を眺めた。
吹き抜ける風が雲を流し、その隙間から群青色が覗く。
いつも眺める景色であり、いつも違った景色に見えるそれの、さまざまな表情を俺は知っていた。
「まぁな。空の青さは、俺が誰よりもよく知っている。」
少し得意気に言った俺を、そいつは笑った。
「何がおかしい?」
俺はまた怒気を孕んだ声でそいつに聞くと、そいつは未だ笑いながら、『空の青さなら、間違いなく私のほうがよく知っているからさ。』と言った。
「なぜそう言い切れる?」
そう噛みついた俺に、そいつはまたさらりと答えた。
『私が空を飛べるからさ。』
「空を?」
『あぁ。私は空を飛ぶことができる。お前も見たことがあるだろう、空に羽ばたく私の仲間を。』
見上げた青い空の上で、雲よりも速く流れゆく不思議な形の生き物を、俺は確かに何度も見たことがある。
『私は空から、昇る太陽もそれが沈み行く様も見たことがある。日の出と日没の合間、地平線のあわいに生まれる幻想的な色彩を、お前は知っているのか?』
喉からグゥ、とも声が出ない。
自分がここから眺めている空とは、丸く切り取られた、たった一部だったのだ。
ここから出た先の世界は、どうやらここよりもずっと大きく広がっているらしかった。
そいつはさらに続けた。
『私は青い空を飛び、それを近くで眺めながら、流れ行く雲をどこまでもどこまでも追いかけたことがある。それが流れ着く先を知っている。私の方が君よりも空を知っているし、その青さもよく知っているのさ。』
おそらくそいつは得意気に胸を反らしていると、声色からわかる。俺は悔しさに歯噛みしながらも、気になったので聞いてみた。
「青い空に浮かぶ雲は、最後にどこまで辿り着く?」
そいつは当たり前のことを言う調子で、
『海さ。』と答えた。
『雲はどこまでも流れ行き、やがて地上へ降り注ぎ、いつか海へと辿り着く。』
「その海とは何だ?」
そう聞いた俺を、そいつは遂に転げるほどに笑い出した。
『正に、正にお前は、“井の中の蛙”だよ。本当に大海を知らないとは。誰とも知れない人間の言葉だったが、いやはや、これは面白い。この目で実物を見れるとは。覚えておいて正解だった。』
蛙は、心底愉快そうに嘲笑するそいつの声に耐えられなくなり、そいつの声が聞こえなくなるくらいに、深く深く井戸の底に潜ってしまおうか、と考えた。
暗く、深い井戸の底は、いつものように肌に馴染む冷たさと安心感をもたらしてくれるだろう。
俺はそこから空を見つめ、いつものように首を反らせて鳴けばいい。
仲間の帰りを願い、ただ一匹で、この狭い井戸の底で。
いつまでも、いつまでも…
嫌だ。
俺は唐突にそう思った。
いつまで自分は仲間の帰りを待っていればいいんだろう。
10も100も容易に超える数の夜空を見上げた。
それでも誰一匹と、帰って来ることなんかないじゃないか。
こんな暗い井戸の底になんて、結局誰も戻りたくないに違いない。
みんなきっと、広く明るい世界で、楽しく歌っているのだろう。
俺のことなんか、すっかり忘れてしまったのだろう。
俺は孤独を強く感じた。
毎日毎日首が痛くなるまで空を眺め、空に向かって仲間を呼び続けることが、とても無意味なことのように思えた。
自分の価値も存在も、産まれ育ったこの場所さえも、何もかもがちっぽけでしょーもないもので、外の世界こそが素晴らしい場所なのではないかと、漠然とそう感じた。
先に出て行ったみんなに、俺はただ置いていかれたのだ。
そいつは意気消沈した俺に言ってきた。
『もしもお前がそこから出たいと望むのであれば、私は手助けしてやろう。そら、』
そいつは、一本の植物の蔓を俺に投げてよこした。
俺は、その蔓を眺めた。
ただ知りたくなった。
これを辿った先にある広い世界について、そして、青い空について。
仲間たちが次々と飛び出して行ったその世界について。
俺はそいつが下ろした蔓に掴まり、外を目指した。
一歩進むごとに空の青さが広くなっていく。
その度に自分が何やら高尚なものに近づいているような気がして、なんだか気分が高揚した。
そうして縁まで登りきり、俺は初めて外の世界へと踏み出した。涼やかな空気が湿った俺の肌を撫で、差し込んだ光が俺の視界を照らした。
あぁ、こんなにも世界は広かったのか…俺が感動したとき、
急に世界は暗転した。
最期に俺が感じたのは、つるりとどこかへ滑り堕ちる感覚だった。
一羽の鳥は空を仰ぎ、にやりと笑って呟いた。
『胃の中の蛙大海を知らず。
されど、お前の血肉は我が肉体となり、その魂は天へと昇り、お前は空の青さを知るだろう。』
なーんてね。
その言葉に答えるものはいなかった。
日の光に照らされた生き物や植物たちが活動を始め、一匹の蛙の鳴き声が消えたことも、もう気づかれることはないだろう。
一羽の鳥は満足そうにぺろりとくちばしを舐め、青い空の彼方へと消えて行った。




