望んでいない用心棒
「……ちゃぁん。ルーチェちゃぁん!」
「えっ?」
いきなり呼ばれたことにルーチェは驚き、座っていたカウンターチェアから転げ落ちそうになる。とっさに木製のカウンターテーブルに両手を置き、右足を床についてふんばる。今にも落ちてしまいそうになりながら、ルーチェはにらむように視線を動かす。
ルーチェの視線の先には一人の顔がある。
パッと見は男か女かわからないような顔。男といわれればそう見えるし、女といわれても、納得してしまうだろう。見分けがつかないほどすっきりとした顔立ちをしている。
「起きてるぅのぉん? ルーチェちゃぁん?」
大きな茶色の瞳がルーチェをのぞき込んでくる。しかし、その瞳は決して鋭いものではなく、包み込んでくるような穏やかなもの。ルーチェはにらむのを止め、カウンターチェアに座りなおす。
「目なら覚めてるよ。マスター」
冷たい声がルーチェの口からゆっくりと流れ出てくる。
二人の間の時間がわずかな間だけ凍りつく。柔和だったはずのルーチェをのぞき込むマスターの視線が先ほどまでのルーチェの視線と同じように鋭くなった。しかし、それもほんの一瞬のことで、すぐに元のものへと戻る。
「なぁら、よかったぁん。で——」
ルーチェの視界が目の前のマスターの顔でいっぱいになる。今一度鋭くなった視線。ルーチェはその変化に思わず体を後ろに引こうとする。が、彼女が着ている暗赤色のレザージャケットの胸倉が引っ張られる。距離を空けることができず、視界は変わらないまま。
「目、覚めてんなら、アレどうにかしろ……」
親指で自分の後ろを指すマスター。視線をずらすことを許されていないと感じていたルーチェがじっとマスターを見ていると、マスターがあごで合図を送ってきた。ルーチェは突き刺さる視線をゆっくりとずらしてマスターの後ろを見る。
店内は天井に埋め込まれてる照明からオレンジ色の光が降り注いでいた。同じような明るさが並び、店内全体を緩やかに包んでいた。照明の下には、いくつかテーブルが並び、囲むように座っている人たち。テーブルの上には、いろいろな料理がのった皿に、飲み物が入ったコップやグラスが見える。各々がテーブルを囲んで、食べたり飲んだりしながら談笑していた。天井近くの壁に一か所だけ、ディスプレイが設置されていて、そこにはネットワーク上で流されているものが映し出されていた。
店内のテーブルの中で一か所だけ、あきらかに異質な空気を出しているところがあった。男が二人。似たような背格好。イスの背もたれに背中を預け、足を組んで座っているのも同じ。違いといえば、二人ともが着ているスーツの色が暗青色と黒灰色であるという違いくらい。よく見れば、二人のテーブルにはグラスが二つに何か小さな欠片のようなものがのっている状態。はたから見たところで、この店にくるようなタイプには見えなかった。つまり、普通に見えた。しかし、それよりも二人の表情が険しく、すぐにでもつかみかかりそうにみえた。
「あれをどうにかしろ、と?」
「そうよぉ。多分ん、もうちょっとしたらぁ、つかみかかるかぁ、なにかはじめるからぁん」
耳元でしゃべる口調が元に戻ったマスター。
マスターのいうことはいつも当たっていた。数多くの人を見てきたマスターの人を見抜く目と空気を察知する力はとんでもないことをルーチェは十分なほどに理解している。
「だからぁ、どうにかしてねぇん、ルーチェちゃぁん。……ちなみにぃ、わたしはぁちょっと通信してくるわねぇ。さっきぃ、入ってたからぁ。」
ねっとりとしたオネェ口調で話しながら、通信端末を持つマスターが通信相手と話し始めた。マスターのことを無視して、ルーチェは静かに立ち上がりじっと客を見る。周囲の客は変化に気づいていなかった。聞こえないほどの小ささでため息をもらす。ゆっくりと様子を伺いながら、歩くことをルーチェは選ぶ。消炭色のズボンと黒のブーツに包まれた足を動かす。足音がわずかにルーチェの耳に届くが、店の中のにぎやかさに溶けていく。数歩進んだとき、変化が起こった。