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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
82/130

第81話 それから


 緋色(ひいろ)がベッドからガバッと起き上がる。

少年の頭と手には包帯が巻かれ、顔にはこれでもかというくらい絆創膏が貼られていた。

実は全身包帯まみれなのだが、ありがたいことに寝巻のおかげでそれらは目につかない。

緋色のすぐ側には父茜色(あかねいろ)が座っている。

彼の顔にも絆創膏が貼られ、首や手には包帯が巻かれていた。

でも今はそれどころじゃない。

少年は間髪おかずに尋ねた。

「父上⁈決勝は⁈大会は⁈マゼンタはっ⁈」

すると茜色が目を丸くする。

「医者が言っていた通り、本当に元気なんだね……」

茜色は驚いたように言った。

「何言ってんの⁈試合は⁈オレあいつと戦ってる途中で……‼」

「……終わったよ」

「え……?」

「全部ね」

父は安堵の中に虚しさを込めた笑顔を見せた。


 緋色が彼の病室で目覚めたその頃、同じ階にある別の病室では、包帯や絆創膏を体に貼り付けた親子が窓際のベッドの側に座っていた。

室内は四人の患者が収容出来たが、やはり病院側が気を遣って、一人の少女が室内を独占していた。

その彼女は顔に絆創膏を貼り付け、頭や手に包帯を巻き、ベッドの中でひたすら眠っている。

「おまえはまだ横になっていたほうがいいんじゃないか?」

クリムスンが隣の椅子に座るコチニールに聞いた。

「それを言うなら父上こそ戦ってまだ日が浅いでしょう?」

「私の傷はほとんど急所を外してあるから問題ない」

「そうだけど……」

あいつの腕にはほとほと頭が下がるよ。

クリムスンはライバルである男の顔を思い浮かべた。

コチニールはベッドで眠る妹の顔を見る。

「マゼンタ、起きないね」

息子の言葉にクリムスンも娘に視線を向けた。

「骨折はしてないし、頭も打ってないし、内臓も無事だってお医者さんは言ってたんだよね」

「ああ、打撲と軽い火傷らしい」

父は息子に答える。

「だったらどうして、大会が終わった後もずっと……」

「わからない……」

クリムスンは眠り続ける少女を見つめた。

紫人(むらさきびと)として蘇った力の負荷がかかったからなのか、それとも何か他の原因が……

 その時、病室の扉がガラッと開く。

「マゼンタっ‼」

黄みの強い赤色の少年が彼女の名を叫びながら入室した。

「緋色⁈」

コチニールが驚いて声を上げる。

「ちょ、緋色っ……!」

少年の後ろから慌てた様子の彼の父親がついてきた。

しかし緋色は構わず少女のベッドに近づいて、

「なんだまだ寝てんのか⁈」と彼女を見下ろした。

コチニールが立ち上がる。

「なんでここに⁈」

「だから今はまだ……!」

緋色を追いかけてきた茜色が息子を引き留めようとする。

けれど緋色は「おいこら起きやがれっ!次こそはオレが勝ってやるからなっ!おい聞いてんのかっ⁈」と少女の顔を覗き込んだ。

コチニールが啞然とし、彼の隣に座るクリムスンは少年の隣にやって来た茜色をじっと見上げた。

「いや、試合結果を話したら居ても立っても居られなかったみたいで……」

茜色が苦笑いで言う。

「子供の躾がなってないな」とクリムスン。

「君にそれを言われたくないよ、私の息子を本気で殺そうとしたのはどこの娘だったか忘れたわけじゃないだろうね」

茜色の表情が微笑みに変わった。

「今ここでその話を持ち出すのか」

「吹っ掛けてきたのは君のほうだろう」

二人の頭首の間でコチニールはげんなりとする。

この場所でも口喧嘩をするの、と。

その間にも緋色がマゼンタの両肩を掴んで揺さぶり始めた。

「おいこらっ!いい加減目ぇ覚ませよっ!いつまで寝てんだっ、早く起きろボケッっ!」

コチニールは思わず緋色の手を掴む。

「ちょちょちょ何やってんの⁈マゼンタは患者……!」

ふと、緋色とコチニールが動きを止めた。

ベッドでずっと眠っていたはずの少女が、薄く目を開けている。

「マゼンタ⁈」と緋色。

「目が覚めた⁈」とコチニール。

クリムスンも立ち上がって娘の顔を覗き込む。「マゼンタ、わかるか……⁈」

 ところが彼女が口にしたのは、

「……うるさい」だった。

「え?」緋色とコチニールがポカンとする。

「私の耳元でギャーギャーギャーギャー」

少女は上体を起こしながら言った。

「起きて大丈夫⁈」

兄コチニールが心配する。

「何がだ?」

「いや、だって……!」

「それよりコチニールのほうが寝てなくて大丈夫なのか?」

「あ、僕はもう大丈夫だけど……」

「そうか、ならよかった」

マゼンタはほっと胸を撫で下ろした。

「うん、心配かけてごめんね」

「いや」

「てかさっ!」兄妹の会話に緋色が割り込む。

「目が覚めたんならオレと勝負しろよっ!今度こそ決着をつけてやるっ!」

って、決着はもうついている……

クリムスン、茜色、コチニールの三人は心の底から緋色に呆れた。

「というか……」

少女が目の前の顔ぶれに呆然とする。

なんなんだ、この状況は……なぜ父上と茜色が一緒に……

次の瞬間、マゼンタははっとする。

「そういえば試合は⁈大会はどうなったんだ⁈」

「えっ?」とコチニール。

「憶えてないのか?」クリムスンも驚いた顔で言う。

「まさか緋色と同じことを聞かれるとはね」

茜色が溜息をついた。

「だから続きをやろうぜって言ってんのっ!」緋色が床を踏み鳴らした。

「ややこしくなるから緋色はちょっと黙ってて!」コチニールが少年に叫ぶ。

「なんでっ‼」

彼らのとめどないやり取りを眺めて、マゼンタは首を傾げずにはいられなかった。




 クリムスン家の屋敷は相変わらずだ。

楽坊に赴くためにこの家を出て数か月、季節は移ろいだとは言え建物の作りも庭も畑も奥に連なる大座敷や道場まで何も変わっていない。

 正確には庭の植物たちは葉を落としているものもあったし、畑に実る作物の種類は以前とは変わっていたが、それでも少女にはどこか懐かしさを感じさせる光景が広がっていた。

道場からは男たちの稽古に励む声が聞こえてくるし、調理場からはかぐわしい夕餉(ゆうげ)の香りも漂ってきている。

 帰ってきたのか。

彼女は兄コチニールと共に、屋敷の玄関を(また)いだ。

()がり(かまち)にはもう一人の兄、カーマインがそっぽを向いて立っていた。

コチニールがカーマインに声を掛ける。

「ただいま。あ、出迎えてくれたの?」

「そんなんじゃねーよっ」

「マゼンタもう退院出来たんだよ」

「見りゃわかるよっ」

「ただいま、カーマイン」

マゼンタが言うとその場に沈黙が流れた。

「カーマイン?」コチニールが不思議そうに弟を見上げる。

カーマインの頬が見る間に赤く染まった。

「お、おかえり」

弟が恥ずかしそうに言うと、兄は思わず微笑んだ。


 大座敷の風景も何ら変わっていない。

だだっ広い空間に畳がずらり敷かれて、その上に座布団が並べられ、座布団の側にはお膳がどこまでも続いている。

座布団の上には筋骨隆々とした男たちが胡坐をかき、ひたすらお膳の中身を口に放っているが、彼らは先程家に帰ってきた頭首の末娘のことが気になって仕方がない。

男たちは大座敷の中央付近に並んで座る頭首の子供たちをちらちらと覗き見ながら、何とか食事を飲み込んでいた。

「無事に退院出来てよかったね」

箸を一旦止めてコチニールがマゼンタに言った。

「コチニールもな」

「うん」

兄は満面の笑みでうなずく。

「で」隣に座ったカーマインが妹を見上げた。

「どこまで憶えてんだ?」

マゼンタが記憶を掘り起こすように天井に顔を向ける。

「ああ……緋色にやられまくって倒れたところまでだ」

「そこまでかよっ」

カーマインが呆れた。

本当にどうしようもない妹だ。

コチニールが口を挟む。

「あ、僕もわかるよ、マゼンタと緋色の試合を映像で見たから」

「病院で気絶してた奴は黙ってろ」

弟の鋭い突っ込みに、兄は微笑みながらも頬を膨らませた。

「そこから先は全く憶えてないのか?」

カーマインがマゼンタに尋ねる。

「全くではない。なんとなく、断片的には憶えてる」

私が緋色に対して優勢であったような……

でもわからない。本当のところはどうだったのだろう。

「じゃあ、その……」

何かを言いかけるカーマインを、兄と妹がじっと見つめた。

カーマインは意を決したように口を開く。

「突然、弓を出したり、槍を出したり、剣を出したりしたことは……?」

マゼンタがはっとする。

「空を飛んだり……おまえが、紫人だってことは……?」

カーマインが妹に問うた。

コチニールも心配そうに彼女を見上げる。

するとマゼンタが右手をすっと前に出した。

「マゼンタ?」とコチニール。

「何を……⁈」カーマインは目を見開く。

少女は前に出した自分の右手を凝視した。

(まさかここで武器を――⁈)

コチニールとカーマインが息を吞む。

周囲の男たちもすっかり箸を止めて彼女の行動に身を固めた。が、

「なんちゃって」

少女は言った。

「はっ?」とカーマイン。

「えっ?」とコチニール。

マゼンタは自分の右手を引き戻す。

「そんなの出来るわけないだろ」

コチニールとカーマインは(えええっ⁈)と、心の中で叫んだ。

しかも妹は涼しい顔で言う。

「何もない所から武器を出す?そんなことありえない」

「なっ⁈」カーマインが言葉を失くした。

「空を飛ぶ?鳥じゃあるまいし、私の体重がいったいどれくらいあると思ってるんだ」

「おまえぇぇぇっっ……!」

カーマインの顔が怒りで真っ赤に染まった。

「マゼンタ」

コチニールが妹の肩に手を置く。

「病院でも言ったけど、マゼンタは本当に武器を具現化したんだよ、空も飛んだんだよ、信じられないだろうけど、僕だって映像を見るまでは信じなかったけど、でも本当なんだ……!」

兄の言葉に少女は右手を開いたり閉じたりする。

「けど見ての通り今は何も出ない」

「今はねっ」コチニールが焦ったように言った。

カーマインは(いきどお)る。

「あの時のおまえは、俺がこの目で見てた。俺だけじゃない、この星中の人間が見てた。それをありえないで片づけんのか⁈ふざけんな!なんでそんなことで俺たち全員がおまえに嘘をつかなきゃなんねーんだよっ!なんでおまえを騙さなきゃなんねーんだよっ!」

「カーマイン……」

兄の剣幕に少女が彼の名を呟く。

「ったく、やってらんねーよっ!」

そう言ってカーマインは白飯をむしゃむしゃ食べ始めた。

彼女は目の前を呆然と見つめた。

確かに父上もコチニールもカーマインも茜色も、そして緋色も、皆が口を揃えて同じことを言う。だからそれが嘘ではないし、私を騙すつもりでないことはわかっている。

でも現に今は武器を出せないし、空を飛ぼうと思ってもどうやって飛べばいいのかがわからない。

だから自分でも皆の話が信じられないのだ。

私は本当にその、紫人とやらなのだろうか?

 彼女が一人悶々と考えていると、気を取り直したように、

「でも僕たちの家が勝ってよかったね。これで王宮守人の座を掴むことが出来たし、茜色家とは統合することにもなったし」食事を再開したコチニールが言った。

けれどカーマインがズバリ反論する。

「お気楽な奴」

「どうして?」

「ウチが茜色家と上手くやってけるわけねえだろっ、何百年確執があると思ってんだよっ」

「それを縮める努力をするのが僕たちの使命でしょ?」

「平和お気楽主義野郎が」

「なんとでも言って。とにかく、マゼンタ」

少女は野菜のお浸しを口に運びながらコチニールを見た。

「ありがとう、君のおかげだ」

彼女は咀嚼していた物を飲み込む。

「ああ」

赤紫色の少女は素直に答えた。

「そういえば葡萄(えび)は?ずっと見てないよね、病院にも来なかったし」

コチニールが弟に尋ねる。

「父上もいないな」とマゼンタ。

「二人共家の統合で忙しいんだよ、兄貴たちが入院してる間もなんやかんやずっと動いてた」

「へえ」コチニールとマゼンタの声が揃った。




 茜色家の敷地内はほぼクリムスン家と同じ作りをしている。

建物も庭も畑も道場も、大広間も。

クリムスン家では皆が食事を取る場所を大座敷と呼ぶが、茜色家では単純に大広間と呼んでいた。

いつもならそこで男たちがワイワイと食事を楽しみ、日々の出来事を報告し合っては、喜んだり(ねぎら)ったり鼓舞したりするはずが、この日の夜は大勢の男たちが所狭しと正座をし、誰もが口を閉ざして、上座に並ぶ頭首親子と向かい合っている。

 すると頭首茜色が口火を切った。

「改めてお詫びをしたい。この度は不甲斐ない結果となり、大変申し訳なかった」

彼は頭を下げた。

茜色の隣に座る緋色も慌てて頭を下げる。

室内に男たちが涙を(こら)える音や、鼻をすすり上げる音が響いた。

男たちの最前列に座る猩々緋(しょうじょうひ)も、涙を必死に堪えている。

茜色が頭を上げて告げる。

「これから私たちはクリムスン家の指揮下に入る。でももし耐えられないのであれば、この家を離れてもらっても構わない、それは皆の自由だ」

途端に男たちがざわめいた。

「茜色様……!」

猩々緋が頭首の名を口にするが、それ以上はもう言葉にならない。

言いたくはないが、つまりはそういうことだ。

緋色が拳を握りしめる。

(っくっしょぉっ……!あの時オレが勝っておけば、こんなことにはっ……!)

 その時、男たちに向けて遥か後方から声が届いた。

「これで終わりじゃない」

男たちが驚いて背後を振り返った。

いつもは本当にやる気のない、気がつけばどこかに姿をくらましている、それでも今大会でかなり奮闘した男が障子にもたれながら立っていた。

「カッパー?」

茜色が目を丸くする。

「でしょ?」カッパーが頭首を見つめた。

男たちもいっせいに茜色に顔を向ける。

茜色が思わず微笑んだ。

「かもな」

父のその言葉に緋色はやる気満々で口角を上げた。




 鹿威(ししおど)しの音が響く。

客人はほぼ帰路に就いたのではないだろうか。

閉じた障子の奥には明かりが灯る部屋も見受けられたが、中にはすっかり闇に包まれて何の音も伝わってこない部屋がいくつかあった。

 深夜の料亭の廊下は人ひとりいなかった。

庭園は見事に彩られているが、星明りだけではその色や作りも上手く判別出来ない。

 それでも茜色家頭首は歩を進める。

別にこの先へ行きたいわけではない。自分を呼び寄せた相手に会いたいわけでも毛頭ない。

しかし負けた手前、顔を出さないわけにはいかないのだ。

彼は明かりの灯る部屋の前で立ち止まり、障子戸を開ける。

室内には子供の頃からの宿敵が、胡坐をかいて待ち受けていた。

茜色は無言で部屋の中に入ると、相手の真正面で胡坐をかいた。

「それで、こんな深夜にまで何の用だい?話し合いなら明日も朝早くからあるだろう?」

茜色がクリムスンに尋ねた。

「誰にも聞かれないほうがいいと思ったんでな」

その言葉に茜色はピンとくる。

これは、もしや……

「おまえの息子について聞きたいことがある」

茜色はしっかり唇を引き結んで相手を見た。

相手はあくまでも穏やかな表情で話を続けた。

「大会決勝戦、マゼンタとの試合で、奴はおまえの刀から炎を吹き出させたな」

二人の頭首の脳に、緋色が手にする刀が炎に包まれた瞬間の映像が流れる。

「あの後その刀を調べた」

「勝手なことを」

茜色がクリムスンを睨む。

「だがなんの変哲もない刀だった。()いて言うなら切れ味がよいことぐらいだけだろうか」

「よくも……!」

茜色は思わず立ち上がりそうになる。

「安心しろ。刀はちゃんとおまえの家に送り届けたよ」

「そういうことじゃなくて……!」

「だからここで問題が一つ出てくる。なぜあの刀はあの時炎を吹き出したのか、だ」

「!」

「答えは明快だ。それを使っていた本人が、何かを発動させたから。違うか?」

茜色は何も言わずに相手を睨んでいる。

クリムスンはさらに続けた。

「それから試合が進んで後半、奴は空を飛んでいたな」

「……!」

「紫人であるマゼンタが空を飛べるのはわかる。だがなぜ赤人(あかひと)の奴までそれが可能だったのか。なぜマゼンタの力やスピードについていくことが出来たのか」

大男が前のめりになった。

「おまえの息子、緋色。あれはいったいどこから貰い受けた養子だ?」




 ぽかぽかと心地よい秋晴れの日。

もう少し時が経てば冬の木枯らしがやって来る。

その前に一花咲かせようとでも思っているのか、空に浮かぶ雲を分け入って、日の光が優しく地上を照らしていた。

 クリムスンの息子、コチニールは、その時たまたま屋敷の縁側を歩いていた。

最近は夜も寒くなってきて雨戸を全部締め切らなければならない。

でも日中はこうして雨戸全開、お日様の光を室内にまで届けよう、そんなことをふんわり考えていた時だ。

男衆の纏め役であるワインとその相棒ボルドーが、庭の奥から二人がかりで大きな木箱を運んできたのだ。

「わ、どうしたのそれ」

コチニールが縁側から彼らに声をかける。

「お嬢の荷物らしいよ」

ワインが答えた。

「ああ」

納得したコチニールは室内に顔を向けた。

「マゼンタ!君の荷物が届いたよ!」


 大きな箱が部屋の真ん中に置いてある。

ここはマゼンタの自室。楽坊に入る前まで使用していた部屋だ。

他の部屋と同様、畳が敷かれ、壁際には箪笥や鏡台が置かれている。

今もその光景は全く変わりがない。

ただ一つ、部屋にどっしりと構えた大きな木箱を除いて。

「楽坊から届いたんだよね」

箱の側に立つコチニールが一応確認した。

「ああ」

楽坊の部屋にあったものと、大会の旅館に置いてきたものと……

少女は最終戦の後、そのまま病院に入院してしまったので、楽坊専用旅館の部屋には荷物が置きっぱなしだったのだ。

 マゼンタが箱の蓋を開ける。

箱の中には服などが丁寧に畳まれていて、脇には靴もしっかりと揃えてあった。

が、それらの一番上に、なぜか懐かしさを感じさせる楽器が鎮座していた。

少女はその楽器の棹を掴むと、箱の外に引っ張り出す。

「セキエ……」

深みのある鮮やかな赤色の弦楽器。

棹には弦が四本張られ、胴は角を削った逆三角形。

弾いた当初は信じられないくらい酷い音が出たのに、慣れるととても奥深い音が響く楽器……

 コチニールはセキエを見つめる妹に声を掛けた。

「本当に楽坊、辞めちゃってよかったの?」

妹は何を思っているのか、手の中の楽器を見つめ続けている。

「あんなに一生懸命頑張ってきたのに、ツキソメも、このセキエも」

「……いいんだ」

マゼンタはセキエを視界から下ろした。

「私には武術のほうが性に合ってる」

彼女は決意したように言った。




 木々が生い茂る夜の車道を一台の車が走行している。

周囲に他の車はなく、その黒い車は順調に道を進んでいた。

何なら車内の運転席にも、当然助手席にも人はおらず、車は一人の大男だけを後部座席に乗せ、すいすいと目的地に向かっている。

背丈があり筋肉も盛り上がるその男は、車の自動運転に慣れたように長方形の携帯端末を耳に当て、電話の相手と会話をしていた。

「王宮守人の件、おまえに全て押しつけてしまって悪いな」

クリムスンは相手に言った。

「いえいいんですよ。そちらも茜色家との統合で色々と問題勃発なんでしょう?ならこれくらい私のほうで何とかいたします」

彼の頼もしい右腕である葡萄が答えた。

「助かる。まあ奴の家の内情は奴に収めてもらうがな」

「ははは、何十年もかかりそうですが」

「私たちの親や先祖が考えも実行もしなかったんだ。たとえ何十年かかっても成功させてみせるさ」

「ええ、そうですね」

と、葡萄は早速話題を変える。

「ところで例の件はその後どうなりましたか?もう話を?」

「いや、これからだ」

僅かな間が開いた。

「本当にやるつもりですか?」

葡萄の問いにクリムスンは車窓に目を向ける。

「もちろん」

車の外を木々が颯爽と駆け抜けていった。




 少女は以前世話になった塾の教員室で、師と向かい合っていた。

彼女の手には先日楽坊から届けられた弦楽器セキエが握られている。

まさにこの場所でこの楽器と出逢い、この楽器に魅かれ、この楽器を習い、いっぱい練習して、ステージにも立った。

でも……

 彼女の前に立つアガットが言う。

「もう怪我はよろしいのですか?」

「ああ、もうすっかり治った」

「それはよかったです。会場で試合を見ていた限りでは結構なダメージを追っているようにお見受けしましたので」

二人の側の自席に座っていた臙脂(えんじ)は、呆れたように同僚を見やった。しかし当の相手は全くどこ吹く風だ。

「それがなぜか私も緋色もそれほどでもなかったんだ。医者も不思議がっていた」

「ほお、そんなこともあるのですね」

驚くアガットに対し、臙脂が微かな溜息を漏らす。

「それで、今日はまたどういったご用件で?楽坊はお辞めになってお(うち)に戻られたんですよね?」

「えっと」

アガットの問いに少女が口を濁した。その途端、彼の表情が崩れる。

「もしかしてまたこの塾に通うことにしたんですか?そのセキエもまた習いに?」

師匠はキラキラと瞳を輝かせた。

(やれやれ……)

臙脂はもはや呆れるしかない。

「いや、塾に通うかどうかはまだわからないが」

マゼンタはアガットに、手の中で握りしめていた楽器を差し出す。

「セキエを返しにきた」

「え?」

アガットの顔が凍り付いた。

「私はやっぱりクリムスン家の娘だし、今回のことがあって思ったんだ。私には音楽より武術のほうが合っているんだろうと」

「ででででも……!」

「それにアガットも言っていただろう?」

「な、何をでしょう?」

「音楽を続けるなら自分の体を大切にと、奏者にとって手は命だと」

「いやっ、それは確かに申しましたが……!」

アガットの額に汗が浮かんだ。

「クリムスン家の一員として武術を選べば、とてもじゃないがそこまで気をつけるわけにはいかない」

「ですが……!」

「だからセキエはアガットに返す。いっぱい時間を割いて教えてくれたのに、人目を忍んで楽坊まで届けてくれたのに、申し訳ない」

「っ……!」

アガットは息を呑んだまま次の言葉を探した。

けれど少女はセキエを自分に差し出したまま、真っ直ぐこちらを見つめている。

この決意は相当固い……

アガットは大きな溜息をついた。

「わかりました」

彼は彼女からセキエを受け取った。

「これは一旦預かっておきます。でも気が変わったらいつでもいらしてください。私はあなたの音楽の才能を信じておりますから」

マゼンタは一瞬目を見開く。

才能を、信じてくれる、人がいる……

「……ありがとう」

少女は無表情ながらも、心から師に礼を述べた。

「あなたのおっしゃる通り、時間をいーっぱい割いてお教えしましたしね。これで諦められたらもったいなさすぎますからっ」

「ああ」

そんな風に言ってもらえるだけでも、本当に感謝だ。

ちょっとだけ不機嫌になったアガットと、心から感動しているマゼンタ。

二人の姿を、臙脂が冷めた表情で眺めていた。


 その後、彼らは教員室の窓辺に立って外を見ていた。

窓からは教え子のマゼンタが、塾の敷地からちょうど出て行くのが拝める。

「返されたな、それ」

臙脂はアガットが手に持っているセキエを見下ろした。

「あーあ、せめてお(そば)に置いておいてくれたらなぁ」

「残念でした」

「まあいいよ、次の機会を待つから」

アガットが手にしていたセキエが、一瞬のうちに姿を消した。




 その日、クリムスン家の敷地内には何台もの黒い車が停車した。

こんな景色は決して珍しくはない。

クリムスン家に所属する男たちが集団で出掛ける際は、たいていこんな風景になる。

 だが今日に限っては、その車から降りた男たちが相当珍しかった。

普段彼らは、絶対に、この敷地内には足を踏み入れない。

なのに何十人もの屈強な男たちが易々とこの地を踏んだのだ。

彼らを待ち受けるワインやボルドーやクリムスン家の男たちは、仁王立ちでいきり立っていた。

 すると一台の車の後部座席から、クリムスン家最大のライバルと、その息子が降車した。

屈強な男たちの中では目立つ、線の細さと柔らかさ。

しかしこの男が自分たちの頭首を散々苦しめた。

 いつもなら微笑みを浮かべる彼、茜色はいつもと違い、なぜか無表情で屋敷を見上げている。

反対に彼の息子、緋色はきょろきょろしながら、

(ここがマゼンタたちの家か!初めて入った!)と心を弾ませていた。

 茜色、緋色親子はそのまま屋敷の玄関へ歩を進める。

そこにはマゼンタ、コチニール、葡萄の三人が待ち受けていた。

「おーっす!マゼンタ、コチニール、元気だったか?」

緋色が満面の笑みで言った。

「この前病院の診察で会ったばかりでしょう?」

コチニールが呆れたように答える。

「あん時はあん時、今日は今日だ」

茜色がここでやっと微笑みを浮かべた。

「本日はお招き頂いてありがとう」

わざわざ自らの家に呼び出すとは。

茜色はライバルの考えを心の奥底から非難した。

葡萄もとりあえず微笑み返す。

「いえいえ、頭首がどうしてもここで話したいと申すものですから」

眼鏡の彼はそう言いつつ、やはり頭首の考えを思い切り疑っていた。

(クリムスンっ!なんで彼らを我が(いえ)にっ!話なら外でも出来たでしょうにっ!)

茜色と葡萄が気味の悪い微笑み合戦を続ける。

「さあ、立ち話もなんですから、中へどうぞ」

そうして葡萄がやっと二人を家の中に通した。


 葡萄が先頭を切って、茜色、緋色、マゼンタ、コチニールの順に廊下を進んでいく。

廊下の右側には障子戸で仕切られた畳の部屋が連なり、左側には木々と石に囲まれた庭園が広がっていた。

緋色はとにかく辺りをきょろきょろとしながら、

(ほぉ、ここがマゼンタたちの家か。なんかウチとあんま変わんねーな)

という正直な感想を心の中で述べた。

 彼らが先へ進む中、コチニールが列の最後尾を歩いていると、不意に自分を呼び止める小さな声がした。

彼がその場で振り返ると、部屋の障子の陰から弟のカーマインが顔だけを覗かせている。

「カーマイン、どうしたの?」

「なんであいつらがウチにいんだよっ」

弟は小声で兄に尋ねた。その顔は嫌悪感でいっぱいだ。

「父上が大事な話があるからって彼らを呼んだんだよ。カーマインも聞いてたでしょ?」

「聞いてたけどなんでこんな早く……!」

コチニールは先を進む一行に視線を向ける。

すると自分の前を歩いていたマゼンタの後姿がどんどん遠ざかっていた。

「あっ、僕も行かなきゃ、後でね」

「ぅおいっ!」

カーマインが引き留める声もむなしく、兄は妹たちの後を追いかけた。


 彼らが(つど)った部屋は広くもなく、狭くもなく、程よい大きさの畳部屋だった。

隣室に続く襖は開け放たれ、そこにも今いる場所と同じような空間が続いている。

縁側も雨戸が全開で、庭からは優しい秋の風が吹き込んでいた。

 が、彼らの座る位置だけは、どこか不自然だった。

上座中央にクリムスン、その両脇に茜色と葡萄が座り、三人と向かい合うようにコチニール、マゼンタ、緋色が座っている。

勿論全員がきちんと正座をしていたが、緋色は聞かずにはいられなかった。

「なんでこの並び?」

「さ、さあ」緋色の問いにコチニールが答えた。

一般的には、父上、葡萄、マゼンタ、僕が並んで、その迎え側に茜色と緋色が来るんじゃ……

ところが、クリムスンは待ちわびていたように話をし始める。

「今日集まってもらったのは他でもない。これからのおまえたちについて話をしておこうと思ってな」

大男の言葉に茜色が深い溜息をついた。

(父上?)

緋色が父茜色の表情に首を傾げた。

クリムスンが言う。

「コチニール、マゼンタ、そして緋色。おまえたちには橙星(だいだいぼし)の軍事学園に通ってもらうことにした」

「え?」

名指しされた三人の子供たちの声が揃った。

(軍事学園?)

赤紫色の少女は父が言った聞き慣れない言葉を、胸の中で繰り返した。







赤の章・完




















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