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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
37/130

第36話 横笛奏者シェルの本性


 朝、楽坊の教室では授業が始まる前、楽師たちが数人ずつあちらこちらに集まって雑談を重ねる。

中には自らの担当楽器を練習する者もいるにはいたが、誰かに話しかけられれば、或いは誰かに話をしたくなったら、彼女たちは遠慮なくそれを中断した。

特に最近楽坊に入った新人が異例な経歴を持ち異例な所望を勝ち取ったせいで、噂話は絶えることがない。

しかも今朝に限っては、普段なら彼女たちに交じって盛り上がることのない横笛奏者までもがなぜか興奮し、隣席の新人に噛り付いていた。

「で、で、その後どうなったの?」

シェルが鼻息を荒くして尋ねる。

「私を探していた紅樺(べにかば)と合流した。花火はもう終わっていたが」

「花火終わってたの⁈」

「ああ」

「何それー、全然ロマンチックじゃなーい」

「ロマンチック?」

「もっとさ、こう、紅樺様といい感じな雰囲気になって、こう、きゃはっ!」

ロマンチックという言葉はマゼンタの辞書にはなかったが、彼女は大いに呆れた。

物事に期待し、驚き、落胆し、喜ぶ。

シェルの感情が波のように動くのはいい。それは個性だ。

だが自分と紅樺との何かを期待されるのはあまりいい感じがしない。

本当にシェルに紅樺を譲りたいくらいだ。真剣にそう思っている。

 シェルには楽坊に来てから大変世話になっている。

楽坊での授業については勿論のこと、生活するにあたっての決まり事、習慣やしきたりについても、自分にはわからないことを親切丁寧に教えてくれた。

他の楽師は自分に冷たく当たったり、関わりを避けたり、中には人の物を破壊したりする者までいる。誰とは言わないが。

そんな中でシェルだけは出会った時から今まで一切態度を変えない。

いつも笑って素直で正直で開けっ広げで、でも練習だけはとにかく真面目で、楽坊に前例のない入り方をしたマゼンタにとっては、かけがえのない存在だった。

マゼンタもわからないことは桃色(ももいろ)やパステルに聞くより、シェルに聞くことのほうが多いのは事実だ。

思ったことをすぐに言える相手、それがシェルだった。

 ただ、そこまで大事な相手でも全てを打ち明けられるわけではなかった。

例えば紅樺との仲を期待されることについてだったり、セキエを破壊した犯人がこの教室内にいることだったり、花火大会で茜色家(あかねいろけ)緋色(ひいろ)と偶然会って花火を見たことだったり……

緋色とのことは特に、互いの家のことが絡むから話すわけにはいかなかったのだ。

誰にも知られてはならない、絶対の秘密事項だった。

 シェルは今もマゼンタの隣ではしゃいでいる。

まるで自分が花火大会に誘われて、好きな人と花火を思う存分楽しんできたかのようだ。

マゼンタは無表情ではあったが、それでも半ば呆れつつ半ば楽しみながら話を聞いていた。

 そんな二人の様子を斜め後ろの席から睨んでいる楽師がいた。

彼女はいつもの取り巻きたちに囲まれながら奥歯を嚙みしめていた。

「なによさっきからきゃっきゃきゃっきゃ言っちゃって。あの子のどこがそんなに面白いっていうんですの?楽坊の面汚しだっていうのに」

ポピーが言い捨てる。

だがなぜか周囲の取り巻き楽師たちが同意しない。

いつもなら彼女の言うことには必ず賛成するのに、いったいどうしたことだろう。

「ポピー」取り巻きの一人が呼びかける。

「はい?」

ポピーは顎を上げて答えた。

「あなた、最近、マゼンタの部屋に勝手に出入りしてるって本当?」

「え?」

ポピーの目が見開かれる。

「なんだか女官の間で噂になっていますのよ。あなたが誰もいないはずのあの子の部屋から出て来ることが度々あるのだと」別の取り巻き楽師が言った。

「はっ、そんなわけあるはずがありませんでしょう。どうしてあたくしがあの子の部屋に用事があると言うんですの?」

「でも、ねえ……」

「ええ……」

取り巻き楽師たちが顔を見合わせる。

ポピーは、

「確かにあたくしはあの子のことを楽坊の汚点だとは思っておりますけど、だからといってあなた方や女官たちが想像するようなことは一切ございませんわ」

「なら、よいのですけど……」

「もしこの話が桃色様やパステル様の耳に届いてしまったら、大変なことになってしまうかもしれなくってよ」取り巻きたちが心配そうな態度を見せた。

ポピーは一笑する。

「はっ、そんな心配は全くもって必要じゃありませんわ」

その時、楽坊の(あるじ)桃色とパステルが教室に入ってきた。

自席を離れていた楽師たちは急いで元いた場所に戻り始める。

「おはようございます、皆さん」

教壇に立った桃色が笑顔で挨拶し、室内の全員もそれに答える。

桃色は笑顔のまま、

「本日は授業の前にお知らせがございます。シェル、ポピー、マゼンタの三名はパステルと(わたくし)と共に姫様方のご所望をお受けいたしますので心の準備をしておいてください」

室内がざわつく。

シェルは目が点になり、ポピーでさえも口を開けっぱなしにしている。

マゼンタだけは相変わらずの無表情だが。

「ひ、姫様方のご所望⁈」

シェルの声が裏返る。

桃色様の言っている言葉の意味はわかる。わかりはするが、理解が追いつかない。

(やっとこの時が来た……!)

ポピーは感動のあまり震えた。

所望!楽坊に入って初めての!やっと、やっとだ!しかもその相手が姫君様だなんて……!

が、突然彼女は我に返る。

(でも、あの子と一緒……!)

彼女は斜め前の席に座るマゼンタを睨んだ。

桃色の隣に立ったパステルが言う。

「演奏曲は〝クオリカ〟だ。シェル、頼むぞ」

シェルの体を衝撃が走った。

〝クオリカ〟……⁈

シェルの咽がカラカラに乾いていく。

〝クオリカ〟とは、最近楽坊で練習し、完成させた曲。

水の流れるごとく涼しげで爽やかな雰囲気が終始続き、この暑い時季にとてもふさわしい曲だ。

〝クオリカ〟の意味は現代の言葉で言うと〝透明〟のことらしい。

横笛のカンショウが常に主旋律を奏で、弦楽器のツキソメやハクアはカンショウを支えるように背景に回る。

とにかく横笛奏者にとっては良くも悪くもかなり目立つ曲であった。

マゼンタは視線を感じ、斜め後ろを振り返る。

それまで彼女を睨んでいたポピーが思い切り顔を背けた。彼女と目を合わせることも、同じ旋律を奏でることも反吐(へど)が出そうだった。




 守人一族クリムスン家の庭でも虫たちが短い夏を盛大に満喫していた。

彼らは庭の木々に張り付き、屋敷の壁にも張り付き、男たちが食事を取る大座敷の障子や彼らの住居や道場にまで張り付き、大声で自分の存在を知らしめる。

人間には酷な暑さでも彼らにとっては大いなる活力となるように、これでもかと声を張り上げた。

 生温いを越えて熱風と化した空気が庭に吹く。

さすがにこの時間帯にもなると男たちは屋内や日陰で稽古に励んでいるのだろう。

通常なら聞こえてくる彼らの威勢のいい声もいくらか大人しく、虫たちに花を持たせたかのようだった。

熱風は庭だけではなく縁側や窓が開け放たれた屋敷内部にまで回り込む。

室内の畳が敷かれた部屋から羽目板張りの廊下に浴室、手洗い、ありとあらゆる場所まで吹き込んで屋敷中の温度を上げる。たった一部屋を除いて。

 その部屋は本棚で囲まれ、机と椅子が一つずつ置かれた薄暗い部屋だった。

勿論窓が開いていないわけではない。縁側も大いに開かれている。

なのに室内の温度は他と比べるとだいぶ低かった。

理由は部屋の(ぬし)があまりにも冷静で、彼が画面越しに会話をする相手も恐ろしく冷静だったせいだ。

「皆特に問題はないか」

画面に映る頭首クリムスンが尋ねる。

机に接する椅子に腰掛けた葡萄(えび)は汗ばむ眼鏡の蔓を持ち上げて、

「ええ、健康で元気に過ごしておりますよ。カーマインは相変わらずですが、近頃はコチニールまで稽古に熱心で男たちから相当な上達ぶりだと報告を受けております」

「なるほど、カーマインに触発でもされたかな」

「そうかもしれませんね」

彼は留守がちな頭首に家での出来事を報告した。

これも大切な仕事の一つだ。

けれど今回はこれだけではないことを重々承知している。

頭首が本当に尋ねたいことは別にあるのだ。

クリムスンは普段と変わらぬ顔で画面内に収まっている。今いる場所は砂漠のど真ん中で朝晩の気温の変化も激しいはずだ。

なのに汗一つかいている様子はないし、寒さに震える様子も一切見せない。

いつも通り、普段通り、相手に何も悟らせはしない。

それでも葡萄には彼が何を望み、次に何を口にするのか手に取るように理解していた。

「ところで、おまえはどうだ。執政の件、心は定まったか?」

「もちろんです」

頭首の頬が若干緩む。

「また無理をさせてしまうな」

「いいえ、これからのクリムスン家にとっては必要なことだとだいたい予想はついておりました」

「何もかもお見通しというわけか」

「そういうわけでは。ただ頭首としての正しい判断だと思います」

葡萄の考えは当たった。

そしてそれを自分自身も望んでいたのだ。

「ではその線で進めようか」

画面越しの相手が淡々と述べた。

全ては盤上の駒、全ては我らが家の為である。




 庭園に面した王宮の廊下を五人の楽師が歩いている。

先頭は楽坊の主桃色だ。次に参謀のパステル、次にポピー、マゼンタ、シェルの順に続く。

彼女たちはそれぞれの担当楽器を手にしながらゆっくりと進んだ。

蒸し暑い。

庭を彩る赤みがかった草木からは虫たちの大合唱。

どうせなら颯爽と歩いて涼しい場所へ避難したほうがいいだろうに、王宮内ではとかくゆっくり歩くことが決められている。

まあ、うだるような暑さなのだからぐったりしながら歩くのも悪くはないが、さすが王宮。そういうわけにはいかないのだ。

 ツキソメを抱えたマゼンタはピンク色の空を見上げる。

水分が多いせいで空はいくらか(かすみ)がかり、ぼんやりとしていた。

ふと、背後の足音が気になった。

前を行く三人も自分も一定の間隔で足を伸ばし、床を蹴り上げる。ゆっくりと、ゆったりと。

なのに後ろから聞こえる足音は左右へとぶれていた。

マゼンタは歩きながら背後を振り返る。

そこにはなぜか足元がおぼつかず、全身を震わせた横笛奏者、シェルがいた。

「シェル、どうした?」

「き、ききき、緊張で、足が……」

「え?」

「上手く、歩けなくて……」

マゼンタはすぐさま彼女の隣につく。

「大丈夫か?」

途端にシェルの顔が歪む。

「大丈夫じゃないよぉ。なんでわたしの初めての所望が姫様方で、しかも曲が〝クオリカ〟なのおっ?〝クオリカ〟って言ったら、ものすごーくカンショウがメインの曲じゃない、ほぼほぼカンショウパートの独奏じゃない……あははははーん、どうしよおおおおっ……!」

それで歩けなくなっていたのか。

マゼンタはいつも勢いと余裕のある彼女を知っているだけに、ほんの少しだけだが呆れてしまった。

すると前方を進んでいたポピーが二人を振り返り、

「なんて情けない。あなたそれでも楽坊の一員ですの?」

年上で先輩でもあるシェルを叱咤する。

「だってえっ……!」

シェルは相手が年下で後輩であることも忘れ泣きべそをかいた。

マゼンタはふとツキソメを抱えるポピーの手元に目が行った。彼女の手が細かく震えている。

「とにかく、あたくしの初所望を台無しにしないでいただきたいわ」

ポピーは言い捨てると、桃色たちの後を追った。

「そうはしたくないけど……!」

シェルが鼻をすする。

もう少しでよだれまで垂れてしまいそうだ。

「シェル」マゼンタは彼女を覗き込んだ。

「ん?」

「シェルなら大丈夫だ。ちゃんといつも通り演奏できる」

「で、でも……」

「いつも通り最高の演奏が出来るからこそ桃色やパステルに選ばれた。違うか?」

シェルの淡い瞳が大きく見開かれた。

マゼンタは続ける。

「もしそうでなければ今ここにおまえはいない」

突然、シェルは背筋をすっと伸ばした。

かと思ったら、自分の頬を両手でバチンと叩いた。

その行動は逆にマゼンタのほうが驚くくらいだった。

「そう、そうだよね、言われてみればほんとそうだよね!わたしってば、いったい何にビビッてたんだろ。ありがとう、マゼンタ」

頬に手形を残したシェルは真っ直ぐ廊下を歩き始める。

マゼンタはほっとしたように彼女の後姿を見つめた。




 王宮内にある楽舞台(がくぶたい)は小石の敷き詰められた庭園に突き出る東屋のような建物だ。

背後には赤みを帯びた木々や花々が咲き誇り、東屋そのものも風景の一部となっている。

壁のない屋根と柱だけの楽舞台は木目の板に座布団が人数分敷かれ、ここが楽師たちの演奏する場所であった。

向かって左からツキソメを抱えた桃色、ハクアを抱えたパステル、中央に曲をリードするカンショウのシェル、次にマゼンタ、右端にツキソメを抱えたポピーが並び座る。

 一方、楽舞台には向かい合うように王宮の一部屋が設けられている。

一部屋と言ってもかなりの広さで、楽舞台の五倍の横幅はあるだろうか。

縁側の障子は全て開け放たれ、屋内は畳張り、室内奥には掛け軸や季節の花が生けられていた。

その畳の上には全員同じ袴の格好をした女官たちが室内中央付近だけを空け、等間隔に座っている。

彼女たちは何も喋らず、ただひたすら何かを待っているようだった。全員目を伏せ、微塵たりとも動かない。

 と、一人の少女が縁側の遠くからやってきた。

年は十代前半、この暑さの中、幾重にも重ねた着物を羽織り、背中までの真っ直ぐな髪に分厚い前髪、体格は普通だがやけに顔色が悪く、表情も冴えない。

くすみがかった赤色の髪と瞳を持った彼女は、数人の女官を連れ静々と中央へ進んだ。

「あの人は確か……」

マゼンタが蛍火(ほたるび)(うたげ)での記憶を掘り起こす。

「あのお方が第一王女の薄紅(うすくれない)殿下だよ」

シェルがこっそりと口にした。

マゼンタは隣に座るシェルを見て、

(やけに冷静。いつもの調子に戻ったな)

そう確信した。




「マゼンタに会いに王宮に忍び込んだってホントかよっ⁈」

授業が始まる前、塾の教員室では緋色が講師アガットに詰め寄っていた。

同僚の臙脂(えんじ)は自席に座って二人を呆然と見上げている。

「え?ええまあ」

何も悪びれた様子のないアガットは正直に認めた。

臙脂は呆れ果てて溜息をつく。

塾講師が王宮に忍び込んだことをあっさり認めてどうする。

「なんでっ⁈オレだって行きたかったのにっ!」少年が叫んだ。

「茜色家の子息を連れて忍び込むわけにはいかないでしょう」アガットはさらりと返答した。

「なんだよそれっ!てか何しに行ったの⁈」

「顔を見に」

「それだけっ?」

「それだけですよ」

「ホントにホントにそれだけ?」

「そうですよ、他に何があるというのです?」

いつものことだが、呆れに呆れた臙脂は何も言葉が見つからない。

今一度言うが、ただの一般人が王宮に忍び込むことは犯罪以外の何物でもない。

「というか、私が彼女に会いに行ったとよくわかりましたね」アガットが述べる。

「え?ああ、花火大会で偶然マゼンタに会ったんだ」

塾講師たちは一瞬緋色に目を留めた。

「それはまた偶然の出会いで」アガットが感心するように言う。

「ちょっとしか話せなかったけどな」

「ふうん。でも、よかったですね、会えて」

「そりゃよかったけど……」

「ん?」


 教員室でアガットがまさに首を傾げたその時、塾の玄関から急いで入ってきた生徒がいた。

彼女は非常に焦っていた。

その為靴を玄関のたたきに投げ捨てたまま()がり(かまち)に飛び乗った。

(ヤバいヤバいーっ!)

彼女は廊下を走る。

(緋色を追ってたのに走るの早すぎて置いてかれちゃうだなんてーっ!)

密偵として少年を調査中のストロベリーが教室を覗き込んだ。




 王宮の楽舞台では五人の楽師が各々の楽器を抱え、その時を今か今かと待ちわびていた。

時刻は真昼間、気温はどんどん上昇している。

 庭園のど真ん中に配置された楽舞台。壁はなく風が吹き込むとはいえ決して涼しいとは言えない。

心なしか楽師たちの頬が赤みを増しているようにも見える。ただ一人、鮮やかな赤紫色の少女を除いて。

 楽舞台の迎え側にある室内には女官たちがずらり勢揃いし、皆畳の上に正座をしている。

その中央に第一王女の薄紅が同じく座っているのだが、顔色の悪い彼女でさえも若干苛立っているようだった。

「遅いな」

薄紅姫がぽつりと言う。

彼女の斜め手前に座った女官が振り返る。

「使いを送りましょうか」

姫は女官の言葉に唸った。

 楽舞台に座るマゼンタは隣の横笛奏者に顔を向ける。

「シェル、私たちはもう一人の姫とやらを待っているのか?」

「うん、第二王女の韓紅花(からくれない)殿下ね。天真爛漫で時間通りにいらっしゃるのはとっても稀だって聞いてる」

額に汗を浮かべたシェルが苦笑いで答えた。

「なるほど」

マゼンタがとりあえず納得する。

 室内奥に座った薄紅姫が桃色へと視線を落とした。

「桃色、そなたたちの時間を奪ってしまい申し訳ない」

「いいえ、そんなことはございません。(わたくし)たちのことはどうかお気になさらず……」

桃色が普段と変わらない微笑みを浮かべた時だった。

縁側の奥から何やら叫び声とバタついた複数の足音が聞こえてくる。

「きゃああああっ!またチコクーっ!」

「お、お待ちください殿下っ!」

声の主は数人の女官を連れて現れた。

年は五歳程、平均的な体格、肩下までの髪は寝癖でボサボサ、前髪は眉よりもかなり短くこちらもやはり寝癖まみれ、何枚か重ねた着物ははだけてぐしゃぐしゃ、それでも活気に満ちたその幼女は明るい黄みの赤い瞳を輝かせ、なだれ込むように薄紅姫の前に正座をした。

「ごめんなさい姉君サマ!またおそくなってしまいました!」

彼女は額を思い切り畳に付けた。勢い余って鈍い音が響くほどだ。

「毎度そなたという人は」

薄紅姫が表情を動かさずに呆れている。

幼女が連れてきた女官たちも息切れしながら彼女の後ろに正座をし、同じく頭を下げる。

「ホントにごめんなさい!ごめんなさい!おゆるしください!」

幼い彼女が額を畳に張り付けたまま叫んだ。

薄紅姫は一切声音を変えずに、「謝るのは私にだけではないだろう」

それを聞いた幼女はくるり体勢を変え楽舞台の楽師たちのほうを向くと、

「おそくなってごめんなさいでしたっ!」

今一度額を畳にこすりつけた。

桃色は口元を手で押さえ、ふふふと笑っている。

パステルに関しては小声で「まったく」と漏らし、それ以上の愚痴は胸にしまった。

「あれが韓紅花姫か」

マゼンタが幼い姫を認識して呟く。

ふと、視界に妙な物が入った気がして、彼女はそちらの方角に顔を向けた。

自分の左隣にはポピーが座っている。

だがポピーはこめかみから汗を垂らし、呼吸も通常よりかなり早い。

暑さのせいか?

マゼンタは微かに首を傾げた。

「では早速演奏を始めてもらおうか、韓紅花」

薄紅姫の声に妹は「はいっ!」と返事をし、同時に畳にこすりつけていた額をガバッと起こす。

その時、とても鮮やかな何かが目の前を遮った。

韓紅花はその何かを確かめようと、楽舞台をもう一度、今度はしっかり眺める。

五人の楽師たちの中には知っている顔触れが何人かいた。

行事や祭り、今日のように薄紅に誘われて音楽を聞く際には、決まって同じ者たちが呼ばれ、楽器を奏でていた。

韓紅花姫は音楽を聞くとどうしてか眠くなってしまう体質だったので、あまりはっきりとは憶えていないが、それでも楽師たちを眺めるとどこかで見たことのある人間だ、と何となく思ってはいたのだ。

が、今その彼女たちの中に、これまで見たこともない、異様に鮮やかな赤紫色の髪と瞳の女がいる。

「わっ!」思わず幼女の口から声が漏れる。

スゴっ!なにあの色!はじめて見た!

姫はその楽師をまじまじと見つめた。

相手は韓紅花の視線に気づくことなく、演奏のタイミングを見計らっているようだった。

「韓紅花」

薄紅の冷ややかな声に姫ははっとする。

「はいっ!」

いかんいかん、これ以上姉君サマを怒らせてはいけない……!

韓紅花は這うように薄紅姫の隣へと進んだ。

 楽舞台では桃色がツキソメを構える。

それと同時にパステルがハクアを、シェルがカンショウを、マゼンタとポピーがツキソメを構えた。

「参りましょう」

桃色が微笑みながら言った。

 韓紅花が薄紅の隣で正座をする。

彼女が連れてきた女官たちも姫の斜め手前にきちんと着席した。

韓紅花は早速足を崩しながら、

(あんな色のガクシがいたんだ)

と、鮮やかな赤紫色の少女を眺めた。

 桃色の手元がするりと横へ移動する。

その動きを合図に、五人の楽師たちの演奏が始まった。




「けど、もっといろんな話したかった。取っ組み合いもしたかった……!」

花火大会で取っ組み合い?

アガットと臙脂は啞然としつつ思ったが、それを口にはしなかった。

 塾の教員室では相変わらず緋色がアガットにつっかかっていた。臙脂も側の席に座って二人のやり取りを傍観している。

さらには教員室の扉の窓から室内の様子を覗いている者もいた。調査対象である緋色を追ってきたストロベリーである。

彼女は途中から彼らの会話を盗み聞きしていたため、

(なんの話?)と、首を捻った。

室内では緋色が落ち込んだように下を向く。

「なんで、なんでこんな風になっちゃったんだ!」

少年はアガットに言い捨てると、教員室の扉へと走った。

ストロベリーは慌てて扉の端に身を寄せる。

ガラッ!と扉が勢いよく開いた。

しかし緋色はストロベリーに気づかず、そのまま玄関のほうへと走り去っていく。

(いったいなんの話だったの……?)

ストロベリーは小さくなっていく彼の後姿を呆然と眺めた。

教員室の中でも講師たちが彼の去った扉を見つめていた。

「あれ、大丈夫か?」臙脂が同僚に尋ねる。

「はて、どうだろう」

アガットは何かを思案しつつ答えた。




 水の流れを表すかのごとく演奏が続いている。

透明なその物体は形を自由自在に変化させ、庭園の暑さを少しばかり和らげていた。

ある時は川の流れ、ある時は雨の粒、ある時は静まり返る池を表す曲〝クオリカ〟は、その場の全ての人間を洗い流していくようだった。

 楽師たちがいる楽舞台と向かい合うように設えられた室内では、薄紅姫と女官たちが一切身動きせずに演奏を聞いている。

皆演奏が始まる前よりは落ち着いたのだろうか。

ピリピリとした空気が緩み、微笑んだりほっとした様子を見せる女官さえいた。

夏の正午の暑さ、韓紅花姫の遅刻、なぜか漂う緊張感、それらが少しは解放された気がする。

韓紅花姫は首を垂れてぐっすりと寝ているし……

ただ薄紅姫だけは当初からの姿勢も表情も崩してはいないが。

 楽舞台のマゼンタはツキソメの音を抑えながら右隣に視線を向けた。

彼女の隣でシェルが完璧な横笛を披露している。

指は軽やかに動き、水の表現も練習通り的確だ。

非の打ち所がないカンショウの音。さっきのあれは、いったいなんだったのだろうか。


「大丈夫じゃないよぉ」


マゼンタはシェルの泣きべそ顔を思い出す。

いつも簡単そうに練習して、余裕で曲を完成させて、楽坊の皆の前で演奏する時も、桃色やパステルの前で演奏する時も、緊張感など微塵も感じさせないシェルが、あんな風になるとは。

それほど王族に所望されるというのは特別なことなのだろうか。

でも。

無表情ながら少女は安堵していた。

よかった。今は普段通りのシェルだ。

 それより気になるのは……

彼女は左隣に顔を向けた。

マゼンタと同じ楽器、ツキソメを抱えたポピーが指を震わせながら演奏をしていた。

本来ならばもっと音を低くして、シェルの横笛を目立たせなければならないのに、ポピーのツキソメの音はやけに大きかった。

しかもポピーの額には玉のような汗が浮かび、呼吸も音色と同じく荒い。

いつも繊細さを極める彼女の音は、どこへ行ってしまったのだろうか。

 ポピーは演奏しながらただ一つのことだけを考えていた。

(あたくしは、この演奏を成功させなければ、絶対成功させなければ、次は、次の機会は、ない……!)

ポピーの脳に同じ文言がぐるぐると回る。

(あたくしは、あたくしは、この子に、マゼンタなんかに絶対、負けたくなどない……!)

次の瞬間、

ポピーのツキソメからあらぬ音がギュインと鳴った。

マゼンタがはっとする。

桃色、パステル、シェルにも緊張が駆け抜けた。


















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