セッション2.アポロ・イレブン・タワー
人類史上初めて月面の有人探査に成功した宇宙船の名前を冠したその建物は、月面コロニーで最も有名な11階建てのビルディングだ。月面に大小数十ある居住ドームのうち、最も大きなドームの中央部にそびえ立っている。内部にはコロニーの管理、運営に必要な機関が入居していて、月の住人たちは「市役所」というニックネームで呼んでいた。いわば官庁ビルなのだが、最上階の展望室には、誰でも自由に出入りできるようになっている。
リクはビルの麓に立ち、最上階を見上げた。コロニーを代表する建物だけあって、設計は凝っている。他の建物がほとんど単純な直方体をしているのに、このアポロ・タワーだけは壁がわずかに湾曲して、全体がゆるやかな楕円形に見える。最上の展望デッキは円盤状で、帽子をかぶせたかのようにビルの壁面から飛び出している。資源が限られている月面で、これほど趣向を凝らしたビルを建てるには、それなりの理由がある。このビルは月面開発のシンボル的存在なのだ。
リクは入口の金属探知機をくぐってタワーに入ると、最上階への直通エレベーターに乗った。他に乗客はいなかった。エレベーターのキャビンが動き出すと、リクは重力の存在を一瞬だけ感じた。地球の6分の1しか重力のない月面では、エレベーターが動き出す際に生じるわずかな重力の変動すらしっかりと感じられる。
展望デッキからは360度、月面を見渡すことができた。荒涼とした地表に半円状の居住ドームが水面に浮かぶ泡のように何十も建設されている。その隙間には、表面が数ヘクタールはあろうかという巨大な太陽電池パネル群が広がり、折からの陽光を浴びて海面のようにきらめいている。ドームから眺めることができる近くのクレーターの縁には、酸素や水素、水などを貯蔵する巨大なタンクが、コロニーを守る壁のように林立していた。
「静かの海」に展開された月面2カ所目の大規模コロニーには現在、10万人近い人が暮らしている。南極と北極付近にも同規模のコロニーが築かれ、月面人口は増加の一途だ。独自の居留地を構築した中国を除いても、10年後には月の人口が100万人に達するのは間違いないとみられている。リクがぐるりと一度見渡しただけでも、視界の中に建設中のドームをいくつも確認することができた。
「ふぅ」
リクは小さくため息を吐いた。月の急激な発展と経済規模の拡大に伴い、当初想定していなかった問題が次々と発生している。その対処のため月に送り込まれたのが自分だ。資材を運ぶ無人の輸送車両が行き交い、遠隔操作のアンドロイドがせわしなく動き回るドームの工事現場を眺めて、リクは月面開発の活気を改めて感じ取った。そして、そこから発生している大きな問題に気分が重くなった。
「まさにゴールドラッシュですね」
突然隣から話し掛けられ、リクは飛び上るほど驚いた。
「投資額は天文学的なものです。地球上にはこれほど活気に満ちた場所はないでしょう」
リクが視線を遣ると、そこに1人の男がいた。歳の頃は…。20代にも見えるし、40代と言われれば納得しそうだ。もしかすると50代なのかもしれない。髪は短く黒いが、若干白いものが混じっていた。顔つきはアジア系、身長は180㌢ほどありそうだ。白いTシャツに短パンという月の住人としてはありふれた格好をしていた。
リクが返事をしないまま、その男の顔を見ていると、男は軽く微笑んだ。
「人類の叡智を投入して開発が進むこの活気あふれる光景をみて、憂鬱な表情をする方はそう多くない」
リクは首を少し傾げた。
「もっとも私もあなたと同じ気持ちになることがありますがね」
そう言って男は目を細めて視線を遠くに投げた。
「私の気持ちが分かるのですか」
リクがポツリと言った。男は再びかすかに微笑んだ。
「分かりますとも。この光景をみて憂鬱になるには、それなりの理由がある」
それっきり2人は言葉を交わすことなく、しばらくの間じっと月面を眺めていた。
「どうです、一杯お付き合いいただけませんか。いい店を知っているんです」
長い沈黙の後、だしぬけに男が口を開いた。
「いい店…ですか」
地球ならこの誘い文句は常套句に近いが、人口10万人足らずのコロニーに気の利いた店などあるはずがない。リクが戸惑った表情をみせると、男は声を上げて笑った。
「店というか、場所ですね。気分が落ち着きますよ。おいしい本物のコーヒーもあります。さあ、行きましょう」
普段ならこのような誘いに応じることはない。それほど暇ではないからだ。しかし、今はなぜだかこの男に付いていきたくなった。物腰柔らかだが、どことなく隙のない風情のこの男に興味が湧いたせいかもしれなかった。
男が歩き出した。リクはその後をついて展望室をでた。