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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
32/131

第31話 はじめての所望


 「今日も朝から授業だよ~♪遅刻するとお叱りよ~♪朝ご飯美味しかったよ~♪」

カンショウを胸元に差したシェルが拍子を取るように廊下を歩いている。

 彼女は基本的に明るくて前向きであまり物事を深く考えない性質(たち)だった。

だから毎日が楽しくて大好きな音楽を奏でられることに無上の喜びを感じていたし、その日美味しくご飯が食べられること、夜お布団でぐっすり眠れることに心底感動していた。

 そんな彼女が新人の部屋の前で立ち止まる。

誰に言われて始めた日課ではない。

でも新しく出来た友人を迎えに行くこともまた彼女の喜びの一つだった。

「マゼンタ、おはよう。今日の授業始まるよ」と、障子戸を引く。

瞬間、彼女の悲鳴が廊下に響き渡った。

だが室内からはいたって冷静な返事がなされる。

「あ、シェル」

「なっ、何してるの……⁈」

腰を抜かしそうなシェルが乾いた声で尋ねる。

「教本を読んでいた」

「その体勢で?」

「トレーニングついでだ」

「トレーニングって……」

マゼンタが部屋の梁に両脚を掛け、ぶら下がりながら教本を読んでいた。

どうやらその状態で腹筋をしていたらしい。

シェルは呆れつつ傍に置かれた手付かずのお膳に目が行く。

「朝ご飯は?」

「あ、忘れてた」

「ええーっ⁈」

シェルにとってご飯を食べないということは絶対に有り得ないことだった。

一日の基本は朝食から、それが彼女のモットーだったのだ。

しかしそのお膳が本来の目的を思い出させる。

朝食→授業、だ……!



 楽坊内では聞き慣れない音が廊下を伝っていた。

楽坊はおろか王宮内でそんなことをする人間はいない、余程の事態でなければ。

つまりはシェルとツキソメを抱えたマゼンタが廊下を走っていた。

時々遭遇する女官たちは振り返り息を呑む。けれどそんなものに構ってなどいられない。

授業に遅刻するのは言語道断だ。

「ヤバいヤバい、桃色(ももいろ)様たちもう来てるかなっ⁈」

走りながらシェルが冷汗を垂らす。

「そんなに慌てなくても」

状況を深刻に捉えていないマゼンタは呑気に答えた。

遅刻がまずいのか?

確かに紅国人(くれないこくじん)は時間に厳しいと思う。

それはさすがの少女もクリムスン家やアガットの塾で一応経験はしていた。

先を走っていたシェルが教室の障子戸の中に入り込む。

「おっ、なんとか間に合った!」

教壇に誰も立っていないのを確認するとシェルははしゃいだ。

既に着席していた楽師たちは呆れたり冷ややかな表情を見せるが、やはりシェルは気づいていない。

マゼンタもシェルの後に続こうと教室の前で立ち止まる。

その時だった。

「マゼンタ」

背後から涼やかな声が降ってきた。

赤紫色の少女はくるりと後ろを振り返る。

そこには楽坊の主と参謀が並び立っていた。

「桃色、様、パステル、様」

少女は慣れない敬語を何とか絞り出す。

障子戸の側に立っていたシェルはぎくりとなった。

(廊下を走ってるところ、見られた……⁈)

シェルは淡い自分の瞳がさらに白くなっていくのを感じた。

「おはよう」桃色がマゼンタに言う。

「おはよう、ございます」

「少し話があるのだけれど、いいかしら?」

シェルが戸の陰から恐る恐る桃色たちを覗き込む。

(怒られる?怒られる?廊下を走ったこと責められる?)

彼女はあわあわと唇を震わせた。

しかし桃色はマゼンタを真っ直ぐ見つめながら、

「実は、とある方から所望(しょもう)を受けたのです。あなたと(わたくし)で」

「所望?」赤紫色の少女は桃色の言葉を繰り返しつつ脳内の辞書を引く。

その間に教室内の楽師たちがざわついていた。

「所望ですって……⁈」

「なんですって⁈」

「あの子、ここに来たばかりですのに⁈」

「いったい、誰が?」シェルもポカンと首を傾げる。

自席に着いていたポピーはマゼンタのほうを睨みながら拳を握りしめた。

桃色が続ける。

「ですのでこれからその方の所へ参ります、よいですね?」

「はあ」

所望って、呼ばれること、か?

よくわからずも少女はとりあえず理解した。

「ではパステル、後を頼みますよ」

「お任せください」

パステルは歩を進め、マゼンタの隣を通り抜ける。

その際にぶつぶつと小言を漏らした。

「にしても、どうして朝も早くから所望など。しかもあの者が桃色様とマゼンタを、まったく……」

そうして彼女は教室の中へと入っていく。

戸の側にいたシェルは急いで自席に向かった。

「皆さんおはよう、本日の練習を始めますよ」

パステルが言って障子戸を閉めると、

「さあ、私たちも参りましょう」

桃色もマゼンタを促した。



 楽坊を出た。

といっても周囲の雰囲気はいたって変わらない。

廊下の片側は障子戸が続き、もう片側には木々や草花、岩で描かれた庭園がそこはかとなく広がっている。

 楽坊と隣接する建物は渡り廊下で繋がっていた。

しかも厳重な扉があるわけでも鍵がかかっているわけでもなく、ただ木の廊下が敷かれているだけだ。行こうと思えば誰でも行き来が出来る。

けれどそれを敢えて破り、男子禁制の楽坊に立ち入ろうとする者がいないのは、そこそこ良識のある人間が王宮内には多いからだろう。

しかし珍しい人種が、一人は楽坊の主で、もう一人がド派手な見たこともない赤紫色の少女だとすると、すれ違う者たちは彼女たちを目に留めこそこそと話をせずにはいられなかった。

「あの、桃色様はともかく、誰が私を所望したんですか?」

回廊を歩きながら、自分と同じようにツキソメを抱えた主の背に問いかける。

楽坊に入ったのはおととい、授業を受けたのは昨日が初だぞ。なのに所望って……

マゼンタには理解が追いつかない。

執政(しっせい)紅樺(べにかば)様です」

「紅樺?」

すると桃色がとある障子戸の前で立ち止まる。

無表情ながらも困惑を隠せない少女が主に倣うと、

「紅樺様、桃色でございます」

主が室内に声を掛けた。

僅かな間を置いて部屋の中から、「どうぞ」と返事が返ってくる。

桃色は慣れたように戸を押し開く。

 そこに広がっていたのは両脇に並んだ背の高い棚だった。棚の中は上から下までびっしりと本が詰め込まれている。

 幾分埃臭く、幾分薄暗いその部屋の中へ入ると、棚の奥にはさらに棚が設けられ、その奥にはさらに棚が、また棚が、とまるで書庫のようにも見受けられた。

(まるで葡萄(えび)の書斎みたいだ)

桃色の後に続きながらマゼンタは思った。

 そして二人は部屋の奥に辿り着くと横長の机が一つ鎮座しており、それに合わせた椅子に男が座って書き物をしていた。

年は二十代半ば、身長は割と高めだが体格は平均的、後頭部で団子状に結った髪に、自分たちと同じような帯を巻いた服装。彼の色は茶に赤を混ぜ少し薄めたような色だった。

(こいつが、紅樺)

男はすらすらと筆を動かし丁寧に文字を綴っている。

「紅樺様、お連れしましたよ」

隣に立つ桃色が彼に声を掛けた。

「ああ、朝早くから申し訳ありません」

紅樺が顔を上げた。

マゼンタと彼の視線が合った。

(この男、どこかで……)

艶の良いその顔を見下ろした少女の脳が記憶を辿る。

ふわふわと舞う虫の光と桃色たちの演奏が重なって……

マゼンタははっとした。

「おまえっ、蛍火(ほたるび)(うたげ)でニヤついていた……!」

そう、マゼンタは彼と会っていた。

正確には会ったのではなく、見かけた程度、なのだが。

それでも紅樺が蛍火の宴で自分に微笑みかけたのを今しっかりと思い出した。

なぜあの時この男が自分に対してニヤついたのかは計り知れない。

でもマゼンタは僅かな記憶をちゃんと手繰り寄せることに成功した。

が、驚いたのは赤紫色の少女だけではなかった。

桃色は彼女の言葉遣いに仰天し、紅樺に至っては苦笑いをするしかない。

「あの時の……!」

マゼンタが今一度声を発する。

「これ、言葉」何とか気を取り直した桃色がたしなめる。

ヤバっ、敬語っ……!

少女はつっかえるように唾を飲み込んだ。

「いやいや、構いませんよ」

紅樺は苦笑いから普段の微笑みへと表情を変貌させる。

だが心中は、

(ニヤついていたって?まあそう取られても仕方ないと言えば仕方ないのですが……)決して穏やかではない。

桃色は場を取りなすように、

「こちらは執政の紅樺様、こたび私たちをご所望された方です」

形式的に紹介を始めた。

(執政。政治を執り行う者、か?)

少女が驚きも失敗も抑えて冷静さを取り戻す。

「そしてこちらが」

桃色が彼女を紹介しようとした。

しかし言葉を継いだのは、

「マゼンタ」紅樺だった。

彼は赤紫色の少女を見つめ、彼女もまた彼をじっと見返した。

相手にどんな意思があるのかはわからない。ただ見られているから見返している、少女にとってはそれだけのことだった。

「あのぉ、紅樺様」

黙りこくって見つめ合っている二人の間に桃色が割り込む。

紅樺は我に返ると、

「おっと、失礼いたしました、所望でしたね。それでは一曲お願いいたしましょうか」

「かしこまりました」

普段通りに戻った桃色が瞳をゆっくりと閉じる。

「では何の曲を弾きましょうか」

「桃色様」その時少女が楽坊の主に声を掛けた。「私はまだ楽坊で習っている曲を多くは弾けないのですが……」

譜読みするのが精一杯で、実際弾いているのは……

マゼンタは戸惑うように視線を下げた。

それを察した桃色は、

「ならば〝アミュレクモ〟はいかがでしょう。本来は合奏曲ですがツキソメパートだけを奏でるのも粋な物ですよ」

楽坊に入ったばかりの新人に優しく微笑んだ。



 一つの授業を終え、次の授業へと進む間の休憩時間。

楽坊の教室では楽師たちが各々席に着き、周囲と何やら話をしていた。

ところがその表情は暗く、多くが塞ぎこんでいるように見える。

彼女たちは、

「所望だなんて、ありえませんわ……」

「ここに入ったのは一昨日ですのよ。なのに……」

「私たちだって所望されたことはございませんのよ……」

がくりと項垂れている。

ただ一人、

「ねーっ!だからマゼンタすごいよね!もう噂が王宮に回ってるのかなっ⁈」

シェルだけは大喜びではしゃいでいた。

楽師たちにはシェルの反応が理解出来ず、さらに溜息をつく。

そうそう、もう一人、彼女たちとは違う反応を示している者がいた。

ポピーが額の血管を浮き立たせ、手の平に自らの爪を食い込ませていたのだ。



 その頃、王宮内にある紅樺の部屋では、彼の机の背後に備え付けてある雨戸が全て開け放たれ、見事に描かれた庭園が全貌をあらわにしていた。

赤や茶に彩られた木々と花々と地面に敷かれた灰色の岩や石たち。

それらを背景に椅子が縁側に二つ並べられ、桃色とマゼンタが並ぶように座っている。

紅樺は室内の己が椅子に座り、彼女たちを眺めながら満足そうに微笑んでいた。

「では参りましょうか」

桃色が少女に声を掛ける。

「はい」

二人が同時にツキソメを構えた。

楽器の調整は済んだ。音出しも終えた。軽い音合わせもした。

これからが、本番。

マゼンタは桃色の手元に視線を向ける。

アミュレクモは合奏曲。だけどそこからツキソメパートだけを奏でる。出だしは……

桃色の弓を持つ手が動いた。

マゼンタもその動きに合わせる。

 二人のツキソメの音色が室内に、庭園に、広がっていった。

どこまでも軽く、どこまでも朗らかに。

哀しく切なくもある曲がそこまで重くならないのは、ツキソメのおかげだろうか。

これがセキエだったらこうはならない。もっと重厚感たっぷりに、嫌でも劇的になるだろう。

 紅樺は二人を同時に視野に入れているつもりだった。

しかしいつの間にか赤紫色の少女ばかりを追っていることに、紅樺自身も気づいていた。

 桃色がマゼンタに顔を向ける。

少女は自分の演奏にとにかく集中しているようだ。

他を見る余裕はない、当然だ。

一昨日初めてツキソメに触り、昨日初めてアミュレクモを弾いた。

なのに、なのに。

楽坊の主は弓を動かしながら深く息を吐く。

(一晩練習しただけでこんなに上達するものなのですか……)と。




 塾の広場は今日も閑散としている。

遊具も腰掛ける椅子も何もなく、中くらいの木が数本申し訳なさそうに脇に植えられていて、それ以外は何もない。

ただし地面から生える雑草だけは常時刈り取られていて、武術の稽古をするにはもってこいの場所だった。

 緋色(ひいろ)はそんなありがたい場所で一人体術の型を練習している。

流れるように動く体躯、かと思えば瞬時に繰り出される腕や脚。

 けれど少年は一切満足していなかった。だから休み時間の間もこうして稽古に励んでいるのだ。

(ったく、どうやったらカッパーに勝てるんだ⁈)

 緋色はとりあえず目標を一つに絞っていた。

本当に倒したい相手はいるのだが、そいつにはどうやっても会えない、会えないのだから戦うことも挑むことも出来ない。

だったら今はすぐ側にいるヤツにとりあえず勝つっ‼

そう決めたらしい。

 彼は猩々緋(しょうじょうひ)の言葉を思い返す。


「この家で奴に勝てるとしたら茜色(あかねいろ)様ぐらいかのぉ」


 猩々緋は鼻でもほじる勢いでそう言っていた。

父上だけが勝てるって、カッパーはそんな強いワケっ⁈猩々緋よりもっ⁈

少年は意表を突かれたが、すぐに笑みを浮かべた。

だってそんな強い相手と練習出来るなんてサイコーじゃん!

緋色はとても単純だった。

(何とかしてカッパーに勝つっ!そんでもっていつかマゼンタにリベンジして、自分が一番強いって認めさせるんだっ!)

少年は片方の足を空高く突き出した。

 そんな彼の姿を今日も教室の窓から見つめている生徒がいた。

「なんか緋色、また上手くなってる?」

王宮の密偵、ストロベリーが目をぱちくりとさせた。




 紅樺の所望を終え一人教室へと戻ったマゼンタが室内を見回すと、席に着いたり立話をしていた楽師たちが一斉に彼女を振り返った。

これにはさすがの少女も気づいた。

(何だか視線が痛い)

そう思いつつ自席へ向かって、抱えていたツキソメを机に置く。

すると隣席のシェルがすかさず、

「ねねねねどうだった⁈所望、どうだった⁈どんな感じだった⁈」マゼンタへと身を乗り出した。

少女は席へ座りながら、

「ああ、アミュレクモを桃色様と弾いた」

「ででででそれで?」

シェルが先を聞きたがるように、ポピーや他の楽師たちもマゼンタのほうを盗み見しながら耳をそばだてる。

「何とか弾き終えた」

シェルはガクッとなる。「いやさ、わたしが聞きたいのはそういうことじゃなくて」

 マゼンタは桃色との演奏を思い返した。

どこまでも途切れることのない、ツキソメの音……

自分の拙い技術や表現を、桃色が上手くカバーしてくれたことに彼女は気づいていた。

さすが楽坊の主。ツキソメの腕が尋常じゃない。

 赤紫色の少女がほんの十分前の出来事に浸っていると、隣のシェルはさらに身を乗り出し、

「ねえ、いったい所望した方ってどなただったの?」

興味津々な彼女の勢いに現実へと引き戻された。

マゼンタは桃色の演奏の陰に隠れてしまった男を記憶から漁る。

「紅樺というヤツだ」

〝ヤツ〟……?

斜め後ろの席で聞き耳を立てていたポピーは呆れる。

所望した相手に対して〝ヤツ〟とは……⁈

「紅樺様?執政の?」シェルが首を傾げる。

「知っているのか?」

「うん、紅樺様は執政だけど王族でもあられる方でね、芸事に寛大で楽坊のことをとても大切に扱ってくださっていて、桃色様がよく所望をお受けになっているよ」

「へえ」

 マゼンタの中に一つの仮説が生まれた。

おととい楽坊に入ったばかりの自分を王宮内で知っている人間がいるとはとても思えない。

けれど紅樺と桃色が繋がっているなら、自分のことは桃色から聞いたのだろうか。

でもそれなら蛍火の宴でニヤついていたのはいったいどういう理由で……?

 少女があれこれと考える最中もシェルの話は続いている。

「ただ少し所望が多すぎるってパステル様は困ってらっしゃるみたいだけど」

「ふうん」

「にしても紅樺様かー、これまたすごい人に目を付けられたね」

「すごい?」

「だってただの執政様じゃなくて王族の方だよっ、これってスっゴイことでしょ⁈」

「そうか?」

「そうだよ!もうマゼンタってば感激が足りなさすぎるっ!」

ポカンとするマゼンタとはしゃぎまくるシェル。

 教室内の楽師たちは啞然としたり呆れたり落ち込んだり、反応は様々だったが、ポピーだけはマゼンタを険しい表情で睨み、その拳から血を滴らせていた。




 その夜、クリムスン家の道場には珍しい二人が居残った。

いつもなら宿題があるだの予習があるだの早めに切り上げる兄が、一人稽古にすがりつく弟につきあっていたのだ。

他の男たちは次々と道場を後にし、今宵もお楽しみの夕餉(ゆうげ)に向かってしまっている。

場内には、いかに相手より早く襟元を掴んでやろうかと見計らう兄弟の、素足と床が擦れる音だけが響いていた。

「僕を相手にしてくれるなんて久しぶりだね。今までほとんどワインたちに付き合ってもらってたでしょ?」兄コチニールが言う。

「兄貴と練習する気になれなかっただけだ……!」

「言ってくれればいつでも練習相手になったのに」

「こっちが願い下げだったんだよ!」

弟カーマインは自分の首元に伸びる相手の手を払いのけた。

 自分を気遣う兄の声。けれどカーマインは知っている。

コチニールはいつも優しい、それは幼い頃からずっと変わらない。

でも、稽古となると兄は途端に牙をむき出し、自分を必ず打ち負かす。いっつもそう。

だけど……!

 カーマインはコチニールの一瞬の隙を狙い、襟元に手を伸ばした。

相手は優し気だった目を見開く。

ところが。

兄の手が素早く動き、先にカーマインの襟元を掴んだかと思うと、そのまま横倒しにしていた。

肉体が床に衝撃を与える音が伝播する。

「くっ……!」カーマインの口元から声が漏れた。

たった今弟を倒したコチニールはというと、なぜか驚いた顔で彼を見下ろしていた。

だから思わず彼の名を呼ぼうとしたのだが、

「くっそっ‼」

兄の呼びかけはカーマインの声にかき消される。

「なんで勝てないんだよ!あんなに練習したのに!あんなに稽古したのに!ワインともボルドーとも、なのにっ!」

倒された姿勢のまま弟が叫んだ。

「あ、いや……だってさ」コチニールが慌てたように言葉を重ねる。「ほら、僕のほうが一応年上だし、身長もあるし、君よりは長く生きてる分、稽古の時間もちょっとばかりは長いだろうし、だからしょうがないよ。でもカーマインがもっと大きくなったらきっと……」

弟は兄をカっと見上げると、

「そんなこと関係ない!俺は今強くなりたいっ!」

「今……」兄は呆然とするように繰り返した。

 カーマインは心の中で叫ぶ。(最低限兄貴に勝てないんじゃ、マゼンタにも父上にも勝てないだろ……!)

カーマインの体が小刻みに震えた。

 コチニールは悔しがる弟をただ見下ろすことしか出来なかった。

その脳内にはほんの一分前の映像が自動的に再生されている。

自分がカーマインの襟を掴むその寸前、弟が自分のほうに手を伸ばして……

(あのスピード。先に取られてたら僕が、倒されてた……)

兄の中に焦りというものが芽生えた瞬間だった。


















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