第60話 約束
「それでは両選手、前へ!」
司会者錆色の声に、観客が地響きのような歓声を上げる。
その歓声の主は、ほとんどが丹国の民ばかりだ。当然、自国の王子を応援する為にである。
西側のリング脇にはクリムスンとコチニール親子が並び立っていたが、コチニールはプルプルと小刻みに震えていた。
(僕、僕が、丹国の王子様と、戦うだなんて、そんなこと、で、できるわけ……!)
昨日父から知らせを受け、そればかりをずっと思っていた。
答えの出ない問題を、ずっとずっとずっとずっと永遠に解き続けるように……
「コチニール」
名前を頭上から呼ばれ、コチニールは我に返る。
彼は恐る恐る隣に立つ父を見上げた。
父クリムスンはいつもと同じ表情で自分を見下ろしていた。
そしてゆっくりと口を開く。
「相手は丹国人だ。私たちが仕えるのは紅国王家であり、護るのは紅国人だ、それを忘れるな」
「う、うん……」
「さっきの私の戦いを見ていたか?」
「え……?」
「たとえ王子が相手でも私は自分の家の為なら、おまえたちの為なら容赦はしない」
「……!」
「だからおまえも絶対に遠慮はするな。それが赤星武闘大会であり相手への礼儀でもある。この意味、おまえならわかるだろう」
「う、うん……」
コチニールの視線が下がった。
「なら思う存分、おまえの力を発揮してこい」
頭首は息子の背中をポンと押した。
(そうだけど……そうだけど……そうなんだけど……)
コチニールはとぼとぼとリングへ向かう。
その足取りは鉛をいくつもぶら下げているかの如く重い。
クリムスンは息子の背中をじっと見送った。
(強くなれ、私の跡を継ぐ為に……!)
東側の選手入場口前には、煉瓦王子とテラコッタ王子が立ち並んでいる。
末っ子のテラコッタは、
「やっと出番か」と、両腕を伸ばして背伸びをする。
その顔は余裕そのものだ。
「おまえ、絶対勝てよ」
次男の煉瓦が目を細めて言った。
「何言ってるの、勝つに決まってるだろ」
「万が一おまえが負けたら俺の出番がないんだからな」
「万が一にもオレが勝つから安心してよ」
「もし負けたら第三試合に進めないんだからな」
「だから絶対勝つに決まってるって言ってるでしょ!しつこいなっ」
兄にそう言い放つと、テラコッタ王子はさっさとリングに向かった。
「負けたら弟でも承知しない……!」
煉瓦王子は末の王子の背中を睨んだ。
三階の客席にせり出す丹国特別室では、丹国の王、丹色がやはり長机の上に立って応援している。
「テラコッタ!絶対勝てよっ!土器の分を取り戻せっ!」
丹色の大声が室内に響く中、王の隣で補佐役の鉛丹はちゃんと床に立ち、微笑みながら会場を見下ろしていた。
リング上に二人の選手が揃う。
コチニールはいかにも不安そうな表情で、テラコッタはにっと微笑んで。
テラコッタ、二十二歳。身長は兄二人に追いつこうと日々成長中。兄たちと同じく体を鍛え、日に焼けた肌につぶらな瞳。顎まである癖毛の所々を三つ編みにし、服装は襟のついた足元まである布を帯で締めている。髪と瞳の色は優しい赤みの茶色だ。
二階客席の一部を占めたクリムスン家の男たちは、コチニールを見て緊張のあまりおろおろしっぱなしだった。
「もうコチニールは既に戦意喪失してるじゃないですかっ!」
葡萄が泣きそうになりながら叫ぶ。
「あいつっ……!」
カーマインも兄の姿に拳をぎゅっと握りしめた。
一階客席の最前列に座っているマゼンタも、兄コチニールをじっと見つめていた。
「それでは第二試合、コチニール選手対テラコッタ選手、はじめっ!」
錆色の声を合図に、客席から震えるような歓声が上がる。
三階の紅国特別室では紅国の第二王女、韓紅花姫が窓ガラスにへばりついていた。
その背後には勿論、女官栗梅が控えている。
姫はコチニールを見て首を傾げた。
「あの人大丈夫?なんかすごくキンチョーしてるみたい」
「きっと大丈夫でございますよ、あんなにお若くても紅国守人でございますからね」栗梅が答える。
「ならいいけど」
室内上段の端に座っている執政灰桜は、
「奴め、相手の肩書きに恐れ慄いたか」白けたようにコチニールを見下ろしていた。
リングに立つテラコッタ王子が笑顔で尋ねる。
「君はさ、守人とかいう所の跡取りなんでしょ?」
「えっ?あ、はい……」
一瞬何を聞かれているのかわからなかったが、コチニールは何とか王子の質問に答えた。
三階の楽坊特別室では、ソファに座ったポピーが啞然としている。
「あの子完全にのまれてますわっ」
彼女の隣で、友人の兄にすっかり惚れ込んでしまったシェルは、
「コチニールっ……!」と目を潤ませた。
リングではテラコッタ王子の質問が続いている。
「君の父親は相当強いって話だけど、息子の君はそうでもないんでしょ?」
「そ、それは……」
コチニールが下を向いた。
父上と自分とは当然比べ物にならない。なるわけがない……
「そこは否定しろよっ!」
二階の客席からカーマインが叫んだ。
西側の選手入場口前に立つクリムスンは、コチニールとテラコッタの二人をじっと見ている。
テラコッタ王子が笑った。
「なんかまだ子供みたいだし、一応オレも手加減してあげるから、さっさとやられちゃってよね」
コチニールの心臓がドキッと音を立てる。
東側の選手入場口前では煉瓦王子が呆れていた。
「よく言うわ、何が手加減だよ」
リングのテラコッタはゆっくりと相手に近づいた。
「それじゃあね、さよなら」
彼は腕を引き、コチニールを思い切り殴ろうとする。
が、相手はその拳をさっとよけた。
二階客席の通路に立つアガットと臙脂は目を見開く。
「おや」
アガットから思わず声が漏れた。
「テラコッタ選手が最初の一撃を与えようとしましたが、コチニール選手はそれをかわしました!」
錆色が解説する。
かわす?ありえないね、今のはまぐれでしょ。
そう思ったテラコッタ王子は、また腕を後ろへ引く。
「君、無理しなくていいんだよ」
そうして殴りかかったが、相手はさらりとよけてしまった。
テラコッタのこめかみの血管が浮き立つ。
彼は再度相手に殴りかかった。
が、やはり相手選手はさっとよけてしまう。
「こいつっ、なんでっ……!」
王子は言いながら殴ろうとするも、あっさりよけられる。
「テラコッタ選手の拳が炸裂しておりますが、コチニール選手はそれをいとも簡単にかわしております!さすが紅国守人、クリムスン家の跡継ぎですね!」
錆色の解説に、客席のクリムスン家の男たちはホッとした。
「兄貴っ!」カーマインもいつもは見せない笑顔を向ける。
「そりゃクリムスンや俺たちと散々稽古を積んでるから」と、ワイン。
ボルドーも、「あのくらいのスピードならコチニールには余裕だね」
「だよなっ!心配して損したわ!」カーマインの口角がさらに上がった。
「これはなんとかなるかもしれません……!」
葡萄も眼鏡奥の瞳を輝かせる。
西側の選手入場口前に立つクリムスンは、
「コチニール、相手にのまれるな……!」
息子の姿をじっと見守っていた。
反対に東側の選手入場口前ではテラコッタの兄煉瓦が、
「おいおい、何やってんだよ」と苛立っている。
このままもし負けでもしたら、どうなるか……!
煉瓦が心配する相手、丹国特別室の王、丹色は、踏み台にしている長机の上で地団太を踏んでいた。
「テラコッタあっ‼ちゃんとやらんかこらあっ‼」
一階客席のマゼンタは、兄コチニールとテラコッタの戦いを冷静に観察していた。
(相手が王子だということを除けば、コチニールには勝てる相手だ。でも……)
テラコッタ王子がコチニールに次々と殴りかかっている。
しかしコチニールはそれら全てをよけていた。
「おまえよけるんじゃないよっ!弱者は弱者なりにやられてればいいんだっ!」
テラコッタが殴りかかりながら叫ぶ。
コチニールは相手の拳をよけながら思っていた。
そんなことできない……!僕はクリムスンの息子、次期頭首。やられてればいいなんて、そんなことできない……!みんなの前で、父上の前で、そんなこと……でも……!
一階客席のマゼンタが兄を見つめている。
(コチニールはあの王子に手が出せない……!)
西側の選手入場口前で、クリムスンは深い溜息をついた。
わかっていた。こうなるであろうことを。
それでもコチニールにはそれさえ超えてほしかったのだ。
クリムスン家の次期頭首になる為に。
「テラコッタ選手の攻撃が続いておりますが、それらは全てコチニール選手にかわされております!さて、試合はこれからどうなるのでしょうか⁈」
審判錆色が熱のこもった解説をする。
テラコッタ王子は一旦、コチニールから離れるように後ろに跳び退いた。
「こうなったら」
王子の腰には、細い紐が幾重にも編み込まれたようなものがぶら下がっていた。
(網……⁈)
コチニールが目を丸くするのと同時に、リング脇でクリムスンがはっとする。
「絶対よけられないようにしてやるよっ!」
テラコッタはそう叫ぶと、コチニールに向かって網を放った。
一階客席でマゼンタが息を呑む。
二階客席でクリムスン家の男たちが目を見張った。
「なんですかあれはっ⁈」
葡萄が眼鏡の蔓を掴む。
リングではコチニールが網に絡まって倒れていた。
「これはテラコッタ選手の放った網がコチニール選手に絡まっております!これでは身動きが取れません!」審判錆色が解説する。
二階客席の通路に立つアガットが目を細めた。
「これはまた」
リングに立ったテラコッタ王子が、倒れる相手の元に近づく。
「これで動けなくなったから、やっと充分殴れるよ」
コチニールは網から逃れようと必死にもがいている。
二階の客席に座るカーマインの血の気が引いた。
「まさか……⁈」
テラコッタ王子の攻撃が始まった。
彼の拳や足は見事にコチニールに命中する。
コチニールはよけようにもよけられなかった。
「コチニール……?」
マゼンタが呆然と兄の名前を呟いた。
けれど相手選手の攻撃は当然ながら続いている。
「テラコッタ選手の猛攻が続いております!しかしコチニール選手はよけることもやり返すことも出来ません!」
錆色の説明に観客が歓声を上げた。
丹国特別室でも丹色王が笑い声を上げている。
「いいぞっ‼もっとやれいっ!」
東側の選手入場口前では煉瓦王子が呆れていた。
「ったく、最初からそうしろよ」
彼らの反応とは反対に、クリムスン家の男たちは言葉を失っている。
「兄貴……」
カーマインも愕然としていた。
これは……このままじゃ……
リングではテラコッタ王子がコチニールを殴り、蹴り続けている。
頭だろうと顔だろうと体だろうと容赦はない。
リング脇に立ったクリムスンは、テラコッタを睨んだ。
一階客席のマゼンタの隣に座る執政紅樺は、そわそわと体を動かす。
「あの、これは試合というか……」
言いつつ隣の少女に顔を向ける。
赤紫色の少女は膝の上に置いた両手の拳を握りしめていた。
二階客席の通路に立つ臙脂が呟いた。
「まるでなぶり殺しだな」
彼の隣でアガットは溜息をつく。
三階の紅国特別室では上段中央の席に紅国の王、紅色が座っていたが、斜め後ろに控えた退紅が王に声を掛けた。
「陛下、この試合の観戦は必要ないかと」
「ふむ」
紅色は退紅に言われるがままに立ち上がると、さっさと二人でこの部屋を退出した。
見せたくないものは王に見せない。それが退紅の仕事でもあるのだ。
室内に残された執政官の多くもひそひそと話をし、次々に立ち上がっては部屋を去っていく。
やがて室内には三人の人間だけとなった。
一人は第二王女の韓紅花姫。彼女は下段の席に座って紙と鉛筆を広げ、お絵描きに熱中している。
その隣には女官栗梅が控えていたが、
「姫様、あの、別の部屋でお絵描きいたしましょうか」
彼女は韓紅花姫に優しく言った。
どうか、どうか言うことを聞いてくださいませっ……!とは、顔に出さずに。
「あたしはここで大丈夫よ」
「しかし……」
「今いいとこなのっ」
姫はそう言って絵を描き続ける。
いったい何の絵を描いているのか、栗梅には判断がつかなかったが、とにかく彼女は困ったように唇を引き締めた。
上段端の席には、執政灰桜も残って試合を見続けている。
「さすが丹国の王子、噂通りの卑劣ぶりよ」
灰桜はそう言いながらも口元を緩めた。
紅国特別室の隣にある楽坊特別室では、ソファに座って観戦していた楽師たちが顔を背けていた。
「もう見ていられませんわ……!」ポピーが袖で顔を覆う。
「コチニール……」シェルは今にも泣き出しそうだ。
楽坊の主桃色と参謀パステルも、ソファに並び座って試合を見守っていたが、パステルは苛立って額に筋を浮かべ、桃色は、
「これはもう試合ではありません」と、言い捨てた。
テラコッタ王子はコチニールを殴り、蹴り続けている。
コチニールはもう既に気を失っているのか、全く動く気配を見せない。
二人の選手の側に立つ錆色は、
「あの、これはちょっと……」
さすがにそわそわとし始めた。
その時、「審判」よく通る声がリング脇から届いた。
「はいっ」
錆色が西側の選手入場口前に立つ大男に顔を向ける。
クリムスンが錆色を睨むように、
「コチニールはもう意識を失っている、カウントを取れ」
低い声をリングに響かせた。
「はいっ、ですよねっ」
焦った審判錆色が選手たちに近づこうとする。
が、テラコッタ王子が網ごとコチニールの首根っこを掴んで持ち上げたかと思うと、
「何言ってんの、この子はまだ意識があるよ、ねえ?」王子はコチニールに顔を寄せて尋ねた。
網に包まれたコチニールの表情はよくわからないが、それでも何も答えられる状態でないことは錆色にも充分理解出来た。
「えと、とてもあるようには……」
「あるってさ!だから試合は続行だよ!」
そう言ってテラコッタ王子はコチニールを蹴り飛ばす。
コチニールはその衝撃でリングをゴロゴロと転がった。
クリムスンが息を深く吐き、テラコッタを睨む。
二階客席のクリムスン家の男たちが愕然とした。
「このままじゃ、コチニールが……」
葡萄の声が震える。
「兄貴……?」
カーマインが目を見開いた。
テラコッタの攻撃がまた始まる。
網に包まれて横たわった相手を好きに殴って蹴りまくる。
相手は何も反撃してこない。だから攻撃の手を休めない。
くたばるまで、何なら命尽き果てるまで殴り続けよう。
それが丹国で生き残る唯一の方法だ。
テラコッタ王子はそれを実行しているに過ぎない。
一階客席では紅樺が震えていた。
「こ、これでは、あなたの兄君が……」
彼の隣に掛けたマゼンタは、リングに横たわる兄をじっと見つめている。
「コチニール……」
彼女の中に、なぜか兄と出逢った時の光景が流れた。
クリムスン家の屋敷、コチニールがカーマインと一緒にいた。
初めて会う私に、自己紹介をして、笑顔を向けてくれた。
湯あたりした私を介抱してくれたり、食にあたった私を助けてくれたり、家のことや学校のこと、この国のこと、茜色家のことも教えてくれて、塾に迎えに来てくれたこともあった。
弓の練習をしたり、そう、木刀の手合わせをしたこともあったな。
二人で窃盗犯を撃退したり、レストランに演奏を聞きに来てくれたり、私が王宮楽坊にスカウトされて誰よりも喜んでくれたのが、コチニールだった。
その後も緋色と共に楽坊に忍び込んでまで、会いに来てくれて……
すると、赤紫色の少女の中にとある言葉が流れ込む。
「私は、何かあればコチニールとカーマインのところにも、この家にもすぐに駆けつける」
それはクリムスンとの約束だった。
約束とは、絶対に破ってはならないもの。
もし破ったら、針千本飲まされる……!
マゼンタは両手の拳を強く握りしめた。
そしてその場に立ち上がる。
「マゼンタ?」紅樺が彼女を見上げる。
赤紫色の少女はリングをじっと睨んでいた。
(でも、ここで私が出て行ったら、父上のチームは……)
テラコッタはコチニールを今も蹴り続けている。
コチニールはもう自力で起き上がることさえ出来ない。
どうすれば、どうすればいい……!
その時、少女の脳内に何かがよぎった。
彼女は三階の客席にせり出す楽坊特別室を見上げる。
そう、あの部屋には……!
少女はすぐさま側の階段を駆け上がった。
「どうしました⁈」
紅樺が声を掛けるも、彼女の姿はあっという間に小さくなっていた。
リング上ではテラコッタ王子がコチニールを殴り、蹴り続けている。
「守人の息子だっていうけどさあ、大したことないねえ」
彼は笑顔で相手を殴った。
日頃の鬱憤全てを晴らすべく、自分の雄姿を王に、兄に、観客に見せつけるべく。
リング脇に立つクリムスンが錆色を睨む。
「審判、いい加減にカウントを取れ」
あくまで冷静に述べるが、その声音はまるで脅しのようだった。
言われた錆色はあわあわとしながら、
「テ、テラコッタ選手、コチニール選手は既に意識を失っています!カウントを取るので離れてください!」
と、何とか王子を止めに入ろうとする。
だが相手は審判を無視してコチニールを殴り続けた。
東側の選手入場口前では煉瓦王子が呆れている。
「あーあ、あいつハマっちまったな」
こうなったらもう誰にも止められない。
三階の丹国特別室では王の丹色が歓喜に沸いていた。
「よおしっ!やれやれえいっ!もっと叩きのめせえっ!」
丹色王は末の王子の出来に充分満足していた。
客席の丹国の民も歓声を上げてテラコッタ王子を後押ししていたが、それ以外の国の者は、明らかに顔をしかめたり背けていた。
はっきり言ってやり過ぎだ、とても見ていられるものじゃない。
二階の客席通路に立つアガットと臙脂も溜息をつく。
臙脂は「やれやれ」と瞼を伏せ、
「こんなの見せられてもね」アガットも呆れ果てていた。
三階の紅国特別室では、韓紅花姫がお絵描きに熱中している。
そのおかげで試合には全く視線が行っていなかったが、姫の隣に控える女官栗梅は、試合からしっかりと顔を背け、姫の行動にいつも以上に集中した。
ただ、上段端の席に座る執政灰桜は、冷めたように試合の行く末を見守っていた。
紅国特別室の隣にある楽坊特別室では、ソファに掛けた楽師全員が顔を背けている。
いくら王子だからといって、やっていいことと悪いことがあるだろう。その区別もつかないだなんて……
その時、室内の扉が勢いよく開いた。
赤紫色の少女が走って部屋の中に飛び込んできたのだ。
「マゼンタ⁈」涙を抑えたシェルが立ち上がる。
少女は室内の後ろの壁にはめ込まれたガラスケースの前に駆け寄った。
「どうしたんですの⁈」ポピーも驚いて立ち上がる。
次の瞬間、少女はそのケースを自らの肘で思い切り叩き割った。
ガラスの割れる音と共に、楽師たちの悲鳴が響き渡った。
リング上でテラコッタ王子によるコチニールへの暴力が続けられている。
笑顔の王子は相手を楽しげにいたぶり、そんな彼を何とか止めようと、審判錆色が王子の周囲でおろおろとしていた。
「こ、これ以上の試合は続行不可能です!今すぐコチニール選手から離れてください!」
審判は先程から同じようなことしか言わない。
相手が丹国の王子だから?自分の腕力で止める自信がないから?とばっちりを受けるのが怖いから?
とにかくこいつは審判として使えない。
西側の選手入場口前で怒りを抑えていたクリムスンは、さすがにリングに手を掛けた。
「審判、今すぐ試合をやめさせなければ私が力づくで止めるが構わないな」
猛獣のような低い声が錆色の耳に届いた。
「そ、それはちょっと……!」
審判は声を震わせる。
丹国の王子の怒りを買うのも恐ろしいが、紅国守人頭首の怒りを買うのはもっと恐ろしい。
でもできれば穏便に事を済ませたい……!双方の怒りを買うことなく……!
錆色がぐるぐると考えている最中も、クリムスンはリングに体重をかけようとしている。
ちょ、待っ……!
その時だった。
会場内にパンッ!というような音が響いたのは。
その音の正体にいち早く気づいたのはクリムスンだった。
「銃声……⁈」
彼は素早く会場内を見回した。
同様にそれまで歓声を上げたり顔を背けていた観客がしんとする。
今の音はいったいなんだろうか?
客たちもお互いの顔を見合わせ始めた。
リングのテラコッタ王子もさすがに音に気づいて、コチニールを殴る手を止めていた。
「なんだ?」
審判錆色もきょろきょろと辺りを見回している。
二階客席の一部を占めるクリムスン家の男たちも会場を見回していた。
「今の……」と、葡萄。
「銃声だ……!」カーマインは息を呑んで答えた。
リング脇のクリムスンは音の出所を捜していた。
どこからだ……⁈
彼の視線が二階客席から三階へと移る。
三階には一般の客席の他に王族や執政、それに楽坊の特別室もある。
もしそのどれかから銃が発射されたのなら……!
しかし頭首の目はとある箇所で留まった。
三階、一般客席の間に位置する階段に、異様に鮮やかな赤紫色の何かが立っているのが目に入ったのだ。
クリムスンの瞳が見開かれる。
マゼンタがライフルの銃口を空に向け、リングを睨んでいた。




