8.5話 ノエル
ノエルは獣人族の村で何不自由なく暮らす、幸せな少年だった。人間以外の動物の特徴を持ち、その能力も得た、肉体の強い人種。それが獣人族。
だが、人と獣の特徴を持つせいで、ノーマル――人族からはあまりよく思われていないらしい。亜人という呼ばれ方もする。
そのため人族からは離れた場所に集落をつくって暮らしていることが多い。ノエルの生まれた村もその一つだ。
「昔は魔族さまがたくさんいて、獣人も生きやすかったんだけどねぇ」
「……魔族さま?」
「そう。女だったら魔女さま、男だったら魔法使いさまって呼んでたらしいよ。魔族さまは魔力が豊富で、肉体が歳をとらなくてね。私たちよりずっと長生きなのさ。その分知識も蓄えていて、人種の差別もしない。獣人は魔族さまに仕えるのが栄誉だった時代があったんだよ」
親からは「魔族さま」の話をよく聞かされていた。五百年ほど前、竜との戦争で魔族はたった一人を残して滅んでしまったという。
それまでは魔族はたくさんいて、そんな魔族に仕えられた獣人は大事にされて幸せだった。魔族がいなくなり、獣人を差別する人種ばかりになって、獣人は生きづらい世界になってしまったらしい。
その魔族の生き残りは現在、国王に仕えているので獣人がお目にかかれることはないだろう、という話だった。
(魔族さま……魔女さま、魔法使いさま。会ってみたいなぁ)
ノエルはそれから集落の大人たちに魔族の話をよく聞くようになった。
例えば彼らは一種類の魔法を極める傾向にあり、その極めた魔法の名前で呼ばれていたこと。本名を明かすのは本当に信頼された者だけで、ほとんどの魔族は一生名前を明かさなかったという逸話があること。
話に聞く魔族はとても魅力的で、もうたった一人しか残っていないということが寂しく思え、しかしその一人にいつか会えるかもしれないという希望も持てた。
そんなノエルの平和な世界は、突然始まった死の病の蔓延により終わりを告げた。
次々に集落の人間が死んでいく。大人も子供も関係なく、本当に突然皆死んでいった。一週間も経てば、生き残ったのはノエルを含めて十人もいなくなっており、残った者も皆、病を恐れて村を出た。
両親も死んでしまい、ノエルも村から逃げ出した。しかし自分もすでに病に侵されている。何かを食べようにも体が受け付けず吐き出してしまい、水すら飲めない。
(もう、だめなんだ……)
体が弱り切った時、獣人としての生存本能が目覚めたようで、体が獣化した。ノエルの家は狼の獣人だったので狼の姿へと変わったようだが、いまの弱り切った状態ではその能力も活かせない。
地面に倒れ込み、衰弱して動けず、あとは死を待つだけ。そんなノエルの視界に、ランタンのような光が映り込む。
(……だれ……)
誰かがノエルの体を抱き上げた。獣の姿でも動き回ったし、地面に転がったので汚れているはずなのに、そんなノエルをためらいなく、優しい腕に抱え込む。
薄明りに照らされたのはとても美しい女性。ビー玉のようなツヤツヤの黒い瞳が、ノエルを静かに見下ろしている。
(……きれー……つくりものみたい……)
いつだったか、行商人が売り物として持っていた、精巧な人形のよう。彼女はどこからか棒を取り出してノエルに咥えさせると、自分も反対側に口を付けた。
するととても甘い液体が口の中へと流れてくる。
(なんか甘い……ジュース、かな……俺が自分で飲めないから……わざわざ口に含んで飲ませて、くれてる……? でも……)
また吐いてしまう――そう思ったが、不思議とその液体は飲むことができた。しかも飲んだ途端に体が軽くなったように感じる。倦怠感も、吐き気も、寒気も遠のいて、ただひたすらに眠い。
(……助けてくれた……? ……もしかして、このひとが……魔女、さま……?)
この世界で唯一生き残ったという魔族、その人ではないのだろうか。だって、汚い獣人の子供ですら優しく抱き上げて助けようとしてくれる。そんな人は、獣人を差別しない魔族にしかいないはずだ。
魔女の腕に抱かれ、ゆりかごの中にいるかのように優しく揺られているうちにノエルは眠ってしまった。目を覚ますとそこには、自分を助けた美しい人の笑顔があった。とても嬉しそうに、にっこりと笑って、目を覚ましたノエルを見下ろしているのだ。
「……あの……あり、がとう……ござい、ます」
お礼を言ってみたが、彼女は笑顔のまま黙ってノエルを見ている。何故そんなに見るのだろう、と思って気が付いた。
(ふ、服……! 脱げたんだった……!)
獣へと変化した後、服は形が合わずに脱げてしまい、それを気にする余裕もなくて置いたまま歩き続けた。今自分は全裸なのだ。それを見られていることに気づき、羞恥のあまり体を丸めた。
そうしていると女性は両手を、まるで編み物でもするように動かし始めた。編み棒も毛糸もないのに、その手の中で服が編まれて出来上がっていく。
(これ……魔法……!?)
ノエルの背丈に合った服があっという間に出来上がった。彼女は微笑んだままその服を差し出してくる。どことなく草の香りがするので、この服は植物から作られているのだろう。彼女は今、植物を操って服を作り出したのだ。
「……今のは……植物を操る、魔法ですよね……? あなたは、やっぱり……魔女さま……なんです、か?」
何度も夢に見た、自在に魔法を使う魔族の姿。熟練の魔族は、呪文の詠唱すらも必要ないという。興奮して言葉が拙くなってしまったが、彼女は笑顔のまま頷いた。
(魔女さまだ……! 本当にいたんだ!)
魔女からもらった服は、シンプルだったけれど何よりも美しい宝物に思えた。しかし自分はとても汚れていて、とてもではないがこの服を着られる状態ではない。……せっかく作ってもらった服を、汚してしまう。
そう思っていたら魔女はノエルを手招きし、川辺へと連れて行った。気が付くと魔女の手には、スポンジのような植物が握られている。……これで体を洗え、ということだろう。
(……魔女さま、いなくならないかな……?)
川の中で体を洗いながら、心配になって魔女の姿を探す。しかし彼女はどこへ行くこともなく、川辺で焚火を作ってくれていた。
その焚火の作り方も独特だ。見たことのないような植物を操り、それが勝手に燃え始めた。
(この魔女さまは植物の魔法を極めた人なんだろうなぁ……魔女さま……名前、なんていうんだろう?)
ノエルが体の汚れを丁寧に落として川から上がると、彼女は火の傍で待っていて、持っていた布で優しく水気を拭いてくれた。……本当に、獣人に対する差別心はないらしい。優しい人だ。
「魔女さま、俺……ノエルっていいます。魔女さまは……」
名前を呼んでほしいし、呼びたい。そう思って尋ねた後、困ったように顎に指を添えながら小さく首を傾げた姿を見て、思い出した。
魔女は本名を明かさない。明かすとすれば、本当に信頼した相手だけだと。優しい魔女は死にかけの獣人を見かけて助けただけだ。名前を明かすような関係ではない。慌てて謝った。
(この人は植物を操るから、植物の魔女さま? でも……花がとても似合うから……)
かぐわしい花の香りを纏う、たくさんの花を身に着けた美しい魔女。「花の魔女」と呼ぶのがふさわしいだろう。
親切な花の魔女のおかげで、ノエルは命を拾った。しかし。
(……帰るところも……家族も、もういないんだ……)
村は滅び、家族は死んだ。助かっても今までのようには生きられない。この優しい魔女なら、頼み込めばノエルを従者にしてくれないだろうか。
(もう、それ以外の生きる方法なんて、思いつかないし……頼んでみよう)
帰る場所も家族もない。恩返しもしたいから、魔女さまに仕えさせてくれないか。そう言いたかったのに、悲しみがこみあげてきて上手く言えない。
しゃくりあげながら泣くノエルを、魔女は優しく抱きしめてくれた。その手が慰めるように、頭に乗せられる。見ず知らずの獣人の子供にここまで親切にしてくれる人が、他にいるだろうか。
(俺……かならず、貴女の役に立って……恩返し、します……っ)
声にならない誓いを立てながら、優しい魔女のぬくもりに包まれてしばらく泣き続けた。
そして泣き止んで顔を上げようとした時、頭の上に乗せられていたのは手ではなく、彼女の大きな胸であったことに気づき、顔から火が出そうになった。
(手だと思ってた……胸ってそんなに柔らかいものじゃないんだな……)
ダイコンで出来た偽乳だからね、クッションで包んで誤魔化してても脂肪のように柔らかくはならない。
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