第29話 私の務め
屋敷の前に男たちが勢揃いしていた。その人数は圧倒的で、各自仕事から目を放せる者は一人残らず見送りに来ていたのではないだろうか。
彼らの前には一台の黒い車が停車し、セキエを背負ったクリムスン家の末娘が車の側にポツリと立っている。
彼女の前には頭首クリムスンを始め、コチニール、カーマイン、葡萄、ワイン、ボルドーら少女と特に縁の深い者たちが並んでいた。
「本当にもう行っちゃうんだね」
兄コチニールが寂しげに言う。
「まさかお嬢が王宮に入るだなんて。出逢った頃は思いもしなかったよ」
ワインの中には彼女と初めて接した荒野の思い出が流れた。
「お嬢との取り組みは絶対忘れないから……!」と、ボルドー。
「何お涙ちょうだいになってんの。一生の別れじゃあるまいし……!」
もう一人の兄カーマインが苛立ちながら言い捨てる。
「年に一度は帰ってこれるみたいだしね」と、ワインが付け加えた。
「そーだよっ……!」
けれどコチニールの瞳は涙ぐんで、
「セキエ、持って行くの?」
妹に尋ねる声が震えた。
「アガットが熱心に教えてくれたし、それに時々弾いてくれって」
「そっか、そうだよね、これまでずっと練習してきたもんね」
赤紫色の少女は背中の楽器を肩越しに見る。
一時はもう弾くことはないと思ったけど、まさか今後も付き合うことになろうとは。
その時間を確保出来るかどうかはツキソメ習得にかかっているのだが。
「マゼンタ」
彼女は自分の名を呼んだ葡萄に視線を移した。
「楽坊での心得を憶えていますか?」
眼鏡の彼が厳しさと心配が入り混じる声で聞く。
「えっと……」
つい最近、楽坊に持っていく服を詰めていた時に確か……
葡萄は少女が記憶を漁るよりも早く、
「よく学ぶこと。それから敬語、気をつけてくださいね」
今一度、深く念押しした。
彼女がこの家へやって来てから勉強にしても言葉遣いにしてもだいぶ成長はしている。
それでもこの場所で敬語を使うことはほぼないに等しいし、何より、彼女が敬語を苦手とすることを眼鏡の彼は気づいていた。
「わかった」
「わかりました」と、早速修正する葡萄。
「わかりました」と、復唱するマゼンタ。
やらかした彼女に眼鏡の彼は先が思いやられる。
(本当にちゃんとしてくださいね……!)葡萄は腹の底から溜息をついた。
そんな二人の姿に男たちがくすりと笑った。
この光景を見られるのもこれで最後、いやはや当分先か、と。
最後に少女はクリムスンを見上げた。
「父上、ありがとう」
大男、守人、頭首、父親である彼は微笑む。
「おまえはおまえの、務めを果たせ」
マゼンタは深く頷いた。
私の務め。
私は、クリムスン家の皆の為に、私が出来ることをする。それが私の、務めだ。
やがて、彼女が乗った車が門を出てゆっくりと去っていった。
男たちは門の外まで出て来て赤紫色の少女を見送った。
「マゼンタ!またね!僕たちはここで君の帰りを待ってるから!」
コチニールが目を潤ませながら叫ぶ。
ボルドーは目頭を指で押さえ、隣のワインが相棒である彼の肩をトントンと叩く。
カーマインに限ってはとにかくそっぽを向いて妹の去り際を視界に入れないようにした。
クリムスンと葡萄は並び立ちながら車を見送っていた。
「誰があの子を調べていたかわかったか?」
頭首が呟くように尋ねる。
「ええ、どうやら楽坊が王宮専属の密偵に依頼したようです」
葡萄が眼鏡の蔓を持ち上げて答える。
「楽坊の人間がどうしてマゼンタを知り得る。彼女たちはほとんど王宮から出ないはずだろう」
「その辺りはまだ。しかし王宮の密偵が動いたとなると……」
クリムスンは溜息交じりに、
「楽坊に限らず、王宮内部の者が関係しているということか」
「はい」
「なるほど」
頭首は豆粒程の大きさになってしまった黒い車をじっと見つめた。
彼の住処は一見豪華だった。立派な屋敷には何人住めるかわからない位部屋があり、完璧に手入れが行き届いた庭園には至る箇所に花々が咲き誇って池には魚まで泳いでいる。
しかしながらその屋敷内はしんと静まり返り人っ子一人見当たらない。
ここに本当に人が住んでいるのだろうか、そう思わせるような雰囲気をひしひしと感じさせた。
が、彼は住んでいる。
地上ではなく、地下に。
屋敷の地下には大量のモニターに覆われた無機質な部屋があった。
扉を開けて左右の壁と真正面に四角いモニターが隙間なくはめ込まれ、一脚だけ用意された椅子に座った彼がそれら全てを視界に入れるように眺めている。画面にはジョーガの都の至る所に設置された監視カメラの映像が流れ、さらには瞬時に切り替わった。
それでも彼は一度に見ていた。
ただし今は見ているだけではない。
彼は耳に差し込んだ小さな端末で誰かと会話をしていたのだ。
彼が言う。
「例の子は王宮に向かっている。だからそっちはもう引き揚げだ」
ところが端末の向こう側では、
「でも塾には茜色家の息子が通っているし、もう少し彼の様子を見てもいいんじゃない?」
戸惑った様子ながらも提案してきた。
「ふうむ、確かに一理あるね。ならもう少しだけ続行しようか」
「了解」
か細い少女の声が了承する。
それを確認するとローズは耳に差した端末に指を当て、彼女との通話を切った。
クリムスン家の門の前では相変わらず男たちが勢揃いしている。
頭首クリムスンに長男コチニール、次男カーマイン、頭首の右腕葡萄に、男衆の纏め役ワイン、そして彼の相棒ボルドー……とにかく揃いも揃ったクリムスン家の守人一同がもう見えなくなったであろう車を見送っている。
その時、敷地の白壁に反するように生い茂った竹藪の中から一人の少女が顔をちらりと覗かせた。
彼女、即ちストロベリーの手には四角い携帯電話が握られていた。
広い。まるで大座敷だ。
マゼンタは今自分が正座しているだだっ広い畳部屋のど真ん中でそう思った。
自分以外には当然ながら誰もいない。もし声を発したらいい具合に反響しそうだ。
あれから黒い車に導かれた場所は勿論王宮内にある楽坊という所だった。
蛍火の宴で降ろされた場所とは全く異なり、車から降りたその地点が既に楽坊内だったのだ。
ここまで案内してくれたのは一人の女官で、自分より少しは年上だろう彼女の後をついて木造の階段を上り庭園に面する渡り廊下を歩いて通されたのがこの広い畳の部屋だったのだが、それっきり、だいぶ時間は経ったはずなのに誰一人として訪れない。廊下を歩く人の気配すらしない。
ここが、楽坊、なんだよな?
時折楽器の音が遠くのほうから聞こえてはいた。弦楽器、吹奏楽器、打楽器……蛍火の宴で聞いたものや初めて聞く楽器の音も複数混じっている。
彼女は自分の隣に置いたセキエに視線を落とした。
セキエは今日も深く鮮やかな赤色を輝かせ、自分が今いる場所など我関せずだ。
師に言われて共に楽坊へやっては来たものの、もしかしてこれが見納めになってしまうだろうか。
少女がそんな感慨に浸っている時だった。
足袋が床と擦れ合う音がこちらへ向かってきている。一つ、いや二つか。
急ぎたい、だが何か事情があってゆるりと進んでいる二つの音が部屋の周囲をぐるりと回りやっと障子戸の前で止まったかと思うと、彼女たちが少女の前に現れた。
先に敷居を跨いだのは齢四十行くか行かないか程の女性で、平均的な体格、後ろ髪の上半分だけを一つに結んだ腰までの真っ直ぐな髪に、整った顔立ちと穏やかな表情、色は黄み寄りの赤をだいぶ薄めたような色味をしていた。
次に続いた女性は前の人と同じか上の年齢か、身長も前の彼女と変わらないか少し低く、ただ体型はかなり細い。真っ直ぐな髪を後頭部で一纏めにし、後れ毛は一本も見当たらず、眉も目も吊り上がり気味でその色は薄い灰色にこれまた薄い赤が混じったような色だった。
二人はマゼンタの正面、少し離れた場所に並んで正座をする。
少女は彼女たちに見覚えがあった。
忘れるはずがない。蛍火の宴で演奏を率いていた二人なのだから。
あの夜は派手な着物に髪飾り、厚い化粧を施していたが、今はそれら全てが取り払われて少女と同じような至ってシンプルな着物を着込んでいる。
それでも少女の目は当然誤魔化せなかった。特にツキソメを奏でていた薄赤いほうの女性は。
「お待たせしてごめんなさい、少し遅くなってしまいましたね」
薄い赤色の女性が涼やかな声を発する。
「授業が多少延びたのだ」
薄い灰色の女性がしゃがれた声で補足した。
(授業。楽坊にも塾のような授業があるのか)
塾と同じ授業内容では勿論ないだろうが、楽坊の知識が乏しい人間にとっては驚きに値した。
薄赤い女性は微笑みながら姿勢を正す。
「自己紹介をいたしますね。私は桃色、こちらはパステル。楽坊は私たち二人で取り纏めております」
薄い赤の女が桃色で、薄い灰色の女がパステル。
つまり蛍火の宴でツキソメを弾いていたのは、桃色……
少女は穏やかに微笑む彼女を見つめた。
すると隣に座っている灰色のパステルが、
「いえいえ、楽坊を率いているのは桃色様にございます。私は桃色様の足元にも及びませぬゆえ」
片手を左右に振りながら首も必死に揺らしている。
「そんな、謙遜しないで」
「謙遜ではなく事実でございます」
「実質動いているのは私たち二人ではありませんか」
「いえいえいえ、そのようなことは」
「パステル」
「王宮楽坊は桃色様あっての楽坊でございますから」
「そんな風に言わないで。楽坊はパステルあってのものですよ」
「いえいえいえいえ、滅相もございません」
マゼンタは啞然としながら二人のやり取りを眺めた。
どうぞどうぞ、いえどうぞどうぞ、いえどうぞどうぞどうぞ……このやり取りは紅国にやって来てからよく目にする光景だったが、少女にはその良さがいまいちよくわからない。
相手を尊重し何かを譲る発言だということは葡萄に聞いて教わったが、そんなに自分を卑下する必要があるのだろうか。
長らく〝どうぞどうぞ合戦〟を続けていた二人だったが、さすがに桃色は少女の表情に気づいて、
「と、まあそういうことでございまして」
その場を繕うようにコホンと咳をする。
(何がだ?)
マゼンタは思わず心の中で突っ込んだ。
しかし楽坊の主桃色は穏やかな顔のまま紹介を続けることにし、
「私の担当楽器はツキソメ、パステルはハクアとなっております」
「ハクア?」
ツキソメは知っている。が、ハクアとは?
パステルは大袈裟に溜息をつくと、
「やれやれ、ハクアも知らぬとは」
そう漏らして背後を振り返った。
彼女の視線のだいぶ先には床の間がぽつり設えてあった。そこにツキソメが一棹飾ってあるのだが、隣に丸い胴から棹が伸び、弦が四本張られた楽器も共に置かれている。
「あのツキソメの隣にあるのがハクアだ」
マゼンタの脳がとある光景を思い返した。
「ああ、蛍火の宴でパステルが弾いていた楽器か」
桃色が思わず目を丸くして「あなた?」
パステルも唸るように「敬語……」
「ん?」
状況が飲み込めない少女だけが首を傾げた。
(敬語もろくに使えぬとは、まったくどこの馬の骨だ)と、パステル。
(それが密偵に調べて頂いてもわからなかったのですよね)と、桃色。
楽坊の主たちは心の中で会話をした。
あなた呼ばわりされた灰色のパステルは咳払いをすると、
「とにかく、桃色様のお生まれになった家はツキソメを生み出した家でもある」
「生み出した?」
「太古の昔にツキソメを創り出し、現在まで綿々と続いてきたのだ」
するとすかさず桃色が、
「それを言うならパステルの家もハクアを生み出した家ですね」
微笑みながら告げる。
「まあ一応そういうことに」
マゼンタは目の前の女性二人を見比べた。
桃色の家はツキソメを、パステルの家はハクアを生み出した。それが今日までずっと続いてきている。なるほど、よほど古い歴史のある家なんだな。
少女が何となく理解したその瞬間、それまで上品を絵に描いたような桃色が急に身を乗り出したかと思うと、
「それでマゼンタ、あなたにツキソメで一曲弾いて頂きたいのですが、よろしいかしら」
楽坊の主は瞳をキラキラと輝かせた。
自己や楽器の紹介など全て取っ払いさっさと真の行いに進もう、と全身から漂わせているかのようだ。
というかそれが本来の目的なのだから何も悪いことではない。ここは楽坊、音楽を生業とする場所。そして相手は楽坊の長、だ。
けれど少女は当然気乗りしない様子で、
「あの、私はツキソメを弾いたことがないんだが」
桃色を真っ直ぐに見つめた。
求められてもそれが真実、虚勢を張るつもりは毛頭ない。
「よく存じています。でもセキエという楽器は弾けるのでしょう?」
主は少女の隣で静かに出番を待つ楽器に目を向ける。
「セキエを知っているのか?」
マゼンタは思わず尋ねた。
ほとんど誰も知らない楽器を王宮楽坊の主ならさすがに把握しているのか、少女は桃色の答えに期待した。が、
「敬語」
主の答えを遮るようにパステルが言った。
「え?」
「〝セキエを知っているのですか?〟だ」
「あ」
少女の記憶が葡萄の言葉を思い出す。
『よく学ぶこと、それから敬語、気をつけてくださいね』
そうだ、葡萄に心得を教わったんだった。
無表情の彼女がほんの少し苦い顔になる。
桃色はそれを見逃さずくすりと微笑んだ。しかしパステルは、
(私はこの娘の教育係か)
尖った目元をさらに研ぎ澄ませた。
マゼンタは気を取り直すと、
「セキエを知っているのですか?」
ちゃんと言えた。これが敬語というものだな。
一人満足する。
桃色は笑いを堪えるように、
「いいえ、残念ながら名前だけ伺っておりました。実物を見たのは今日が初めてです」
パステルはセキエを蔑んで、
「私たちが知らぬということは、よほど田舎で使用されている楽器でしょう」
田舎……
アガットがどこの出身かは聞いていないが、セキエを独学で学んだと言っていた。
それは周りに教えてくれる人が、つまり弾いている人がいなかったからだろう。
楽坊の主はセキエを観察しながら、
「形状はツキソメに似ていますね。胴の部分は違うようですが」
「ああ」
少女が何の気なしに打った相槌に勿論灰色の彼女が反応した。
「〝はい〟」
身を乗り出したパステルが口をはっきりと開けて少女に言う。
「はい」
マゼンタは繰り返す。
(ったくもう……!)
パステルの額の筋が嫌でも浮かび上がった。
「音階もツキソメと同じだ……です」
危ない、いつもの言葉遣いになってしまう所だった。
桃色が口元を手で押さえる。「そうらしいですね」
ちょっとでも気を抜いたら少女とパステルのやり取りで吹き出してしまいそうだ。
しかし彼女の目尻はこの部屋へ着いた時より下がっていく。
「音は……」
説明を続けようとした少女は一瞬躊躇した。
敬語でどのように言ったらいいのか、ではない。
ツキソメより伸びと深みがあると言って、いいのだろうか。その点に悩んだのだ。
「なんですか?」
楽坊の主が尋ねる。
「あ、いや……」
するとパステルが、
「もうその楽器の話はこれくらいで」
セキエには興味がないかの如く視線をそらした。
桃色も本来の目的を思い出し、
「そうですね。まずはツキソメに触って頂きましょうか」
少女の隣で出番を待っていた楽器は力を発揮することなく、次の奏者にステージを譲ることになってしまった。
マゼンタの前にツキソメが一棹置かれている。
セキエにとてもよく似た楽器、ただし胴はセキエの三角形とは違って三日月型だ。
このツキソメは少女を楽坊に案内してくれた女官がついさっき持ってきたものだ。その女官はとうに退出しているが、マゼンタは目の前に置かれた楽器が室内に運び込まれた瞬間から、これでもかと言わんばかりに凝視していた。
本当によく似ている。でもセキエではない。
これを私が、一度も弾いたことのない私が、弾く……
少女の咽に粒がぽつりと滑り落ちた。
「さあ、どうぞ」
楽坊の主桃色が涼やかな声で促す。
マゼンタは恐る恐るツキソメに手を伸ばした。
一度も弾いたことがないのに、ぶっつけ本番で、弾く……
ところがその棹に指先が触れた瞬間、何かが彼女の中で弾けた。
赤紫色の少女は慣れた様子で細長い棹を掴むと楽器を持ち上げ、
(なんだか、セキエと同じ感触)
そうしてあっさりツキソメを構える。構えた感覚もたいして違和はない。いつも弾いてきた馴染みの楽器とほぼ同じだ。
パステルは少女を眺めながら、構え方だけは一応様になっている、と見た目を評価した。
マゼンタは左手に収まった棹から腰に触れる胴部分にまで視線を落とす。
これがツキソメ、か。
触れる前の不安や恐れはどこへやら、手中の楽器はすんなりと彼女の中に鎮座している。
さて、次の問題。これで一曲弾くといっても、いったい何を弾けばいいのか……
少女の右手に持った弓の先がぷらぷらと揺れた。
楽坊の主たちに聞かせる曲、といっても弾ける曲には限りがある。
マゼンタはまたもや頭を悩ませた。
すると桃色が見透かしたように、
「どんな曲でも構いませんよ。あなたが弾きたいと思う曲を奏でてくださいね」
少女はほんの僅かに悩み続ける。しかし答えはすぐさま導かれた。
彼女は弓を弦に当てると勢いよく演奏を開始した。
途端に桃色とパステル両名が息を呑む。
楽坊の主は勿論、ハクアを専門にするパステルでさえその曲を充分に知っていた。
王宮楽坊では普段こんな派手で忙しない曲を弾くことは滅多にない。
それでもこの曲がツキソメの名曲で超難曲であることは当然理解している。
〝ルアルカイキ――!〟
桃色もパステルも目を見開いたまま言葉を失った。
少女がこの曲を選んだことにも驚きを隠せなかったが、彼女の指さばき、表現力にも脱帽だったのだ。
マゼンタは弦の上の指を滑らせながら、
(軽い、そして弾きやすい……!本当、アガットが言っていた通りだ……!)
ツキソメはセキエに比べて余程弾きやすかった。とんでもなく汚い音が出ることもなく、いたって滑らかで重厚感というより高く朗らかな弾き心地だった。何より奏者が奏でたいという思いを素直に汲んでくれる。それは本当にありがたい。
演奏はどんどん先へと進んでいく。
その様子を眺めつつパステルは喉の奥を震わせた。
反対に楽坊の主は微笑みを浮かべると、確かに紅樺様と密偵の見立ては正しかったのだと大いに納得したのだ。
王宮楽坊には楽師たち全員が揃って学ぶ教室がある。
白い障子戸に囲まれたその部屋には木製の机と椅子が五十程揃えられ、皆前方に位置する教壇の方向を向き、まるで小学校や中学校の学び舎そのものの様子を呈していた。
時刻は夕方、授業はとっくに終了し、練習を終えた楽師たちはいつもならばさっさと教室を後にするのだが今日だけは違っていた。
ほぼ全員と言っていい。王宮楽坊の楽師たちが所々に集まり何やら噂話に花を咲かせているのだ。
「例の子、楽坊に来たらしいですわよ」
「何やらツキソメによく似た楽器を持っていたとか」
「話によると試験さえ受けていないんですって」
「それってスカウトってことですの?桃色様とパステル様が?」
どこから話が漏れたのかはわからない。
しかしながら彼女たちは異例の新人についてなぜかよく知っていた。それを驚きながらある者は面白可笑しくネタにして、ある者は顔をしかめて非難した。
その中でも黄みの明るい赤色をした若い楽師は拳を震わせていた。
彼女は名をポピーと言った。
年は十八、細くすらりとした体型に前頭部だけを結び、あとは後ろに垂らした長い髪、いわゆる美人と言われる部類の造形をしてはいたが、表情だけは常日頃から厳しかった。
彼女は座っていた自分の席から勢いよく立ち上がると、
「スカウトだなんてありえませんわ!王宮楽坊は何年かに一度欠員が出た際のみ試験を行って、それでも受かる者がいるかどうか!しかも合格者は全員音楽専門学校を首席で卒業した人間だけ!そんな前例もないスカウトで楽坊に入るだなんて論外ですわよ!」
一思いにまくしたてる。
唾まではさすがに飛ばさなかったが、鼻息の粗さはしっかり視覚化出来そうだった。
「そうですわよね」
「ありえませんわね」
側にいた彼女の取り巻きが当然の如くポピーに同意する。
あなたがおっしゃるなら全くその通りで御座います、と。
室内の楽師たちが彼女の意見に賛成する雰囲気を放ち始めた。
異例の新人が入るという驚きはあっという間に非難の渦へ引きずり込まれそうな勢いになる。けれども、
「そう?」
明るく軽やかな声が突き抜けた。
「なっ!」このあたくしに盾突く気⁈
ポピーが声の主に視線を向ける。相手は自分より斜め前方の席に横向きに掛けていた。
名はシェル。細く小柄で、桃色を意識しているのか後ろ髪の上半分だけを一つに結んだ楽坊の主と同じ髪型にしてはいるものの、眉上で切り揃えられた前髪がどうしても幼く見える。けれども本人は全く気にしておらずむしろ気づいてもおらず、つまりは気に入っている形相だ。色は白にほんの少し黄赤を足したような色で、年はポピーより一つ上。
去年、そして今年、楽坊では珍しく欠員が続いて二人の人間が楽坊入りしていた。それがシェルとポピーなのだが、ポピーにとってシェルは一応先輩には当たるもののそんなことは粗末な事柄でしかなく、一番大事なのは自分に賛同するか否かでしかなかった。
「桃色様とパステル様が認められたってことは、その子すっごい上手ってことじゃない?」
シェルが淡い目を輝かせて言う。
「そんなの、何かの間違いに決まっておりますわ!」
「桃色様たちに限って間違いなんてことはないと思うけど」
「それは……!」
ポピーが口元を歪めつつ、
「と、とにかく、あたくしはそんな子を絶対認めはいたしませんわよ!皆さんもそうでしょう⁈」
取り巻きたちを従えるように見下ろす。
「ええ……!」
「もちろんですわ」
年上だろうとベテランだろうと関係ない。教室の大半はポピーに同意した。彼女の家の権力に盾突きたくない残りの楽師たちも慌てて顎を引く。
「ですわよね!」ほら見たことかと彼女は室内唯一の反逆者に顔を向けた。
ところが当の相手は無邪気に微笑むと、
「でもわたしは楽しみだけどなぁ」
何にも縛られないように瞬きを重ねるのであった。
庭の姿形が建物の灯りでぼんやりと照らされる頃、セキエを背負ったマゼンタはパステルの後に続いて庭に面した廊下をひたひたと歩いていた。ここは王宮楽坊。王宮に仕える楽師たちが集う場所。のはずだが、先程からすれ違うのはどうやら楽師ではなく、女官らしき人間が時たま頭を下げるばかり。王宮の楽師とやらは本当にこの建物内にいるのだろうか。
少女がそんなことを考えている間も、先導する灰色のパステルは大まかな説明を続けていた。
「楽師の人数は四十八名、いや、そなたが入ったから四十九名になったな。基本週六日は朝から夕方まで全体練習がある。早朝や夜、休日は基本的には自主練をするなり音楽を学ぶなり自由だ。各自個室が与えられているから寝起きはそこでするように。食事は女官が運んでくる。浴室や手洗いは専用の場所があるから後で確認するといい」
唐突に彼女が立ち止まり、マゼンタもそれに倣う。
パステルはすぐ側の障子戸に手を掛けると、
「ここがそなたの部屋だ」
一思いに横に引いた。
少女が彼女の隣から室内を覗くと、床に黄みの畳が敷かれ周囲を障子と襖に囲まれた部屋が新しい楽師を待ち望んでいた。室内は狭くもなく広くもなく、まるでクリムスン家の屋敷であてがわれた自室と同じくらいの大きさだろうか。家具は畳の上に低い長方形の机が一つのみ。近くにはマゼンタが家から持ってきた荷物の箱が置かれている。その隣には新品同様のツキソメ一艇と、大量の本が積み重ねられていた。
パステルは部屋の中の楽器に視線をやると、
「そなた専用のツキソメを用意したから充分使い込むように」
私専用……
マゼンタは彼女同様楽器を眺める。誰もまだ触れていないのか相当弦が硬そうだ。
少女はツキソメの隣に積まれた山に目を移し、
「あの本は?」
「教本だ。それから楽器の歴史と構造について書かれたものなどだな」
「なるほど」
赤紫色の少女の返答にパステルの眉間がプチリと切れた。
「マゼンタ」
「ん?」
答えてすぐ少女はあることに気づいて言い直す。
「はい」
楽坊の参謀が振り向くと、
「言葉に気をつけよ」
口角は上がっているが目元は笑っていない。
「わかっ……わかりました」
寸での所で何とか敬語が間に合った。ふう、危ない。
パステルは呆れたように溜息をつく。
「とにかく、励むように。言葉遣いはともかく、そなたには期待しているからな」
「はい」
灰色の楽師は少女の横を通り抜けその場を後にした。
(あんな演奏を聞かなければとっとと追い出してるところだわ)
そう愚痴りながら。
マゼンタはというと早速室内に足を踏み入れ、新たな相棒と大量の本を見下ろしていた。これらをどう料理しようか……彼女の脳内は敬語云々はとりあえず横に置いておいて、ツキソメに慣れることが第一目標だと叩き出す。
「やるか」
少女は自分でも無意識に腕捲りをし始めた。




