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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
9/91

第8話 赤紫色の少女と守人一族


それはほんの一瞬だった。

マゼンタがどうしてかクリムスンの目の前に跳び上がっていて、彼の頭上から木刀を振り下ろそうとしていたのだ。

大男は咄嗟に自分の木刀で相手の木刀を受け止める。

それは自然な反応だった。

もう何度も受けた攻撃に対する身の防ぎ方だ。嫌というほど体に染みついている。

だから腕も体も意思を働かせる必要はなく勝手に動く。

けれど心の中は震えていた。

(この子は……⁈)

なぜならたった一度きりならまだしも、彼女の攻撃は続いていたからだ。

右から左から上から下から斜めから真正面から、木刀が次々に襲いかかっていた。

しかも力と速さが尋常じゃない。

クリムスンは片手で(つか)を握っていたが、そこに響く衝撃は華奢な体から発せられるものとは到底思えない。

さらには彼女の攻撃を視覚で捉えることが出来ず、感覚で防がないと追いつかなかったのだ。

 父と新しく妹となった二人の攻防を、コチニールとカーマインは絶句しながら眺めていた。

今目の前で起きていることは何なのか、速すぎて細部まではついていけなかったが、それでもとんでもないことが起きているのは一応わかっているつもりだった。

少女の攻撃は続いている。

頭首は受け止めながら相手の顔を盗み見た。

無表情、それに尽きる。

出逢った時からそんなに感情を表に出すタイプではなかったが、今もまさにそうだった。

いったい何を考えている……⁈

と、彼女が真上に跳び上がった。

大男は一瞬の判断で柄を両手で握る。

相手は再度クリムスンの頭上から木刀を振り下ろそうとする。

二つの木刀が重ね合わさり大きな音が響いた。その時、

「なっ、なんですかこれはっ⁈」

縁側から()頓狂(とんきょう)な声が上がる。

声の主は目元がピクピクするあまり眼鏡をずり落ちさせた葡萄(えび)だった。

瞬間的にマゼンタははっと我に返る。

同時に大男に押しつけていた木刀から力を抜いて、下に下ろす。

クリムスンはというと、彼女を注視しながら木刀を地面に向けた。

「あ、あなた方はいったい、何をやってるんですかっ⁈」

頭首はパニック状態の葡萄を見上げ、

「ただの稽古だよ」

「いやだからっ、なんでマゼンタが稽古をしてるんですかっ⁈」

「それは……」

大男は言い淀んだ。

少女は手の中の木刀を見下ろす。

(私、どうして……)

そこへ追い打ちをかけるような(かす)れ声が彼女に届いた。

「マゼンタ」

少女ははっと彼のほうに顔を向ける。

コチニールが縁側の(そば)で立ち尽くしたまま彼女を見ていた。

その表情は驚愕の中に畏怖(いふ)のようなものが交じって混乱を極めている。

「どうして……」

彼女は咄嗟(とっさ)に木刀から手を放した。

木刀は小さな音を立てて地面に倒れ込む。

「わ、わからない。私、どうして出来るか、わからない……」

コチニールと同様にカーマインも啞然としたまま身を固め、クリムスンは自らの娘となった少女を冷静に見つめていた。




 その日は朝からやけに騒がしかった。

敷地内の至る所で男たちがこそこそと、あるいは大っぴらに噂話をまくしたてていたのだ。

畑で厨房で稽古場で、彼らは新しく養女となった激しい赤紫色の少女について盛んに意見を交わし続けた。

だがその内容は彼女の容姿や立場や夕餉(ゆうげ)粗相(そそう)を犯したことではなく、全くの別件についてだったのだが。

とにかく彼らの噂話は鳥小屋で卵を収穫しているワインの元にも届けられた。

「で、実際の所どうなの?」

金網に囲まれた鳥小屋の中で、頭が天井にぶつかりそうなワインが背を屈めながら慎重に歩を進めている。

足元や設置された棚の上に敷かれた藁の中の卵を、うっかり踏み潰したり見落としたりしないためだ。

ヒコウカンチョウというのが正式名称らしい。だがクリムスン家の男たちはただ〝鳥〟と呼んでいた。

紅国では一般的に飼育されている鳥で、大の男なら成鳥が一羽腕の中に収まるほどの大きさだ。

全身の羽が鮮やかな赤色で、彼らが産む卵も殻は真っ赤だったが中身は黄色く、加熱調理するととても美味かった。

その鳥たちは今、小屋を抜け出し地面を楽しげに走り回っている。

「何が?」

ワインは隣で自分と同じように卵を収穫している男に目をやる。

彼は名をボルドーと言った。年は自分より一つ下だがそこそこ長い付き合いで、クリムスン家では名コンビのように扱われている。実際よく話し寝食を共にし稽古も一緒で、ワインの隣には高確率でボルドーがいることが多かった。

背格好も似ており仲もよかったせいか同僚を越えて兄弟のようにも思われたが、ボルドーはワインよりも深い赤色の髪と瞳を持ち、髪の長さは肩まででそれを低い位置で一つに結んでいた。

「クリムスンの養女、マゼンタだっけ?強いの?おまえ会ったことあるんだろう?」

ボルドーが手袋をはめた手の平にすっぽり収まる卵を籠に入れながら尋ねる。

「ああ」

ワインの脳裏に荒野のマゼンタ地区で赤紫色の少女と話した時の映像が流れた。

強い?あの子が?

あまり表情が出ないながらも終始驚きっぱなしだった彼女の姿ばかりが思い出される。

「会って話したことはあるけど、強いかどうかはわからない」

「それもそうか」

ボルドーは自分から話題を振っておきながら、あまり興味を示さないように収穫した卵を見比べる。

ワインもくだらないと考えたのか、

「でも見た目からはとても噂通りだとは思えないけどな」

「だよな、女子(じょし)だし」

「だいたいそんな強かったらクリムスンに保護されてないだろ」

「言えてるー」

二人には新しい養女に関しての噂話は到底信じられるものではなかったのだ。



横に引けばガラガラと音を鳴らす木造の玄関扉が開いている。

玄関のたたきには各々背中に四角い布製のバッグを背負ったコチニールとカーマインが並び、()がり(かまち)に立った葡萄と向かい合っていた。

「いってきます」

コチニールが葡萄に告げる。

しかしカーマインは何も言わない。

真っ赤な少年は今までも相当(ひど)い顔を表に(さら)してきたが、今朝はこれまで見たことがないくらいの不機嫌な表情だった。

「いってらっしゃい」

葡萄はもう慣れたように答えた。

コチニールとカーマイン兄弟は眼鏡の彼に背を向けて玄関の外へ出て行く。

「しっかり学んできてくださいね」

コチニールは葡萄を振り返って「はーい」と答えるが、カーマインは無論そのまま歩き続けた。

眼鏡の彼は二人を見送りながらふうと息をつくと、

「さて、私たちも始めましょうか」



同時刻、マゼンタが自室の布団の中で仰向(あおむ)けになりぼうっと天井を眺めていた。

天井は障子から透ける朝の光をうっすらと浴びて木目を(まばた)きさせるが、それを見上げる少女の顔は無表情ながらもどこか浮かないようだった。

(どうして私に、あんなことが、出来たのだろうか……)

彼女の頭の中にまたあの光景が繰り返される。

庭に裸足で立ち、手には木刀、目の前にはクリムスン。

そして彼の前に跳び上がり、木刀で斬ろうと……

マゼンタは左手を顔の前に持ってきて手の平を開き、指先から手首までじっくり眺めた。

(わからない……いくら考えても、何とか自分のことを思い出そうとしても、どうしてもわからない……何も、思い出せない……!)

その時縁側の障子戸が勢いよく開け放たれると同時に、

「おはようございます!」朗らかな声が朝日と共に響き渡る。

彼女は予想だにしなかった彼の行動に、布団の中でビクッと体を震わせた。

「まだ寝てるんですか?とっくに朝ですよ」

葡萄が少女の枕元に立ち、マゼンタは渋々といった風に上半身を起こした。

「体調はもういいんでしょう?ならさっさと起きてください。あなたにはやることがいっぱいあるんですからね」

彼女は眼鏡の彼を見上げると、

「やること……?」



鮮やかな赤紫色の少女と眼鏡を掛けた青年が畳の上に並んで立っている。

眼鏡の彼は既に丈の短い上着を着用していたが、その上からさらに足元まである白い布に(そで)を通し、隣の少女はというと寝間着の薄い服の上から彼と同じような布を重ね、ひたすら彼の着方を真似ているようだ。

「右側の布が内側で、左側の布が外側に来ます。絶対反対にしないでくださいね。それから……」

マゼンタは葡萄の手の動きを真似しながら思った。

食べ物と同じで服を着るのにも順番があるのか、と。

「そうしましたらこの紐を腰で締めて……」

眼鏡の彼は自らの腰に巻いた赤く細長い紐の先を結ぶ。

少女も言われた通り腰に紐を巻くと、思い切り()めた、つもりはなかったが、途端にむせ込んだ。

葡萄は呆れて「締めすぎです……」

また吐くところだった……二人は同時にそう思っていた。



そびえ立つ長方形の鏡の中には鏡台に付属した椅子に座ったマゼンタと、隣に立った葡萄が映り込んでいる。

眼鏡の彼はいつもはお団子にしている自分の髪をわざわざ解き、癖のない真っ直ぐな髪を肩に広げた。

「髪はこうやって結ぶんですよ」

そうして今一度一つに結び始めた。

少女は彼の動きを見習い、腰まである長い髪を両手で掴むと何とか一つに(まと)めていく。

鮮やかな赤紫色の髪には(かす)かにうねるような癖があった。

けれどもさほど扱いにくい髪質ではない。

だから後頭部の高い位置に持っていき輪ゴムで(くく)るのは難儀(なんぎ)ではなかったのだが、隣で見ていた葡萄はまたも呆れて今度は言葉を失う。

彼女の髪は確かに一つに結ばれていたのだが、ありとあらゆる箇所がほつれてぐちゃぐちゃになっていた。



マゼンタが縁側に座って両足を庭に投げ出している。

髪は後頭部の高い位置で綺麗に結ばれてほつれは一切なく、左右重ね合わせて帯を締めた服装にも全く乱れはない。

はたから見ればどこに出しても恥ずかしくない良家の令嬢に見えるだろう。

だがその姿を作るのに何時間もかかっているのは当人と葡萄だけが存分に知っている。

服を着るのも髪を結ぶのもこんなに大変だとは……彼女は膝の上に置いた四角いタブレット端末を見下ろしながら思い返した。

けれど少女の意識はすぐ現在に戻り、指がタブレットの画面に触れながらゆっくりと上下する。

画面には何やら細かな文字が羅列しており、マゼンタはそれを口に出して読み上げていたのだ。

「クリムスン家とは、守人(もりひと)の一族である。守人とは、主に外部の勢力から、国や民を護る人のことで、時に国外の脅威を、鎮圧する任務も負っている。彼らは〝家〟という、集団で構成されており、その人数は、数十から数十万人と、各家によってばらつきがある。クリムスン家は、守人の中でも最大規模で、国外にも拠点が、複数存在している」

彼女はタブレットから顔を上げる。

守人。クリムスン、いや、父上は守人。だから父上たちはあの場所にいて、私を助けてくれたのか。それに……

少女の脳裏に彼の言葉が蘇る。


「紅国以外の土地に■拠点があって、そこにも家族と呼べる仲間たち■いる」


だから大家族……

彼女は納得するように目の前の景色をじっと見つめた。

そこへ一つの影が近づいてくる。

「どうです、勉強ははかどっていますか?」

マゼンタは振り返り、

「ああ。クリムスン家のこと、少しわかった」

「それは何よりです」

葡萄が彼女の隣で立ち止まる。

「クリ……父上が、頭首だということも、わかった」

「ええ、この家で一番偉い人なんですよ」

「偉い?」

「色んな意味で力のある人ということです」

力のある……

少女は翼の生えた赤く巨大な生物を思い出す。

「あの」

「なんでしょう」

色光(しきこう)のこと、聞いてもいいか?」

すると彼はなぜか表情を曇らせた。

「色光、ですか?」

「これに、載ってない」

マゼンタは膝上のタブレットを指差す。

葡萄はその場に正座をして、

「私に答えられるかどうか。そちらの方面は(うと)いのです」

と、真っ直ぐに彼女を見つめた。

「なら……父上は色光になれる、だろう?だから、この家にいる男たち皆、なれるのか?」

「まさか、そんな単純なものではありませんよ。あれはごく(わず)かな才能のある人だけが変身出来るものです。このクリムスン家でも頭首であるクリムスンを始め、限られた者だけしかなれません」

「やっぱりそうか……」

あの時、荒野で父上が説明してくれた。言葉も内容もよくわからなかったけど、そんなことを言っていた気がする。

「あの、マゼンタ」

眼鏡の彼は少しだけ思い詰めた顔をしていた。

「あなたは、いったい……」

葡萄の頭の中に少女が木刀で斬りかかる場面が流れる。

それは目で追える動きではなかったが、鮮やかな赤紫色が頭首に向かっていることだけは理解出来た。

「ん?」

彼女が聞き返す。

ところが彼は急に我に返ったように、

「いえ、なんでもありません。それより次に学んでほしいことがあるんです」

と、勢いよく立ち上がった。



彼らの姿はいささか滑稽(こっけい)だった。

筋肉隆々の(たくま)しい男たちが明らかにその体には小さいであろう割烹着(かっぽうぎ)や三角巾を身に付け、汗水垂らしながら料理に(いそし)んでいたのである。

本来ならば稽古場や庭、あるいは戦場で発揮されるべきその汗は今や美味しく食すための(かて)となっていた。

クリムスン家の敷地内にある厨房は、さすが大勢の胃袋を満たすだけの相当な広さがある。

大鍋を沸かす巨大コンロは窓際に八つあり、水道の蛇口は壁に十箇所備え付けられ、室内中央の野菜を切ったり盛り付けたりする場所は彼ら数人が立っても充分な余裕があった。

家の家事は当番制で、料理だけでなく掃除や農業、敷地内の修繕など全てを担当させられる。

つまり彼らは戦うだけでなく生活する上で必要となる一通りのことはだいたい身についていた。

だからたらふく平らげる何百人もの料理を手際よく調理することも彼らにとってはいとも容易(たやす)い日常の一コマなのだが、今日は勝手が違っていた。

彼らの何人かは野菜を洗う手が止まり、何人かは食材を切る包丁の手が止まり、何人かは鍋を搔き回すお玉の手が止まっている。

そうして皆の視線を集めていたのはやはり鮮やかな赤紫色の少女だった。

男たちと同様の割烹着と三角巾を丁度良いサイズ感で着用している彼女は、側にぴったり寄り添った同じ格好の葡萄から料理を教わるところだった。

二人は室内中央のだだっ広い調理台の前に並び、目の前に積まれた白く長い、茎だけはピンク色の言わば大根のような野菜を眺めている。

「いいですか?まずはこの野菜を全て同じ大きさに切ってくださいね」

「同じ大きさ?」

「長さを同じにするということですよ」

葡萄は自分の親指と人差し指を使って指一本分の距離を取ってみせる。

「わかった」

マゼンタは右手で包丁を握り構える。

次の瞬間、白い大根はまな板の上で小刻みに踊り始めた。

トントントントントントントントン……

心地よい音とは言えない。

なぜならその音は異常に速かったのだ。

そしてその音と共に、まな板の上にあったはずの大根は次々と横に移動して、反対に目の前にあった山はどんどん稜線(りょうせん)を低くしていく。

葡萄が息を呑みながら横に積まれていく白い欠片に目をやるとそれらは全てきっちり同じ長さだった。

(速い……しかも、超正確……)

と、彼が思ったその時、

「出来たぞ」

彼女はいつの間にか包丁をまな板の上に下ろしていた。

「もうっ⁈」

白い大根は全て同じ長さに切られ、原形を留めているものは一本もない。

「い、いつの間に……」

眼鏡の彼は狼狽(うろた)える。

「で、次は?」

「そ、そうしましたら……」



マゼンタと葡萄の二人は湯気がもくもくと沸き立つ大鍋の前に立っていた。

葡萄は自分の眼鏡を曇らせながら、

「ここに切った大根を入れてください」

「全部?」

マゼンタは背後の調理台に積まれた大根を振り返る。

「恐らく全部入ると思うのですが」彼は眼鏡の曇りを割烹着の袖で(こす)りながら答えた。

少女は同じサイズに切られた大根たちと大鍋とを見比べる。

全部……

葡萄は眼鏡の曇りが取れてふうと一息ついた。

すると目の前に立っているマゼンタの瞳が、大根と大鍋の間を行ったり来たりしている。

「ん?」

思わず彼から声が漏れた。いったい何を悩んでいるのか?

しかし彼女はすぐに、

「わかった」

素直にそう言ったので葡萄は安心した。

大丈夫、ちゃんと言葉は通じているし、大根もあんな正確に切ることが出来るのだから何の問題も……

と、彼が安堵(あんど)したその時だった。

彼女は均等に切られた全ての大根を両腕で囲むように一気に持ち上げると、それらを投げるように大鍋にぶち込んだ。

当然大鍋からは熱湯が吹き上がり、(ふち)からも湯が大量にこぼれる。

「ぎゃーーっっ‼」

葡萄の叫び声が厨房にこだました。

一応料理をしながらマゼンタを観察していた男たちも、その光景に啞然としてしまう。

「完璧」

少女は慌てる彼を尻目に大鍋を眺めた。

「何やってるんですかっ⁈」

「何って、大根、入れた」

「そういうことじゃなくてですねっ……!」

彼女はポカンとして、また曇り始めた彼の眼鏡を見つめる。

葡萄はぼやけた視界ながらも少女の顔を察し、

(またこのパターン……!)

歯ぎしりしながら拳を握りしめた。

「あのですね、切った野菜は、一気に全部鍋に入れるのではなく、少しずつ、湯がこぼれないように、入れていくんですよ……!」

彼は怒りを抑えながら告げる。

「そう、なのか」

「ええそうなんですよ」

二人は向かい合ったまま押し黙った。

気まずい沈黙が続く。

だがそれを破ったのは彼のほうだった。

葡萄はすっかり曇った眼鏡の端を指で少し下げると、

「とにかく、鍋に水を足さなければなりませんね」

マゼンタと彼が吹きこぼれた大鍋に目をやると、大根だけが鍋の中で震え、お湯はほとんど姿を消していた。



赤紫色の少女と眼鏡が曇ることを(あきら)めた青年が、湯気が立ち上る大鍋の前に並び立っている。

大鍋の中では大根たちがたっぷりの湯に身を沈め、コトコトと体を揺らしていた。

「ではここにユショウを入れましょうか」

菜箸(さいばし)を持った葡萄が彼女に指示する。

「ユショウ?」

彼は背後の調理台を振り返ると身を屈め、その台の下にいくつも備え付けられている扉の一つを横に引いた。

マゼンタも腰を曲げて扉の中を覗き込む。

そこには様々な形の大瓶がいくつも並んでいた。

透明な液体が入ったもの、赤い瓶の色に染まった液体が入ったもの、あるいは不透明で何が入っているのか全くわからないものなどがずらり勢揃いしている。

どうやら瓶の中身がそれぞれ違うらしい。

葡萄は整列している瓶の中から一際(ひときわ)大きなものを取り出す。

それは瓶と言うより(かめ)のような形で大きな蓋が付いており、彼の両手にどっしりと収まっていた。

眼鏡の彼はその甕を調理台に置くと、

「これがユショウです。調味料のことですね。調味料ってわかりますか?」

「味をつける?」

「そうですっ」

彼女のたったそれだけの答えに彼は感動した。

やっぱり通じているじゃないですか……!と。

葡萄の眼鏡奥に輝きを見た少女は不思議そうに首を傾げる。

彼女の仕草に気づいた彼ははっと我に返ると、

「こ、これで大根の煮物に味をつけていきます」

何事もなかったかのように甕の蓋を開けた。

その瞬間、もわりとした独特な匂いがその場に(ただよ)う。

言葉で表すならとても濃くて塩辛い、少し刺激も混じった香りとでも言えそうだ。

とにかく慣れている者には懐かしく美味しそうな香り、初めて嗅いだ者にはだいぶ個性的な香りとなるだろう。

その調味料が少女と眼鏡の彼の周囲を包みこんだ。

(そういえば大座敷のお膳からもこれと同じ匂いがした)

マゼンタは思い返しながら甕の中に目を落とす。

ほんのり茶色がかった黒い液体が甕の内部を占めていた。

すると葡萄が急に辺りをきょろきょろと見渡し始め、

「あれ、お玉は……」

彼は菜箸を持ったままその場を離れた。



右手に菜箸を、左手にお玉を持った葡萄が顔を凍りつかせていた。

「ん?」赤紫色の少女が彼を振り返る。

「何、を?」彼は息を吸い込みながらたどたどしく尋ねた。

「味、つけた」

彼女はさも当然のように答える。

「全部、ですか……?」

「全部、だ」

眼鏡の曇りが取れた彼はがっくりと頭を下げる。

「葡萄?」

マゼンタの両手にはユショウの甕がしっかり支えられていた。

しかしその甕は煮える大根の鍋の上で、上下逆様の状態となっていたのだ。

甕の中身は全て鍋の中に入り、残ったユショウの最後の一滴が重力でポチャリと鍋に吸い込まれていく。

「とにかく」

眼鏡の彼は(うつ)ろな目で顔を上げる。

「煮直しが必要ですね……」

大鍋の大根は真っ黒な液体の中に埋まったまま沸騰し続けた。



程よい茶色に色づいた大根たちが湯の中で楽しそうに踊り、そんな彼らを赤紫色の少女が菜箸を持ちながら見下ろしている。

一度はやり直したもののかなりいい出来なのではないだろうか。

彼女は菜箸の先をカチカチと合わせながらそう評価した。

ところが、だ。

鍋の中身や少女とは対照的な存在が背後でしゃがみ込んでいたのだ。

その存在はぐったりと疲れ切った様子で(こうべ)を垂れており、先程から一言も発さずピクリとも動かない。

けれどそんな彼の状態に全く気づかない彼女は無表情ながらも無邪気に、

「葡萄、いい感じだ」

そう声をかけた。

だがやはり彼は石のようにしゃがみ込んだままだ。

「葡萄?」

彼女が振り返りながら名前を呼ぶと、

「さようですか……」

彼は重そうな頭を何とか上げて答えた。

「どうか、した?」

「いえ、別に……」

眼鏡の彼は言葉とは裏腹の気持ちでゆっくりと立ち上がる。

そしてマゼンタの隣に来ると鍋の中を見下ろした。

大根たちが順調に煮えている。

それはそうだ。煮直しを決めてからずっと彼女に張り付き、手取り足取り事細かに教えたのだから失敗などするはずがない。

葡萄は落ち(くぼ)んだ目で鍋から少女に視線を移す。

「あなたにとって料理はまだまだみたいですね、包丁さばきだけは完璧ですが」

「そうか?」

「私はあなたには女性らしくいてほしいのです」

「女性、らしく?」

「ええ、ですから料理も裁縫も着付けもお花ももっと勉強して……」

マゼンタはまたもやポカンとしてしまう。

サイホウ?キツケ?オハナ?

なんだ、それは?そもそも女性らしく、というのはいったい何なんだ?

彼女の頭の中がクルクルと回り始めたその時だった。

「マゼンタ、葡萄」

二人が自分たちを呼んだ声のほうを振り返る。

そこには厨房の高い天井さえ低く感じるような大男が湯気を肩で搔き分けながらこちらへと向かってきていた。

「父上」

少女が声を掛ける。

「料理は順調か?」

クリムスンは二人の前でゆったりと立ち止まった。

「ああ」彼女は自信満々に答え、

「なんとか……」眼鏡の彼は疲れ果てたように呟く。

それを聞いた頭首は満足そうに一つ(うなず)くと、

「そうか。なら刀稽古をしよう」


















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