セッション1.受け付けの男
電磁調理器から取り出したレトルトパックで、味は濃いが全く味気のないイタリアンの夕食を済ませると、リクは突然、自室を出ることにした。満腹なのかそうでないのか―最近はその境目が分からなくなっている。食事というよりは、義務的に栄養を摂取したという感じだ。当然、満足感はない。こんな食事のあと、1人で部屋にいるのはたまらない。気晴らしに少し散歩をしてみようと思い立ったのだ。
食事だけではない、近頃は睡眠も同じだ。1、2時間しか仮眠できなかった日と7、8時間もたっぷり眠った夜との区別がつかない。いつも眠気を感じ、ふと気が緩むと、とてつもなく瞼が重くなる。そうなると、自分で自分の身体をコントロールするのがかなり難しい。閉じようとする瞼を開けることに全精力を傾けなければならなくなる。
そんな日々がしばらく続いている。
リクはエレベーターを使って3階から1階のロビーに降りた。マンションは5階建て、各階には2LDKから3LDKが合わせて10区画ほどあるが、最上階だけは1区画で独占されている。しかもエレベーターのうち1基はこの階専用で、専用のロビーがあるので入口も一般入居者とは別だ。低層階ですら、入居するには普通の勤め人の年収に換算すると何倍もの保証金が必要なこのマンションの最上階を占有するなんて、まともな稼業の訳はない。リクは入居してから半年余り、最上階の住人と話をしたことはおろか、顔を見たことすらない。
エレベーターが1階につくと、すぐに受け付けに座っている1人の男が目に入った。受け付けは広めのロビーの中央にある。ドーナツ型をしていて、ロビー全体を見渡せるようになっていた。男はいつも糊のきいた白いシャツに蝶ネクタイ、ご丁寧に黒のベストまで着用している。このマンションも含めた居住空間そのものは完璧に温度、湿度が調整され、季節を問わず20~23度に保たれているので、住人はTシャツ、短パンといったラフな格好が多い、いつもフォーマルな出で立ちの彼は明らかに異彩を放っていた。
リクは彼が受け付け以外の場所にいたのを見たことがない。いつでも背筋をぴんと伸ばし、瀟洒な造りのデスクの前に座っている。
「カワダ様」
エレベーターの扉が開くと同時に、男は立ち上がって会釈をした。頭を下げる角度は深すぎず、浅すぎず、実に絶妙だった。
「ハマダさん」
リクはロビーに足を踏み出し、受け付けに向かって歩き出した。
「お出掛けでしょうか」
ハマダさんは軽く微笑みながら言った。何気ない表情にどうってことのない会話―なのに彼と話していると、この遣り取りだけで少し癒された気分になる。まず、微笑みがとてつもなく自然だ。ただ単に愛想がいいというのではない。もちろん作り笑いでもない。どうしたらこのように人を安心させる微笑みを浮かべることができるのだろう。体の奥底からにじみ出る人格がそうさせるのだろうか。
「ちょっと気晴らしに。部屋にいると息が詰まりそうなので」
ハマダさんの微笑みにやられ、思わずリクは本音を吐いた。ハマダさんの前だと、なぜだか素直になれる。
「カワダさまは大層お疲れの様子ですね。ここしばらく、お仕事がとてもお忙しかったのでしょうか。散歩はとてもよろしいと思います」
ハマダさんは人が良いだけではない、とリクは警戒心を少しだけ感じた。自分の任務が佳境にさしかかり、精神的にも肉体的にもストレスが最大に高まっていることを、こうした何気ない会話と表情から読み取っていたのだ。実際、こうした散歩にでる時でさえ、緊急時に対応できるよう携帯端末を手離せない。ハマダさんはすべてをお見通しのようにさえ感じてしまう。
「本日は地球の青が実に美しく見えます。アポロ・イレブン・タワーに行かれてはいかがでしょうか」
ハマダさんの言葉に、リクは何かを直感した。
<アポロ・イレブン・タワー…>
何かを思案する顔つきになったリクに向かって、ハマダさんは優しく語り掛けた。
「本日に限っては、カワダさまに最も大きな満足をもたら場所はそこしかないと、私は確信しております」
<地球を眺めるならアームストロング・テラスが最適なはず。なぜアポロ・イレブンなんだ>
ハマダさんは依然、穏やかな微笑みを絶やさず、優しい視線をリクに向けていた。
「分かりました。ハマダさんのお薦めの通り、アポロ・タワーに行ってみます」
リクはそう言い残すと、「ルナ・パレス3」を出た。