失ったもの 3
痛みと熱が襲いかかってくる。
意識を取り戻してから、毎日のように痛みと高熱に弄ばれている。特に右腕と右の腹部にかけてはすさまじく、痛みだけでなく、かゆみすらもあらわれ、どうすることもできずにただ耐えるだけ。
ルーチェの体で自由に動かせるのは再び目だけになる。どれだけか前に一度、頭を動かそうとしたルーチェだったが、横になっている状態のままめまいに襲われたため、体を起こすこともできない。なのでそれからはただじっとして、視線だけを動かす。しかし、そこから見えるものは、真っ白な天井と壁に埋め込まれた間接照明の光。それと窓から見える外の景色。
そこからは、黒に近いような雲がみえている。窓全体に広がったそれからは今にも落ちてきそうなほど。
ルーチェはみることしかできない。起き上がることも、手を伸ばすこともできない。
いや……まだできることはあった、とルーチェは、言葉にせずに答える。
ごく小さな音でドアが開き、わずかな空気の流れが起きる。
誰かが入ってきた。ただ、入ってきたのが、いつも世話をしてくれている人ではないことだけはルーチェにはわかった。
「…………れ?」
口を動かそうとするが、乾ききっていた舌は歯の裏にはりついている。のども弱っているようで、まともに話せず、言葉がひっかかり、よくわからない声だけを出してしまう。
足音もなく、誰かは近づいてくる。
どこか動かせないか。目を閉じて思考を巡らせつつ、体のそこかしこに力を入れる。が、ルーチェの思い通りにはならず、どこも動くことはない。
ピタリと、近づいてきていた気配が動きを止めた。
「ルーチェ……大丈夫ですか?」
聞き慣れた声がルーチェの耳に届いた。それは探るようなものにもきこえた。
頭は動かせない。目を開き、視線だけを声のした方へと向ける。
ルーチェを見下ろすようにしている男性がいた。その男性のことをルーチェは知っている。彼だとわかったことで、ルーチェは動かそうとしていた力を抜き、一か所に集中させる。
「ポ……」
それは上手くはいかない。口は張り付いたまま、上手く動かすことができない。見下ろしてきていた男性が顔を近づけてきた。細い横長のフレームのメガネとキレイに整えられた口ひげがはっきりとみえる。
口ひげが上下に動いた。
「無理に話そうとしなくていいですよ。少し待ってください……」
そういった男性は、ルーチェの周りにあるものを触り始めた。やがて、機械的な呼び出し音がきこえてきた。
「どうしました?」
女性の声がきこえてきた。どこかにあるスピーカーを通してだろう。その声はくぐもって聞こえてきた。
「すいません。ルーチェさんが何か話そうとしているようなんです。ですが、上手く話せないようで。こちらで何か間違ったことをするよりはお願いした方が良いかと思いまして、ナースコールを押させてもらいました」
丁寧な口調で告げた男性。
「……あんまり負担のかかることは控えていただきたいのですが……わかりました。今、そちらに行きます」
「よろしくお願いします」
スピーカーからの女性の言葉に、男性は変わらない口調で答えていた。
返事を聞いてなのか、スピーカーの向こうから小さなため息が漏れ、直後、ブツンと切られた。
その対応を聞いていた男性がどんなリアクションをしていたのか。ルーチェは気にはなったが、その表情をうかがい知ることもできないので、仕方なくまぶたを閉じてスピーカーの向こうの人がくるのをじっと待つ。
音がなくなる。
男性もまた何も話しかけてこなかった。
静かだ、と思った時、ドアが開く音がした。今度は大きな音とともに。その音にはドアを開けた人間の感情も乗っているようだった。
「すいませんが、ナースコールは患者さんが困ったときに使うものです。ですので、このような呼びつける使い方は困ります」
女性の声が飛び込んできた。ルーチェはその言葉に反応するようにまぶたを開く。
「申し訳ございません。先ほどもお伝えしましたが、何かを話そうとしていたのでお呼びした次第です」
「わかりました。それじゃ、今回だけですからね。……ったく、暇じゃないっての……」
男性の言葉だけでなく、女性の小さな悪態まできこえてきた。ルーチェは反応をすることを選ばず、ただ、じっと女性を目で追う。マスクをつけ、見えているのは目から上だけ。そのマスク越しに小さくため息をついていた。
「ルーチェさん? わかりますか? 何かおっしゃりたいことがあるということですが、話せますか?」
女性はルーチェの目をじっと見ながら声をかけてきた。
「あ…………」
「……口の中が乾燥しているみたいね。ルーチェさん、少し待ってもらえますか?」
ルーチェの反応を待たずに、視界から消える女性。どこからか水の流れる音が聞こえ、やがてその音は止まる。ほどなくして、女性がルーチェの視界に現れた。
「ルーチェさん、失礼しますね」
言い終わるよりも早くルーチェの口が女性によってこじ開けられていった。カチリと音がして、口元からまばゆい光が飛び込んでくる。どこからの光源なのか。ルーチェはわからず、しかし、動くこともできない。
「……やっぱり、乾燥して粘膜が張り付いてる。少し冷たいですよ」
今度は言い終わってから動き始めた女性。何かを口の中に入れ始めた。何の刺激かわからず、反射的に口を閉じようとしてしまう。
「噛まないで! 開いたままにしていてください!」
鋭い声が響いた。何かが口の中、歯の表も裏も舌も、果ては頬の裏や口の天井までもまんべんなく、何度も這いまわっていた。
「あっ、ゴホッ!」
「タンも出たわね。……結構粘っこいわね。大丈夫ですか? 話せますか?」
口の中から何かを引っ張り出した女性が、ルーチェをのぞきこみながら問いかけてきた。
ルーチェは反射的に首を動かそうとしたが、あのめまいを思い出し、唇を動かしてみる。
「だ……だいじょう、ぶ、です」
「ふん。話せるようになったみたいですね」
言って、視界から消えた女性。
「それでは、私はこれで」
たたきつけるような足音を残して歩いていく女性。ドアが開く音がした。
「あっ、それと」
女性の声が今一度聞こえた。
「話せるようになったとはいえ、患者さんに負担をかけないようにお願いします。面会は手短にしてください!」