第26話 蛍火の宴
車の後部座席は進行方向に対し人が向かい合って座れる配置となっていた。まずクリムスン家頭首とその長男が運転席に向かうように着席し、二人と対面するように次男と長女が腰掛けた。頭首の右腕は助手席に、運転席は自動運転なので空席だ。全員一応正装はしている。けれども赤紫色の少女にはいつもと変わりないように見えた。そこまで目が行かなかったというのも正直あるが、彼女の頭にはそんなことよりこれから起こる出来事のほうが一大事だったのである。
昨日緋色に言われたこと……
「当日は互いに知らないフリでいこう!」
何かと面倒になるからか。
その点は少女も大いに賛成した。公の場で彼と普段通りに喋ったらどうなるかは目に見えている。
だから彼とは他人のふりをする。見て見ぬふりをする。私と彼とはただの塾が一緒の間柄でそれ以上では絶対にない。これは暗黙の掟だ。
マゼンタは車窓に顔を向けた。
いつの間にか車は林道を抜け、ゴツゴツとした岩壁がそびえ立つ景色の中を走行していた。
日がだいぶ傾いた時間帯、横にこれでもかと長い真っ赤な建物は茶色い木々に赤い葉をつけた広大な森と、さらにそれらを取り囲む白い岩壁の中にどっしりと鎮座していた。正面の岩壁には巨大な門が設置されているようで、いくつもの黒い車が順序良く吸い込まれていく。車は森の中央近くまで進み一旦立ち止まると、また元来た道を戻って独りでに出ていった。
その一連の流れ作業の中にクリムスン家一同の顔触れもあった。
彼らが乗車した車が音もなく停止すると、待ち構えていた白装束の男たちが全ての扉を全開にし、頭首たちはそれぞれの扉から否応なしに降ろされた。
が、その場所は周囲に白い垂れ幕が張り巡らされ、拝むことが出来るのは夕闇迫る空と建物の奥へ続く木造階段の一部だけだったのである。
それでも兄コチニールは目をキラキラと輝かせた。
「わあっ……!」
僕たち今、王宮の中にいるんだね……!
思わず声が漏れそうになる。
周りはほとんど隠されて何も見えないに等しい。でも感極まるには充分だ。
彼の様子に葡萄が大きく咳払いをした。
コチニールははっと我に返り身を正す。
いかんいかん、僕は守人、クリムスン家一族なんだから……!
弟カーマインは兄の姿に呆れ、妹マゼンタはというとひたすら周囲を見回していた。
なぜこんなに布が張り巡らされているのか?何か見られたらまずいものでも?
それとも近衛隊の不祥事に関係があるのか?
少女は様々な疑問と説を頭に浮かばせた。
しかしそれも頭首の一声で立ち消えとなる。
「さあ、行こうか」
クリムスンの声に何らかの決意が含まれていた。
白装束の男に案内されて木造階段を上るとひたすら長い渡り廊下が続く。ただ庭園側はやはり白い垂れ幕で覆われ、室内側も障子戸が全て閉じられ部屋の中に何があるのか全くわからない。他に招待された者たちもいるはずだが誰一人として顔を合わせることもなく、時々使いの者が往来する程度だった。
一同はクリムスン、コチニール、カーマイン、マゼンタ、葡萄の順に廊下を歩いた。
庭には何があるのか、部屋の中はどうなっているのか見当もつかないが、これが王宮の一部なのだと少女は理解しながら歩を進めた。
すると突然趣が変わった。
白い幕がぷつりと途切れたかと思うと、地面に小石が敷かれる開けた場所に出たのである。
そこは半屋外庭園のような場所で、手前には背もたれのついた椅子がずらり並べられ、奥には歴史的かつ芸術的に配された植物たちが出迎え、左右には身分のある者たちが座るであろう何段か高い席が設けられていた。
手前の椅子は招待された人間たちが座る箇所かのか、もう既に何人かの人々が席に着いたり周囲を歩いて回ったり談笑したりしている。
マゼンタは全体を見渡しながら、
「ここが会場?」
「みたいだね」
コチニールが目を輝かせて答えた。
蛍火の宴がこの場所で開かれるんだ……!
今までは特別興味がある行事ではなかったが、こうして王宮に招待され生で見ることが出来るという経験はそうそうない。
兄コチニールは全身で喜びを嚙みしめた。
そこへ、廊下の向こう側から明らかにどこかで目にした面々がやって来たのだ。
彼らは皆黄みの赤色をし、白装束の男に案内されながらゆっくりと歩いてくる。
クリムスン家一同に緊張が走った。
まず頭首クリムスンが相手方の先頭を歩く男をじっと見つめた。
相手も彼に気づいて立ち止まると、後ろに続いていた者たちもそれに倣う。
クリムスン家と茜色家が対峙した。
クリムスンと茜色はもはや睨み合い、葡萄は茜色たちを冷静に観察、茜色の背後に付いている猩々緋は鼻息を荒くし、コチニールはそれまでの興奮がどこかへ消え去ったように唾を飲み込み、カーマインは父の真似、緋色は横を向いて知らんぷりをし敵方の少女となるだけ目を合わせないようにしているつもりらしい。
いつもは隣で喋りまくる少年の様子にマゼンタは緊張を感じながらもどこか呆れてしまった。
「さあさ、どうぞこちらへ」
白装束の男たちが両家に声を掛け、一旦皆の緊張の糸は解かれる。
しかし……
クリムスン家一行と茜色家一行が通された席は通路を挟んでほぼ隣同士だった。
席に着いた葡萄が横をチラ見しながら、
(まさか彼らのこんな近くに通されるとは。まあ守人同士ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが……でも何もこんな近くにしなくても……!)
と、大いに嘆いた。
クリムスンと茜色は互いに視線を避けながらも相当相手を気にしている。
奴はどう出るのか、何か言葉を発するのか、何か行動を起こすのか、相手の心を必死に読んでいるようだ。
ところが子供たちはというと、コチニールの中にはこれから始まる宴への期待がまた蘇り、カーマインはもう飽きたようにあくびを連発し、緋色は周囲の人々への興味できょろきょろと落ち着きがなく、家同士の争い等どこ吹く風だった。
その間にも招待された客が続々と席を埋めていき、日もほぼ落ちかけていた。
会場の右側に伸びた数段高い座席に灰桜という男が座っている。年齢は五十四、布を重ね合わせた服装も頭頂部でお団子にした髪も一切乱れがなく、背は高めで割とがっしりした体格をしていた。色は淡い灰色にほんのり赤色が混じっている彼の瞳は、客席の中のクリムスンと茜色をしっかり捉えていた。
「来たか」
彼は満足そうに呟く。
するとクリムスンと同じ並びに座る一人の少女が彼のほうへ顔を向けた。
と、思ったが、彼女の視線が辿り着いたのは灰桜と同じ並びの中に座る別の男だった。
その男も灰桜と同じような格好や髪形をしていたが、年齢はだいぶ若く何より顔つきが全く異なっている。
彼は赤紫色の少女を目に留めると、彼女に向かってにっこり微笑みかけた。
(ん?)
マゼンタの脳内に疑問符が浮かんだ。
なぜあいつは笑っているのか?どこかで会ったことが?
少女は記憶を掘り起こす。
けれども王宮で出会うような人間の知り合いなどいるはずがない。
何かの勘違いか?
彼女がそう思った時だった。
ひらひらと裾をたなびかせ優雅な雰囲気を纏った数人の女たちが左側に伸びる席へ静々とやって来たのは。
客席に座った人間たちが口を閉じ彼女たちに目を向ける。
女たちは皆上品な着物に豪華な髪飾りを付け闇夜でも映える化粧を施していた。
マゼンタもその外見に目が行った一人だったが、少女が気になったのは女たちが手にしている物体のほうだった。
(楽器?)
そう。女たちはそれぞれ違った形状の楽器のようなものを持っていたのである。
棹が長く弦が張られたもの、胴が大きく丸い弦楽器や、長方形の弦楽器、横笛など、直接見たことはないが以前調べた情報に記載されている楽器に似ていた。
女たちは等間隔に設置された椅子に腰掛け、楽器を抱えるように構える。
と、どこからともなく太鼓の音が響いた。
それに合わせるように会場の全員が立ち上がる。
少女は一瞬遅れたが条件反射で自分も立ち上がった。
全員が、隣にいるコチニールもカーマインも葡萄もクリムスンも奥の茜色たちも、皆が立ち上がって後ろを向いている。
(なんだ?)
彼女は何が何だかわからぬまま自分もとりあえず後ろを向いた。
全員の視線の先には自分たちが歩いてきた渡り廊下がある。その廊下の向こう、来た時にはぴしゃりと閉じていた障子戸が現在は全て開け放たれ、室内の様子が丸見えになっていた。室内は畳部屋のようだがさらに一段高く畳が重ねられ、背後の床の間には艶やかな花々が花器に生けてある。照明は仄暗く蝋燭が所々灯されているようだ。
そこへ廊下を恐ろしくゆっくり歩む一行がやって来た。
先頭は五十代位のぼってりとした体格の男、次に三十代位の平均的な体格の女、その次が十代前半の少女、最後にまだ五歳位の幼女が信じられない程のそのそと歩いている。
ただ彼らの歩みは亀の如く遅かったが、皆とても重そうな着物を何重にも着込み色も刺繡も作りもとにかく派手だった。
歩くのが遅いのはきっと着ているものが重いせいに違いない。
マゼンタはそう解釈しながらも呟く。
「あれは……」
「あの先頭にいらっしゃるのが僕たちの王、紅色様だよ」
兄コチニールが小声で紹介してくれた。
「紅色」
背は低く頭頂部でお団子にし、照明が暗めでよくは確認出来ないが非常に鮮やかな紫みの赤色をしている。
「で、次にいらっしゃるのが王妃の紅梅様」
白がだいぶ混じった黄みの赤色をした紅梅は、髪の先端が床を引きずるほど長くて真っ直ぐだ。
「その次が王女の薄紅様」
くすんでぼんやりとした赤色の薄紅も平均的な体型で、真っ直ぐな長い髪に分厚い前髪をしている。
「最後が韓紅花様だよ」
明るい黄みの赤色。肩下までの髪と短く切り揃えられた前髪は一応梳かしてあるのだろうが、所々寝癖がついたままだ。
「へえ」
コチニールが一人一人紹介しマゼンタが一応把握した頃、紅色王たちがやっと一段高い畳の席へと座った。
それを客たちが確認すると皆ほっとしたように自分の席へ腰を下ろす。
(紅国の王は四人家族か)
マゼンタもそんなことを思いながら自席へ座った。
辺りはすっかり闇に包まれ会場の所々には篝火が焚かれている。
しかしながら目の前に広がる庭園には篝火とは別の仄かな光が舞い始めていた。
「あ、蛍だ」
コチニールが光に向けて指を差し、招待された客たちも微かにざわめく。
マゼンタは赤色をほんのり薄めたような光を眺めた。
「きれいだね」
兄が感動したように言う。
「あ、ああ」
あの虫を眺めて楽しむのがこの宴なんだな。私にはいまいち良さが理解できないが。
妹は正直な感想を心の中で述べた。
その時、左方向から多種多様な音が何の前触れもなく流れてきて、マゼンタははっとする。
楽器を持った女たちが一斉に演奏を開始していた。
その音はマゼンタが普段弾いているものよりかなりゆったりとし、一音一音がとにかく長くて途切れない。
赤紫色の少女は彼女たちをじっくりと観察した。
演奏の軸を担っているのは中央に座る二人の女。
一人は丸い胴から棹が伸び四本の弦を弾いて音を出している。そしてもう一人は、もう一人は……
マゼンタの目がもう一人の楽器に釘付けになった。
胴の形は三日月型だが、そこから伸びる棹も弦も弓も全てがあれによく似ている。
(もしかして、ツキソメ、か?)
彼女が弾いている楽器はほとんどがセキエと大変よく似ていた。音色さえも同じようだった。
マゼンタはツキソメを奏でる奏者を見つめる。
彼女は微笑みながら静かに演奏を続けていた。
弓が弦に触れる、その動きが物凄く長い。だからこんなにもゆったりとしているのか。
(にしても、上手い……!アガットも相当な腕前だけど、あの人たちもすごく……!)
少女が聞いたことのある演奏といえば自分以外にはアガットたちしかいなかった。
師匠たちの演奏が全て、それがお手本であり目標だった。
だが彼らと同じくらい長けた存在を目にしたことは、驚愕以外の何者でもなかったのである。
赤紫色の少女が宴の演奏に呆然としている間、裏では事が着々と進んでいた。
白装束の一人がクリムスンに、もう一人は茜色に近づき、何やら秘かに告げたのだ。
クリムスンと茜色は同時に席から立ち上がると、互いを牽制しつつ通路を後方へ進んだ。
いよいよですね……!
葡萄が頭首の行き先を振り返っていた。
室内はこじんまりとしている。脇や背後の襖はしっかり閉じられ、中庭は戸が開かれているが、景色は一本の低木のみでその針のような葉もかなり閑散としていた。照明も蝋燭が部屋の左右に一本ずつ灯されているだけで本当に薄暗い。
この畳が敷かれた空間には滅多にない顔触れが並んでいた。無論、クリムスン家頭首と茜色家頭首の二人である。
彼らは胡坐をかいて一応並んではいたが、今すぐ隣の奴から離れたいと互いに感じていた。
でもそれが憚られたのは、目の前の一段高い畳の上にとある男が胡坐をかき、自分たちと向かい合っていたせいだった。
「近頃、青の色光がこの星に度々現れていると報告を受けている。今までは滅多に姿を現すことはなかったが」
灰桜が一切表情を崩すことなく述べた。
「はい。しかし彼らはこの星へ辿り着くのが精一杯。力尽きてすぐに撤退します」
クリムスンが事実を淡々と告げる。
「それでもこの赤星に危機が迫っていることに変わりはありません。我々はこの紅国を、赤星を護る為ならどんなことでも致す所存です」
茜色の台詞にクリムスンは彼を横目で睨んだ。
「うむ、その為の赤の色光だからな」
執政灰桜が守人たちをあからさまに見下ろす。
この国の、この私の手となり足となりその身を捧げよ、と。
「ご命令頂ければいつでもどこでも馳せ参じますので、何なりとお申し付け下さい」
茜色は頭を下げた。
クリムスンは隣の彼を蔑んだまま胃液を何とか飲み込む。
「それでだ」
灰桜がもったいつけたように続ける。
「色光になれるおまえたちだからこそ今回の件が持ち上がった」
二人の守人は咄嗟に身を正す。
「近衛隊の失態は今に始まったことではないが、近頃は酷く目についてな。まあ、君臨する者がああだから友を呼んだのだろうが」
クリムスンと茜色が執政官の言葉に一瞬反応した。
「とにかく、クリムスン家、茜色家、どちらかの家に王宮警護を任せる可能性があるというだけでまだ正式な決定ではない。が、充分心しておくように」
「御意」
守人頭首たちは最後だけ呼吸をしっかりと揃えた。
丁度その頃、宴の会場では音を奏でていた楽師たちが演奏を終えたところだった。
招待された客や執政官たちが皆拍手を送り、王族の面々も満足そうに微笑んでいる。
「すごかったね……!」
コチニールが興奮したように妹に言い、彼女も深く同意した。
自分の演奏とは全く異なる種類だが、それでも感動は呼び起こされたのである。
楽器を持った女たちが静々と退場し、招待客はその後姿に拍手を送り続けた。
マゼンタは彼女たちを見送りながら、
「あの人たちはいったい……」
「ああ、王宮楽坊の方々だよ」
「楽坊?」
兄コチニールから新たな単語を聞いたその時、頭首クリムスンが葡萄の側へと戻ってきた。
「いかがでしたか……!」
眼鏡の彼はそわそわしつつ尋ねる。
「帰ってから話す」
クリムスンは背後を振り返った。
茜色と猩々緋が自分たちを見据えていた。
退場した王宮楽坊の楽師たちはやがて散り散りになり、最終的に二人の人間が残された。
二人は今回の宴で中心を担った女性たちだったが、共に楽器を抱えながら夜の回廊を曲目と同じ速さで並び歩いた。
宴での演奏が無事終わってほっとしている。
だがツキソメを演奏していた彼女は心湧き立っていた。
「パステル、例のあの子を確認出来ましたか?」彼女の声が弾む。
「そりゃあもう。なんせとんでもない色ですから、闇夜でも目立ちます。蛍がすっかり霞んでおりました」
「ふふふ。あの方がおっしゃっていた通りですね」
「まったく、あのお人のおかげで専門の者にまで調べさせる羽目になるとは」
「事前情報は大切ですよ。なにせ前代未聞のことですから」
「それは確かにそうなのですが」
「でも今日お姿を見ることが出来てよかった。あの子が、そうですか」
ツキソメ奏者が立ち止まって夜空を見上げる。
その瞳には未来の展望がしかと刻み込まれていた。
「それで、蛍火の宴はいかがでしたか?」
アガットが教え子たちに尋ねる。
塾の授業前、今日もマゼンタがセキエを習いにやって来て、学校終わりの緋色もふらりと教員室を訪れ、臙脂も迎えの席に座っている。
赤紫色の少女は演奏の手を止めると、
「きっと聞いたら驚く。楽坊とかいう人々が蛍に合わせて楽器を演奏したんだ」
彼女は無表情ながらも一生懸命感動を伝えたつもりだった。
蛍火の宴とはただ蛍を眺めるだけの宴会行事ではなかったのだと。
ところが三人の男たちは同時にこう思った。
(驚かないよ……)
少女の感動に半ば呆れながら。
「いやそういうもんだって」と、緋色。
「えっ?」
「蛍の光を目で楽しみ、楽坊の演奏を耳で楽しむのが蛍火の宴です」
臙脂も言う。
「小っちゃい頃からテレビでよくニュースになってんの何回も見てるもん」
少年が後頭部に両手を回した。
このまま放っておいたら鼻までほじりそうな勢いだ。
「まああなたは初めて宴のことを知って参加したわけですから驚かれても無理はありませんが」
師匠が一応宥める。
(先に言ってほしかった)
マゼンタには何の前情報もなかったのだ。けど、
「とにかく、あの人たちの演奏はすごかった、皆上手かった……!」
「それはそうでしょうね」
プロですから。
アガットが苦笑いを浮かべる。
「あと、ツキソメという楽器はセキエに似ていた」
「でしょう?もうそっくりだったはずですよ、音も形も」
アガットの言葉に臙脂が溜息をつく。
「そっくりではない。胴の部分が違ったし音もセキエのほうが伸びるというか深いというか……」
赤紫色の少女は蛍火の宴でセキエの音とツキソメの音の違いをしっかり吟味していた。
師匠は焦りつつ、
「大体の話です」
「まあ演奏は上手かったんだろうけどオレは途中から超眠かった」
緋色が正直に述べた。
「それは蛍がメインで演奏はあくまで背景ですからね」
「てゆーかさ、マゼンタたちの演奏のほうが全然いいよ、リズム感あるし、眠気もふっとぶ」
言いながら少年はあくびをする。
「それは光栄です」と、顔を引きつらせたアガット。
あくびしながら褒められてるがな……
臙脂は先程から呆れっぱなしだ。
が、ここで突然緋色が何かに気づく。
「そういえばオレ、マゼンタに全然手合わせしてもらってないじゃん!」
「え?」
少女が最近の出来事を思い出す。
言われてみれば確かに。というか緋色がその件に関して何も提示しなくなったのでは?
すると師匠が珍しく声を荒げた。
「セキエを習っているのに手合わせ⁈怪我でもしたらどうするんですか⁈」
「ああ、そうか」
「ああそうかって、あなたもセキエ奏者としての自覚が足りませんよっ」
「わ、悪い」
アガットがいつになく怒っている。
そんなに私の手を心配しているのだろうか。
緋色少年は唇を尖らせ、
「えーっ、でも息抜きだって必要だよ。オレに稽古つけてくれるヤツはよくそう言ってる」
「じゃあその方々に手合わせしてもらったらいいんじゃないですか?」
「そりゃそうなんだけど、やっぱマゼンタに負けっぱなしっていうのは悔しいっていうかぁ」
「だめです、奏者にとって手は命……とはいうものの、私に止める権利はありませんけどね」
緋色とアガットの二人が同時にマゼンタを見上げた。
どうする、どうするんですか赤紫色の少女よ。
マゼンタは目元を左右に振りながら、
「あー、じゃあ、今は、やめとく」
彼女の答えに師は拳をきゅっと握った。勿論勝ち誇ったように。
反対に少年はというと、
「えーっ!マジかよっ!」
と、両腕をジタバタさせる。
迎えの席に掛けた臙脂だけは彼女たちのやり取りを眺めながら心底呆れ果てていた。
事は突如として起きた。
昼下がりのクリムスン家の屋敷で眼鏡を掛けた頭首の右腕が廊下を駆けていた。
もっと運動が得意で走るのが早ければこんなに慌てることもなかったろうに、けど今はそれどころじゃない。
彼はとにかく急ぎ頭首に伝えることがあったのだ。
何とか廊下の角を曲がり彼の書斎を覗き込む。
伝言を伝える相手はいつものように机の椅子にどっしりと掛け、何か書き物をしていた。
「クリムスン!」
頭首が手を止めて顔を上げる。
「どうした?」
彼は不思議そうに葡萄を見つめる。
ほとんど冷静さを保つおまえが何をそんなに慌てているのか、と。
しかしこの後彼の口から出た言葉に、頭首でさえも目を見開くこととなった。
「王宮楽坊からマゼンタをスカウトする話が来ました!」




