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セッション8.ナカモトの破滅

「どういうことなんだ」

 隣で男が声を荒げた。瞳が血走っている。目の下には深い隈が刻まれ、髪はボサボサに乱れていた。

「どうした、何があった」

 自分が声を発した。意識とは別に勝手に声がでた感じがした。

「消えました、すべて。残高はゼロです」

「消えてしまう訳はないだろう。セキュリティは完璧なはずじゃないか」

「それではご覧になってください」

 男はそういってパソコンのディスプレイを自分の方に向けた。

 確かに通帳の残高は「0」になっていた。

「消滅しました。何もかも。もうお終いです」

 男は頭を抱えた。なぜか自分も足元の力が抜け、その場にへたり込んでしまいそうな気分になった。


「おい、大丈夫か」

 急に場面が変わった。目の前では先ほど取り乱していた男がベッドに横たわっていた。自分は男を抱き起し、盛んに揺さぶっている。

「目を開けろ、おい」

 男は全く反応しなかった。首筋に指を当ててみた。体は温かったが脈はなかった。

「そんな…」

 ベッドサイドに目を遣ると、睡眠薬の小さな瓶が目に留まった。中身が半分以上なくなっている。蓋は床に転がっていた。

 必死に心臓マッサージをしたが、男は目を開かない。

「死ぬな、死ぬな、馬鹿野郎」

 涙で視界がぼやけてきた。男に馬乗りになった自分は、涙と鼻水をまき散らしながら、何度も何度も心臓マッサージを続けた。


「社長」

 後ろから不意に声を掛けられた。振り返ると、喪服姿の社員がいた。まもなく取締役への昇格を言い渡そうと考えていた管理職の男だ。仕事ぶりが見事で、何かと目をかけ、ここまで引っ張りあげてきた。

「お話しがあります。少しで構いませんのでお時間をいただけますでしょうか」

「こんな時にか、明日ではいけないのか」

「告別式まで1時間以上あります。お話はすぐに終わりますので…お願い致します」

「分かった」

 線香と菊花の香りに満ちた斎場の大広間を出て、小さな部屋に移動した。会議用のテーブルとパイプ椅子という殺風景な小部屋だった。テーブルの上に茶菓子が載っていた。2人は粗末なパイプ椅子に掛け、向かい合った。

「それで話というのは何だね」

 管理職の男は少し間を置いて口を開いた。意を決して話しているといった感じがした。膝に置いた手に力が入っている。

「会社を辞めさせていただきたく存じます」

「何? 辞める」

「はい。社長にはこれまで目をかけていただき、大変よくしていただきました。このような時期に…本当に申し訳ございません」

「唐突にどういうことなんだ。理由を聞かせてほしい」

 管理職の男は下を向いた。しばらくの間、じっとそのままの姿勢だったが、やがて顔を上げた。瞳に何か決意のようなものが宿っていた。

「副社長がお亡くなりになる原因となった暗号資産の消失で、わが社の行く末が見えなくなったというが主な理由です」

「…」

 返す言葉がなかった。それは自分が最も痛切に感じていることだ。消失してしまった暗号資産の総額は、会社の内部留保と限りなく等しかった。キャッシュフローは停止し会社は開店休業状態に陥っている。この葬儀は束の間のモラトリアム。終了後には借金取りが押し寄せる。当然金策に走らなければならないが、失われたものは余りにも大き過ぎる。これからどうなるのか、それは社長である自分にも見通すことができなかった。しかし、社員にその不安を見せることはできない。

「それは何とかする。必ずだ。これまで頑張ってきたのに、今、会社を見捨てていくというのか」

「私はこの会社が好きです。働くことに生きがいを感じておりました。ですが、私にも家族がおります」

 男は再び下を向いた。

 男の家族は知っている。何度かホームパーティーに招いたことがあったからだ。美しく朗らかな妻に、聡明さをたたえた娘、確か中学生くらいだったはず。幸せを絵に描いたような家族だった。社員が幸福な家庭を築いていることを目の当たりし、自分が経営する会社がそのような幸福をもたらしたひとつの要素となっていることに、経営者冥利を感じたのをはっきりと覚えている。

「家族を沈みかけた船に乗せておく訳にはいかないということだな」

 自分でも驚くほど落胆した声を絞り出した。管理職の男は椅子から立ち上がり、低頭した。

「本当に申し訳ございません。ご恩は一生忘れません、社長」

 男の瞳からは幾粒もの涙がこぼれ落ち、床のカーペットに黒い染みをつくった。


 また突然場面が変わる。広いオフィスの最も上席のデスクに腰掛け、誰もいない机の群れを眺めていた。つい1カ月ほど前まではたくさんの社員がここにいた。たくさんと言っても100人に満たない中小企業だが、公私ともに充実した社員たちで活気に満ち溢れていた。会社の業績は成長の一途で、自分も社員も前途には大きな期待しか抱いていなかったように思える。社長室に閉じこもることなく、社員が精力的に動き回る様をここから眺めるのがとにかく楽しかった。


 だが、あの日、全てが失われた。

「交換所のセキュリティがいい加減だったのですね。運が悪かったとしか言いようがない」

 副社長の葬儀で旧知の会社経営者は面と向かってそう吐き捨てた。

 自分の会社は世界を相手に取り引きを展開していた。それぞれの国の銀行を通して送受金していたのでは、時間も手数料も莫大になってしまう。インターネット上で短時間に決済できる暗号資産はビジネスを効率化させる絶好のアイテムだった。為替相場の影響を受けないことも財務上好ましかった。実際、会社の財産をほぼ全て暗号資産に移行してから、ビジネスの効率は格段に向上し、成長のスピードは一気にアップした。

「それにしても、資産を全て暗号化するとは、思い切ったことをしたものですね」

 その経営者は暗に自分のやり方が甘かったと言いたかったのだろう。しかし、本当に悪いのは誰か。それは会社の暗号資産を収奪した奴らではないのか。この優れたシステムに巣食う寄生虫のような人間たち。

 真っ当なビジネスがそのような寄生虫に食い荒らされていく。奴らは、自分のため、愛するもののため、精一杯働く社員たちの生活基盤を破壊し、ささやかだが掛け替えのない幸せを奪ってしまった。

 暗号資産が失われるという事態に見舞われたのは、自分の会社だけではなかった。世界中の何千、何万という法人、個人が貴重で膨大な資産を一瞬にして喪失した。手数料の安さで売っていたこの交換所は今回の失態の翌日、ユーザーに説明することなく自ら業務を停止した。事実上の閉鎖だ。誰が交換所を運営していたのか、その姿を知る人は少ない。責任を放棄してネットの深い海の底へ夜逃げ同然で失踪した運営者の行方を探ることは不可能に近かった。取引台帳を記録しているノードはネット上に分散されている〝不特定多数〟で、真相の究明や喪失資産の回復に当たっては全く頼りにはならなかった。大きな事件として報道されたので、一応警察も動いてはいたが、この世界では警察より悪者のレベルの方が遥かに高い。自分に残されたのは泣き寝入りしかなかった。

 事前の忠告を無視し、資産のほぼ全てを暗号資産に移した中小企業の面倒を見てくれるほど銀行は甘くなかった。かつてのメインバンクに取り引き再開を持ち掛けたが、あっさりと拒絶された。他の金融機関も同じように冷淡な扱いだった。万策はあっという間に尽きた。わずか1カ月で会社は破産し、退職金すら支給されなかった社員は皆、路頭に迷っている。

 社長たる自分の考えが甘かった反省はもちろんあるが、それだけではない忸怩たる思いもある。

<運が悪かったで済まされるものか>


「このように直接お会いするのは極めて特別なことです」

 テーブルを挟んで座っている女は、薄暗い店内でもサングラスを外さなかった。

 ある暗号資産のコア開発者集団にメールを出したのは1週間ほど前だ。返信は3日前に来た。そこには時間と場所のみが記載されていた。人目につきづらい裏路地にある寂れた喫茶店が指定された場所だった。その店に着いたのは示された時間から5分前だったが、その女は入口からは見えない奥まった一席に座っていた。

「メールは読ませていただきました。あなたの会社に起こった事態につきましては、同情を禁じえません。私たちの仲間も同じ気持ちです。こうした輩が跋扈する限り、暗号資産に安寧は訪れません」

 女の口から発せられる言葉は事務的なものだったが、まるで冷たい感じがしないのは不思議だった。笑顔で耳当たりの良い言葉を並べても、その陰に冷酷さを隠し切れない銀行マンとは真逆の印象だ。

「しかし、志だけで邪悪な連中と戦い抜けるという訳には参りません。私たちと一緒に行動するためには―」

「スキルが必要なのですね。世界最高レベルの」

 女は頷いた後、ひとつ付け足した。

「それと覚悟です。何が何でも暗号資産の安全と信用を守り抜くという決意。これなくして、長く厳しい戦いを完遂することはできません」

「スキルは今の時点では全くありませんが、覚悟だけは確かです。私や私に関わった人たちに起こった不幸を他の人に味わってもらいたくない。こんなことは私たちだけでたくさんだ」

 女はサングラスの奥からじっと自分を見つめた。しばしの沈黙の後、語りだした。

「私たちは普通の会社のように都心のビルにオフィスを構えている訳ではありません。世界中に散らばり、ネットを通じて暗号資産システムの運営とセキュリティに携わっています。それはご存じですね」

「ええ。ですが、会社でいえば本社、組織の中心と呼べる場所は存在しないのですか」

「そうです。驚かれるかもしれませんが、本部もなければ、代表者もおりません。複数いるリーダー格のメンバーが大勢の開発者を動かしています。組織は極めて民主的に運営されています」

「代表がいない…。創始者のサトシ・ナカモトはどうなんですか」

「彼は現在、複数いるリーダーの1人です。もちろん、その中ではとても重要な役割を果たしていますが、なにぶん高齢です。彼が他のメンバーに命令して組織的な行動をとるということは現在ほとんどありません。逆に、他のリーダーの発案で、効果的な対策が発動したことの方が多いくらいです」

「トップのいない組織がまっとうに機能するとは思えないのですが…」

 女は口元を少し緩ませた。

「それは従来型の会社組織の話ですね。暗号資産はそもそも中央銀行やメガバンクの否定からスタートしています。金融に関する権限を一部の人間が独占することが、どれほど民主主義や世界平和にとっての阻害要因になってきたか。その反省が暗号資産誕生の背景にあるのはご存じではなかったですか」

「そこまでは…。私はビジネス効率を向上させるツールとして暗号資産を導入しただけです。実際、こんな事態になるまでは、ビジネスレベルは格段に上がっていましたよ。ですが、導入に政治や思想的な動機はなかった」

「それは普通のことです。使い勝手が良く、実利があるからこそ、暗号資産は世界でこれだけ普及したと言えるでしょう。私たちがやりたいのは通貨や金融の実権を握ることではありません。その実権をユーザーの手に取り戻すことなのです」

「それは理解できます。しかし、システムやセキュリティに安定性がなければ、私の会社のようなことが起こってしまう。国の管理下で営業している銀行とは、事件が起こった後の対応が全く違う。暗号資産だと、ほぼ泣き寝入りしかない。便利の代償と呼ぶにはあまりにもリスクが大き過ぎると思いませんか」

「その通りです。そこが現在、暗号資産の突き当たっている大きな壁です。インターネットという便利だが脆弱性を内包した仕組みを使っている以上、こうした危険は常につきまといます。暗号資産への資産流入量が増えるに従って、そのリスクは増大し、無視できないレベルにまで拡大を続けています」

「ですから、私はそのリスクを回避するために働きたいと申し上げたのです。私たちのような人間を生まないために」

 女は小さく頷いた。


「何だ、これは」

 女と会った2日後、1通のメールが届いた。オンライン決済された航空券購入のお知らせだった。

「こんなチケット、取った覚えはないぞ」

 送信者はスカンジナビア航空の日本支店。行先はストックホルムで片道。出発日は1週間後だった。


「ようこそスウェーデンへ」

 ストックホルムの空港に着くと、1人の女が笑顔で出迎えてくれた。見知らぬ航空チケットが送られた直後は、何かの間違いか詐欺の一種かと疑ったが、このメールアドレスはコア開発者との通信で1往復きりしか使っていなかったことを思い出し、このチケットが仲間に迎えられた証しだと確信した。その後、先方からは何の連絡もなかったが、とりあえずスウェーデンに行ってみることにしたのだ。

「こちらへどうぞ」

 女は流暢な日本語を話したが、顔つき、体つきはどう見ても現地人だ。彫りが深く、体格が良い。身長は190センチ以上はあるだろう。胸と尻はもちろん、ひとつひとつのサイズがとにかくでかく、まるでバスケットボールの選手のようだ。

「スウェーデンは初めてですか」

 到着口を出ると、一般車両の駐車スペースにボルボのSUVが停まっていた。女は運転席に、自分は後部座席に座った。

「ええ、デンマークまでは来たことがあるんですがね」

 運転席の女は後部座席を振り返って言った。

「忘れられない場所になりますよ。これからキツイ毎日が続くことになりますが、乗り越えられることを期待しています」


 ボルボが小1時間ほど走って辿り着いたのは郊外の小さなビルディングの駐車場だった。何の装飾もない3階建ての鉄筋コンクリートの建物。住む人や生活の気配が感じられず、まるで廃屋のようだった。ビルのすぐ裏は湖で、湖畔に立つ広葉樹は晩秋のこの時期、あらかた葉を落とした後で物悲しい光景が広がっていた。鉛色の空を映した灰色の湖面が墨絵のようで、寂寥感をより強調した。

「ご覧の通り、賑やかとは言えない場所ですが、風景を眺めている余裕はないと思いますので、それほど気になさらないで」

 女は励ましとも突き放しともとれる言葉を掛け、ビルの入口に向かった。自分はその後を付いていくしかなかった。


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