第十二話 失われた記憶を求めて
窓辺には薄いカーテンが揺れ、外からは通りの喧騒がかすかに聞こえてくる。その日の夕暮れ、ロイドがアストリアの部屋を訪ねると、アストリアは笑顔で出迎えた。
「ロイドさん……」
二人で食事を取っていると、アストリアがじっとロイドを見つめながら、口を開いた。ロイドは食事の手を止め、顔を上げた。
「どうした?アスタ」
「少し、話を聞いてもらえますか?」
ロイドは椅子に座り直し、彼女の目を見て向き合った。
「もちろん。何の話だい?」
アストリアは一瞬目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。
「少しずつなんですが、いくつかの景色が思い浮かんだんです。まだ全部を思い出せたわけじゃないんですが」
「どんなことでもいい。話してごらん」
「えっと……まず、いつも私を気にかけてくれていた男性の姿が、また浮かんできました。とても優しい人で、私は彼に、贈り物をしようとした記憶があるんです。」
ロイドは少し眉を上げた。
「贈り物? どんなものを?」
「赤いルビーの付いた、ペンダントでした。それから、思いを込めて何かを書いた、紙の束を……でも、何を書いたのかまでは思い出せなくて」
ロイドはしばらく黙り込んだ後、慎重に尋ねた。
「その男性が誰なのかは、思い出せる?」
アストリアは首を横に振った。
「名前も顔も、はっきりしません。ただ、すごく大事な人だったということしか……」
「贈り物をする関係なら、君とすごく親しかったんだろうね。家族か、友人か、あるいは……」
ロイドは咳払いをして、言葉を続けた。
「……あるいはその、なんだ、お互いに愛し合う関係だったのかもしれない。でも、その人が誰なのかも分からないんでは、何とも言えないよ」
「そうですよね。それから、もう一つ思い出したことがあるんです」
アストリアは力を振り絞るように言った。
「すごく大きな、お城みたいな建物で暮らしていた記憶です。部屋はすごく広くて、窓からは花でいっぱいのお庭が見えて……」
ロイドはアストリアの話を聞いて、首をかしげた。
「君が、そこに暮らしていたと?」
「たぶん、私が育った家なんだと思います。でも、それがどこなのかは、思い出せないんです。私が病気で寝込むと、その男性がいつもお見舞いに来てくれたことを覚えています。」
ロイドは目を細めて彼女をじっと見つめた。
「大きな家で育った? やはり君は、もともとは裕福な家庭の出だったということかな?」
「わかりません。そうだったのかもしれません。でも、何もかもがぼんやりしていて……」
アストリアは言葉を詰まらせ、申し訳なさそうにうつむいた。ロイドはため息をついた。
「断片的な記憶だけじゃ、はっきりしたことは言えない。記憶が正確かどうかも、確かめようがないしね。その話だけで、君の身元を特定するのは難しい」
アストリアは俯いたまま小さく頷いた。
「そうですね。私も、自分が何を思い出したのか、はっきりしなくて……」
ロイドはしばらく彼女の沈黙を見守り、やがて静かな声で言った。
「記憶が全部戻らなくても、今ここにいる君は変わらない。だから、焦らなくていいんだよ。少しずつでいい。」
アストリアはその言葉に、少し救われたような気持ちになった。
「ありがとうございます。ロイドさんにこうして聞いてもらえるだけでも、心が軽くなります」
「私ができるのは、それくらいだ。それで、君が本当の自分を見つける役に立てるなら、光栄だよ」
アストリアは小さく笑みをこぼしながら、話題を変えた。
「……ところでロイドさん、あの音楽は、なんですか? ここにいると、夜遅くまで聞こえます。音楽を聞いてるうちに、少しずつ、いろいろ思い出してきたんです……」
それは近くの酒場から漏れ聞こえる、バイオリンやギター、アコーディオンやピアノなど、出入りの演奏家たちが奏でる雑多な種類の楽器音だった。
「私、音楽が聞ける所で、働いてみようかなと思って」
アストリアの意外な言葉に、ロイドは狼狽して答えた。
「あ、あれは……酒場の音楽だよ。酔っ払いがたくさんいる所だ。君がもし、本当に上流家庭の出身なら、あそこで働くのは向いてないと思うが……」
ロイドの言葉に、アストリアは悲しそうな目を見せた。ロイドは「しまった」と思った。彼女がせっかく、やる気になっているのだ。その芽を先回りして摘むのは、何かが違うと思った。
「……いや、君の意志を尊重しよう。だが、仕事は体力的にもキツいものになると思う。酒場にも、雇う人間を選ぶ権利がある。ダメだったら、潔くあきらめるんだ。いいね?」
ロイドは、そう言い直した。アストリアの表情は一転して、パッと明るくなるのだった。
次回、バイト面接!




