第24話 試すということ
彼の音は思いっ切り外れていた。
どこをどう押さえてどう弓を引いたらそうなるのか、理解出来ない。
まるで私が最初にセキエを奏でていた頃のような音?そう、これは初心者の音か。
マゼンタは臙脂の演奏をそのように解釈した。
明らかに間違った低い音程、ギギギと耳がこそげ落ちそうな音色は食べた物が今にも外へ吐き出されてしまいそうだ。
しかし当の本人は何食わぬ顔でショウエを弾き続けている。
客たちがざわつき、店主タンジャリンはお盆を持ったままさっきまでとは違う意味で固まってしまった。
「なんだこの演奏は!」
「ヘタクソっ!」
「もっとマジメにやんなさいよっ!」
客の野次が飛ぶ。
それでも彼の演奏は変わらない。
窓の外からステージを眺めていた緋色でさえも、
「臙脂先生の演奏、初めて聞いたけど……超ヘタっ!」
素直に呆れていた。
ステージ上では耳障りな音がそれまでの優雅な音色を潰しまくっている。
ルビーと珊瑚は初めはぎょっとしたものの今はもう諦めたかのように演奏し、アガットについては顔を引きつらせたまま何とか口角を持ち上げていた。
ただマゼンタだけが、演奏しながらも臙脂を凝視し続けた。
赤紫色の少女は脳内で思考を巡らせる。
もしかして臙脂は、ものすごく下手だから、そのことを自分でもよく理解しているから、今まで私たちの前で演奏することがなかったのだろうか。
彼の言葉が蘇る。
「セキエは弾けませんが、それに似たような楽器は……弾けます」
マゼンタは乱雑な彼の弓の動きに視線を落とす。
本当はもっと上手くなれる。だって私がそうなれたのだから。
彼女は自分の弓と彼の弓の動きを見比べた。
いずれにしても、今この私たちの演奏をどうにかしなくては……
マゼンタはルアルカイキを奏で続けながらも脳内を回転させた。
そんな少女に臙脂がちらり目をやる。
言葉を発さずに演奏を続ける二人の間に挟まれたアガットはふうと溜息をついた。
客たちが罵声を上げている。
窓の外の緋色も、
「あーあ、どうすんだこれ」
仕方なしに一応ステージを見守っている。
が、臙脂の演奏は相変わらずだ。
しかも本人が客から何を浴びせられようと動じていないのだから困ったものだ。
と、マゼンタがふと何かを思いつく。
(そうか。だったら……)
赤紫色の少女は左手の弦を押さえる指をあらぬ方向へ動かした。
途端にアガットと臙脂がはっとする。
ルビーも驚いて、
(臙脂と同じ音を弾いてる⁈)
珊瑚は、
(音が変わったー)と、目をパチクリさせた。
臙脂は酷い演奏を続けながらマゼンタを睨む。
私の音を封じるつもりか……!
彼はそう思った。セキエの大音量でショウエの音を抑えるつもりなのだと。
けれどもアガットの考えは違った。
(そうじゃなくて、君を支えるつもりなんだよ)
アガットは臙脂からマゼンタに視線を移す。
マゼンタは何とかしようとぎこちなく指を動かしていた。
初めて聞いて弾くショウエのパート。ほぼほぼ予想に近い箇所もある。当然ですね、楽譜を見ていない、弾いたこともないのですから。完璧ではない、なのにそれをやってのけようと必死になるだなんて、最高じゃないですか。ならば私は……
アガットも弦に触れる左手をさらに動かし始めた。
師匠の音が一層激しくなり、マゼンタは隣の彼に顔を向ける。
(やってくれると思った)と、マゼンタ。
(それさえ見越していましたか……!)と、アガットは目尻を下げる。
ルビーが口をぽかりと開けて、
(今度はアガットが自分とこの子のパートを両方弾いてる⁈)
(さすがー)珊瑚は心の中で拍手を送った。
(でもこれはもうルアルカイキではないわ……!)と、ルビー。
厚化粧の彼女の思考を感じ取ったアガットは、
(いいんですよ。この演奏が成り立つのであればね)と、この状況さえ面白がるような表情になった。
臙脂はというと変わらず酷い演奏を続けながらも、赤紫色の少女をなぜかじっと見つめていた。
ホールの客たちは驚いた。
確かに食事が不味くなる低音が続いてはいるものの、そこに一つの光が差し込んだような高い音が上手い具合に重なっている。それは決して心地良いとは言えなかったが、なかなか興味を引かれる合奏にはなり得ていたのだ。
「なんかよくわかんねーけど」
「いい感じ……?」
客の罵声は鳴りを潜め、彼らは困惑しながらもステージを眺めた。
その中に一人、他の者よりはきちんと布を着込み、帯をしっかりと締め、髪は後頭部でお団子にして、当然後れ毛など一切なく、身長も少しばかり高いがいたって平均的な体格の男がテーブルの席に座っていた。年は二十代後半、ほんのり優し気な赤茶色の彼の瞳は、ステージに釘付けとなって全く身動きが取れなくなってしまった。
店の窓から店内を覗き込んでいた緋色は、
「いつもとだいぶ違うけどな」
ケラケラと笑ったが、彼の背後には音に魅かれた大勢の人が群がりを成している。
そのくらいセキエの音もショウエの音も歩道に漏れ出ていた。
そんな群がりに向かってコチニールと葡萄の二人が足早にやって来たのである。
「ここですね」
「すごい人がいっぱい!」
コチニールは目を丸くした。
店の入口はおろか窓という窓全てに人々が集まっている。
入口付近では店の店主だろうか、かなり肉付きの良い男が勝手に入ろうとしている者たちを必死に押さえ込んでいた。
「ここはレストランですから!立ち見は遠慮してくださいよ!ねっ⁈」
彼が叫ぶ。それでも人々の興味は尽きないらしく、立派な彼の腹はグイグイと押され続けている。
コチニールと葡萄は人だかりと店主の隙間をさらりとすり抜け、店内へと潜り込んだ。
外にまで漏れ出ていた楽器の音がさらに大きくなる。
「あ、マゼンタ!」
先にホールへと乗り込んだコチニールが真っ先に妹に気づいた。
「これは、なんという……!」
葡萄は眼鏡の蔓を上げ下げして息を吞む。
ステージでは赤紫色の少女たちが演奏をしていた。
それは恐らく素晴らしい演奏なのだろう。音楽に関しての詳しい知識は持ち合わせていないが、そのくらいは葡萄にもわかった。
だが何か不思議な雰囲気が場の全てを包み込んでいる。
眼鏡の彼はさらによく目を凝らした。
マゼンタも塾の先生方も皆丁寧に音を紡いでいるように見える。
しかしどうしてかマゼンタは上手で演奏する臙脂を凝視しながらセキエを奏で、臙脂も彼女をじっと見返しながら派手に弓を動かし、中央に立つアガットは諦めたように苦笑いを浮かべ、奥の一人は既にうんざりしている様子だし、その隣に座っている少女に関しては意識がどこかへ飛んでいるみたいだ。
いったいこれはどんな状況なのか?
葡萄は少し不可解に思いながらも、その場を取り巻く音に身を委ねた。
日が傾き始め、タンジャリンが客足を制限し、創作料理店の昼の部が終わりを迎える頃、ステージ脇の狭いスペースにはマゼンタと楽師たち、それに店主の六人が肩を並べるように向かい合っていた。
狭い。とても狭い。ルビーの横笛はいいとしても、棹の長い弦楽器三本に珊瑚の大量の打楽器と恰幅の良いタンジャリン、そして足元には雑多に積まれた箱の山。
それでもこの店の店主は大いに感動して口角の端が頬に届きそうな始末だ。
「いやあ本当に素晴らしかったよ、あんたたちの演奏は!一時はどうなることかと思ったが、その後は万事順調だったし、客もとんでもない人数が来てくれたし、まあ、食べずに見てるだけのヤツもかなりいたみたいだが……とにかく、今日一日で史上最高の売上だったから、ウチとしてもありがたい限りだ!ってワケで、また今度もよろしく頼むな!」
彼はまくし立てるとホールへ繋がる幕を引いて去っていった。
その背後でルビーと珊瑚は疲れたように溜息をつき、アガットは顔を引きつらせながらも何とか微笑んでいる。
「あんな褒められてもなー……」
珊瑚が呟く。
「素人目にはよかったのよ」
ルビーも吐き捨てた。
マゼンタはぽつりと、
「なんというか、先に教えてほしかった」
「え?」師匠が疲労を湛えた瞳で彼女を振り向く。
「臙脂が本当はとても下手だということを」
彼女の言葉にアガット、ルビー、珊瑚は啞然とした。
ただ臙脂だけは、
「は?下手?誰がです?」
「臙脂が」
マゼンタは彼の真正面に立ち向かうように言った。
「なんだか耳がおかしくなったみたいです。もう一度聞いてもいいですか?」
「だから臙脂が」
再び彼女が告げると彼の額に筋が浮かんだ。
目の前の相手の様子に少女は、
「私は何か変なことを言っているか?」
素直に問い返す。
あれだけの演奏を聞かされて客だって勿論気づいていた。野次も飛んでいた。
なのに私が間違っていると?
それとも、まさか、臙脂本人は、自分が上手く弾けたと思い込んでいるのか……?
マゼンタは危うく息を呑み込みそうになった。
その時、隣に立ったアガットが思わず苦笑を漏らす。
なぜ笑える?人前であんな演奏をしておいて。
少女は眉をひそめた。
師匠も臙脂も何十曲何百曲何千曲何万曲と弾ける本物の楽師じゃないのか?
彼女には納得がいかない。
ところが見かねたルビーが呆れたように溜息をつくと、
「あのねえ、あれはあなたを試したのよ」
「ん?」
赤紫色の少女の脳内が一瞬停止した。
「まったく、そうならそうと初めから言ってくれればいいのに。あたしすっごくびっくりしたもん」
珊瑚も追い打ちをかける。
「試す?試すってなんだ?」
どういうことだ。
自分だけがあの状況についていってなかった?
マゼンタは目を白黒とさせた。
アガットは穏やかに微笑むと、
「あのですね、もしステージで予期せぬことが起きた時、あなたがどう対応するか臙脂は確認したかったんですよ」
「予期せぬこと?え……言っている意味がよくわからない」
「いいですよ、わからなくて」
師匠は疲労困憊の笑顔で臙脂に視線を送る。
相手は無表情でアガットを見返した。
(まったく、臙脂ってば……)
アガットは心の中で首を振った。
けれども試された当の本人だけは理解出来ずにキョトンとしている。
試す?試された?なぜ?
「でもよかったじゃない。この子は予想以上の出来で」
新人のことは置いておいてルビーが感想を述べる。
「ほんと。マゼンタのおかげでなんとか収まったもんね」
珊瑚もにこりと笑った。
「奇跡よ奇跡。あんな酷い音で」ルビーは白けたように臙脂を見上げる。
「臙脂、マゼンタに感謝してね」
なぜ私が……!
珊瑚の言葉に臙脂は憤慨した。
が、横笛奏者と打楽器奏者は彼にさっさと背を向けると、
「それじゃあまた今度」
「またねー」
ホールへ続く幕の奥へと去ってしまった。
マゼンタたち弦楽器奏者だけがその場にポツンと取り残される。
赤紫色の少女はたまらず、
「え、ということは、本当は臙脂もやっぱり上手いってことなのか?」
「もちろん」と、師匠が大きく頷く。
「なのにわざと下手に弾いた?」
「そうですね」と、師匠。
「なぜ?」
「いやですから……」
「ああもういいですよっ!」
アガットが本格的に説明しようとするのを臙脂は遮った。
試すほうも試すほうで、それなりに疲れ果てていたのだ。
本当は上手く演奏出来るのにわざと初心者のように下手に弾く。それを何時間も続けるのは体力的にも精神的にも何より楽師としてのプライドも、消耗し切ったのである。
その日の夕方、葡萄は自室の椅子に座り机上に浮かぶ画面と話をしていた。
眼鏡の彼の様子はいつになく明るく興奮状態で、画面に映る相手は少し驚きながらも彼の報告にほっとし口元を緩めた。
庭でも彼と同じ状態のコチニールが木の枝で懸垂をしている弟カーマインと、そこに群がる男たちに何かを聞かせている。
カーマインは興味がなさそうにしながらも一応聞き耳を立て、男たちに交じったワインとボルドーは楽しそうに頷いていた。
そこへ話題の人物が帰ってくる。
コチニールが彼女に気づいて笑顔で駆け寄ると、赤紫色の少女はまさか見に来ていたとは、と心を震わせた。
その光景を縁側に立った眼鏡の彼が眺めていたのだが、やはり頭首同様、表情は確実に緩んでいた。
この人はいったいどこまで上達するんだ。昨日だって咄嗟の出来事だったはずなのに私の、ショウエのパートを軽々と弾いてみせた……
臙脂は口を半開きにしたままマゼンタを見上げた。
初めてステージに上がった翌日、朝も早よから彼女は通常通り塾にやって来て練習を始め、アガットがそれを側で見守り、遅れてやって来た自分が席に着いても尚セキエを奏で続けている。
昨日の演奏ではずっとショウエのパートを弾いていたから今は本来のセキエのパートを繋げているが、着実に前進している。
昨日のあれが功を奏したのか?いや、そのつもりで少女を試したわけではなかったのだが……臙脂は引き続き大きな溜息をついた。
ふと、彼女が演奏の手を止める。
「ん、どうかしましたか?」
師匠が尋ねると、マゼンタは純朴な表情で、
「思ったのだが、ルビーと珊瑚とはどういう関係なんだ?」
アガットはこのタイミングで聞かれるとは考えてもおらず、一瞬目をパチクリさせるも、
「ああ、彼女たちは私たちの音楽仲間ですよ。互いに演奏したい時に声をかけてふらふらっと集まるのです」
ふらふらっと?
臙脂が心の中でアガットに突っ込みを入れる。
「二人は普段何をしているんだ?」
「それは、演奏したり練習したり……」
「それが仕事なのか?」
「そうですね」
「タンジャリンのレストランのような所で演奏したり?」
「ええ」
「つまり演奏家が仕事ということか?」
「そうなりますね」
「へえ」
音を奏でることが仕事、なのか。
少女にとっての仕事とは、守人のような人を護ることだったり、師匠たちのように何かを教えることだったり、食べ物を作ったり家を作ったり修理をしたり料理をしたり掃除をしたりすることが仕事の範疇だった。
だから音を奏でることが仕事だと知れたのはとても新鮮だったのである。
「それより、今日はそれどころじゃないだろ」
臙脂が迎え側に座ったアガットに視線をやった。
師は何か思い出したようにはっとすると、
「そうそう、新しい生徒さんが入るんでした」
「新しい生徒?」
マゼンタは弦に当てようとした弓を下へ下ろした。
子供たちが賑やかに騒ぐ教室の後ろの扉を開けると、待ってましたとばかりに緋色が振り返った。
「マゼンタ!おまえらの演奏聞いたよ!すっごくよかった!」
彼女は自席に歩みを進めながら、
「ああ、聞きに来ていたのか」
「当然だろ、聞きに行くって約束したじゃん」
赤紫色の少女は彼の隣の椅子に腰掛ける。
その顔は相変わらずの無表情だが、コチニールや葡萄と鉢合わせしなくてよかった、と心の中で安堵した。
「まあ、店の中には入れなかったんだけどさ。てか序盤変じゃなかった?臙脂先生の演奏」
臙脂の演奏。
未だに納得していない。
私を試す?私は試された?
なぜその為にあんな汚い演奏を人前で……
マゼンタの脳がまたグルグルと思考を始めた時だった。
教室の前方の扉が開いていつものようにアガットが入室してきた、と思ったら、彼の背後に一人の少女がくっつくように続いたのである。
年は十五程、低めの背丈に平均的な体型、長い真っ直ぐな髪を低い位置で一つに結び、袴のような服装をして、髪と瞳の色はほんのり紫みを帯びた明るい赤色なのだが、クリムスン家のコチニールよりもさらに鮮やかな色をしていた。
子供たちが騒ぎながらも彼女に注目し、緋色も
「お、新しいヤツ!」
と、目を丸くする。
「あの子が」
マゼンタが教員室でちらり耳にした内容を思い返す間に、彼らは教壇に並び立った。
「うわー、またデカイ!」
「またオバサン!」
子供たちの純粋な反応に袴服のその子は言葉を失い、やっと口をついて出たのは、
「オバ……」
の、二文字だった。
アガットはもう慣れたように、
「はいみんな静かに!今日は授業の前に新しいお友達を紹介します。ストロベリーです。みんなよろしくね」
ストロベリーと呼ばれた彼女は視線を泳がせながら体を震わせた。
「なんか、この光景最近見たな」
「ん?」
緋色の呟きにマゼンタは思わず彼を振り返る。
教師アガットは隣の新入生に優しい眼差しを向けると、
「それじゃあ空いてる席にどうぞ」
「は、はい」
教壇で促された彼女は恐る恐る室内を見回した。
どんな人間がこの教室にいるのか、どんな輩がここで学んでいるのか……
そうして一通り席を確認すると、やっと足を踏み出す。
彼女がやって来たのは、マゼンタの前の空いている席だった。
「よ、よろしく」
新入生の彼女は、背後の席に座る背が高くて異常に鮮やかな赤紫色の少女に挨拶をした。
「よろしく」
相手は一切表情を変えることなくそう答えた。




