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セッション4.取引所

 車両が着いた「駅」は出発した場所よりひと回り小さな造りで、出口は1カ所だけ。頑丈そうな灰色のドアがプラットフォームに面してひとつだけあった。男はその扉の前に立った。

「このドアは私を感知しないと開きません」

 ドアの上部のセンサーから赤外線が照射され、男の全身をスキャンしている。数秒後、センサーの横の小さなランプが緑色に点灯した。

「開け、ごま」

 男が声を発すると、灰色のドアが厳かに開いた。

「冗談でしょう」

 リクが言うと、男は真顔で答えた。

「ドアを開けるのに、これ以上適切な合言葉を思い付きませんでした」


 男は入口の先に進んだ。狭い廊下を5メートルほど進むと、またドアがあった。男が扉の横にある装置に掌をかざすと、すぐに開いた。

「ここが私のオフィスです」

 扉の先には体育館ほどの広さがある大きな部屋があった。リクが何より驚いたのは、その大半がサーバー類で占められていることだった。何百台ものサーバーが重低音を上げながら、稼働状態にあった。しかも、リクが見るにサーバーはすべて最新機種だった。今、月面コロニーでこれほどの高性能なコンピューターシステムを運用しているのは1カ所だけだ。


「これは…」

 リクがつぶやくと、男はすぐに答えを返してきた。

「ご存じの通り、みなさんが取引所と呼んでいる施設です」

 ここは月の統一通貨「ルナ」と地球の通貨を交換できる唯一の場所だった。「ルナ」は誕生したときから貨幣を持たない暗号資産で、サイバー空間のみに存在している。月政府が両替機能を一カ所に集中させる政策をとったため、地球から月に投資する際はもちろん、月で生み出された富を地球の通貨に交換するには、この施設を必ず通らなければならない。月世界の経済が猛烈に成長している現在、取扱量は日々莫大な量に上っている。その存在はもちろん知っていたが、このような場所にあることを、リクは初めて知ったのだった。

「私がここの管理者です。そうそう、自己紹介がまだでしたね。サトシ・ナカモトと申します」

 そう言って男はリクに右手を差し出してきた。


「そんな、あり得ない」

 リクはナカモトと名乗る男の手を握ることも忘れ、首を振った。

「あなたが暗号資産ビットコインの創始者だと言うのですか。ビットコインが生まれたのは今から1世紀近くも前のことだ。サトシ・ナカモトであるはずがない。あなたが百歳を超えているというのなら話は別ですが…」

 男はリクの反応を予想していたかのように、落ち着いた表情で言った。

「もちろん私は百歳を超えておりませんし、ビットコインの創始者でもありません。ですが、サトシ・ナカモトであることに間違いありません」

「どういうことですか。私にはさっぱり訳が分からない」

「サトシ・ナカモトは…」

 男はいったん右手を収め、ゆったりと話し始めた。

「1人の人間でありますが、もはや1人ではありません。ビットコインを世に送り出した後、一人格から暗号資産を象徴するアイコンになったのです。優れた知性によって生み出された暗号資産を広く運用し、さらに優れたものに改良する一方、この崇高なシステムを破壊しようとするものから守護する。その役目を担っているのがサトシ・ナカモト、私はその一人です」

「それでは…」

「そうです。今、我々が抱えている緊急かつ最大の任務は、あなたが現在取り組んでいるお仕事と全く同じなのです」


 男は大部屋の中央付近にあるデスクへと、リクを導いた。広いデスクには40インチほどある大型のディスプレイが5台設置されていた。だが、机上にあるのはそれだけ。デスクの横には革張りのソファーとガラスのテーブルという応接セットがあった。

「ここはかつて、アメリカのスペース・コマンド「宇宙軍」のオフィスだったところです。とても頑丈な造りで、外部から侵入するのは極めて難しい。核ミサイルの攻撃にもびくともしません。我々の仕事にはうってつけの場所なのです」

 サトシ・ナカモトはそう言いながら、どこから用意したのか、コーヒーカップを運んできた。

「地球のブラジル産です。おいしいですよ」

 カップがテーブルに置かれると、芳醇な香りがリクの鼻先をかすめた。なおも怪訝な顔つきをしているリクをみて、ナカモトは笑みを浮かべながらいった。

「警戒しなくてもよろしいですよ。我々はあなたの味方と言ってもよい。まずはこの貴重なコーヒーを味わってください。話はそれからです」


 リクは男の瞳を凝視した。ナカモトはリクの懐疑的な視線にも一切動揺せず、穏やかな表情を崩さない。ふとリクはハマダさんを思い出した。いつも穏やかで、人を包み込むような柔らかい笑顔。リクは疑いと警戒を少しだけ緩め、カップに手を伸ばした。


「キズミさんは月の経済政策をどうお考えですか」

 カップのコーヒーが半分ほどなくなった頃、唐突にナカモトが聞いてきた。

「どうって」

「月で流通する通貨を『ルナ』に統一し、地球上の通貨との交換をこの場所に一元化したことです」


 月面開発には地球上の多大な富が投入された。まずは人や物資を月まで運ぶための手段。物資を打ち上げるための巨大なロケット。月までの宇宙船。月軌道上のステーション。最初の頃は使い捨てのロケットだったが、それだけでは効率が悪すぎるので、地球軌道上の宇宙ステーションを発着基地とする月・地球の往還機「ルナ・ライナー」が就航した。国際協力でこの輸送体制を構築するのに、20年余りの歳月と超大国の国家予算にして数年分以上に相当する莫大な資本が投じられた。さらに月面にコロニーを建設するのに、その何倍もの資金が流れ込んだ。


「現時点で月に対する多大な投資への見返りは充分に得られたとは言えません。しかし、政府は月が生み出す富を月に封じ込めようとしました」

 ナカモトは淡々と語った。

「核融合発電やチタン鋼の生産が軌道に乗り、将来的に富を地球へと還流できる可能性は高まっています。ですが、これまでに投じた投資分を埋め合わせるにはまだ多少の時間がかかるでしょう。そうした中で登場したこの通貨政策です。月で生み出される富を地球に移転するのが難しくなったのは間違いない」

 リクは不思議に思った。

<どうしてこんな分かり切った経済論議を吹っかけてくるんだ>


「しかし、別の見方をすれば」

 ナカモトは再び話し始めた。

「月の経済規模は人口の増加ペースをはるかに超えた勢いで成長し続けています。そうなると、当然、『ルナ』の価値は増大します。『ルナ』の交換を難しくした政策の下では、これまで月に投資した企業や人にとって、生み出した富はわざわざ手数料を払って地球に移動させるよりも、月で効率的に増やした方が良いということになりますね。何よりここは税金が際立って安い」

「それこそがこの通貨政策の目的でしょう。せっかく生み出した富を地球に流出させずに、さらなる月の開発に投資させ、月単独で成長への循環をつくろうというのが…」

 ナカモトは小さく頷いた。


「月の通貨『ルナ』は誕生した十年前から暗号資産としてのみ運用されてきました。コインや紙幣は最初からない。存在はコンピューター上のデータのみです。実体は目に見えない」

「それは月にいる人間なら誰もが知っています。そんな分かり切ったことをなぜ今更説明するのですか」

 ナカモトは小さく笑みを浮かべた。

「そうですね。キズミさんにこんなことを説明するのは、そう日本の諺で『釈迦に説法』でしたね。だからこそ、今、あなたはここにいる」

 そう言ってナカモトはリクの瞳を覗き込んだ。すべてを見通すような澄んだ眼差しだった。

「単刀直入に申しましょう。我々と手を組みませんか。キズミさんは聡明な方だ。あなたたちと私たちの目的が究極で一致していることをすでに直感していますね。失礼な言い方になりますが、この任務はあなたたちの組織だけでは手が足りません。奴らの行動は緻密で複雑極まりない。キズミさんもご存じの通り、攻撃は日々熾烈になっています。工作員を月に1人送り込んだ程度で防ぎ切れるような代物ではありません。地球は月の現状を甘くみていると言わざるを得ません」

 それはリクが身に染みていることだ。すべてを1人で監視し、対策まで施すのは限界に達している。

「我々にしても、今は何とか対処できていますが、今のやり方ではいつまでもつか分からない状況にあります。我々は諜報機関ではありませんので、対処療法しか取れないからです。しかし、あなたたちには奴らの動きに関する有益な情報があり、先手を打てる可能性が生じます。我々が手を組めば、有効な防御システムが構築できるでしょう。『ルナ』が月だけのものになった以上、奴らの攻撃には月だけで対処しなければなりません」


 サトシ・ナカモトと名乗る男とは、取引所で2時間ほど話し込んだ。胡散臭さは最後までぬぐえなかったが、敵でないことだけは肌感覚で分かった。リクが今対峙している連中なら、こんな面倒なことはしない。

「手を組むと言っても、私の一存では決めかねます」

 リクが言うと、ナカモトは首を横に振った。

「一存で決めるしかないでしょう。このことを組織に相談する訳にはいかない。報告した時点であなたはすぐに解任され、地球に呼び戻されます。それは自身が最もよくお分かりのはずですね」

 リクには返す言葉がなかった。月コロニーへの潜入工作なのに、身分がバレてしまっては、任務は失敗と見なされる。

「あなたには2つの選択肢しかありません。我々と手を組んで奴らの企みを叩き潰すか、たった1人で踏ん張ってやりたい放題やられるか、です」

 ナカモトは静かな口調ながら、強く迫ってきた。

「私は奴らに『ルナ』を滅茶苦茶にされたくはない。それはあなたも同じではないですか。賢明な判断をしてくださることを期待しています」


 当然ながら初対面のこの会談で結論はでなかった。月に赴任してから半年余り。誰にも心許すことなく、高度で繊細な作業をすべて1人でやってきた。急に「仲間にならないか」と持ち掛けられて、「はい、そうですか」とはならない。しかも、それは自分の属する組織を欺くことにもなり得る。


「少し時間がほしい」

 ナカモトとの会談の後、リクがやっと言えたのはこの言葉だけだった。ナカモトは静かに言った。

「お気持ちはよく分かります。突然現れた私を今すぐ信用しろというには無理がある。ですが、時間がそれほどないことも、あなたはよくご存じのはず。なるべく早いお返事をお待ちしています」

 ナカモトの表情から微笑は消えていた。


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