表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
21/130

第20話 窃盗事件発生


 その家の住人はたまたま留守だった。割と大きく割と広く、けれども豪勢かと言われればそんなことはない。それでも見るからに立派なお屋敷ですね、出向いた人は皆口を揃えた。いえいえそんなことはないんですよ、家の主人はいつも同じように答える。内心ああその通りだと充分承知していても決して本心は明かさない、明かすわけがない。それがこの国の決まり文句だ。絶対にひけらかすことはない。自慢など恥を晒すようなものだ。だから使用人も雇っていないし、住んでいるのは家族だけ。全てを自分たちでこなし、自分たちで解決する、たとえ家が他よりほんの少し大きかろうと。

だから外出時には家族全員でしっかり戸締りをする。窓も扉も勝手口まで全てに気を配り、いつものように確認して出かけた。特に変わったことなど何も起きないだろうと上機嫌で。

帰りは翌日、それまでは外出先で思う存分楽しもう。家のことなど一切忘れて……

そう。だからこそ、格好の餌食となった。

彼は思う存分室内を荒らした。一階も二階も、棚から抽斗(ひきだし)から箪笥から畳の裏まで、贈り物の箱を次々開封するように荒らしまくった。箱の中身は何か、何が入っているのか?一つ一つ開けるのが楽しくて仕方ない。オーバーンは真っ暗な室内で額に(くく)りつけた懐中電灯を頼りに一人祝杯を挙げていた。

オーバーン、年は三十二歳。坊主頭にずる賢い目つきと常に曲がった唇、中肉中背だが筋肉質、物を盗んで金に換えることが彼の稼業。

まともに働くなんて(もっ)てのほか、肉体も頭脳も日が当たる職業に使うわけがない。それが彼の信条であり信念だった。

今日の獲物はなかなかに悪くない。貴金属に宝石に延べ棒、たんまり貯め込まれて選り取り見取りだ。

彼は思わず(よだれ)をすする。金を物に変えて保管するのが趣味ならば、それをまた元の姿に戻してやろう、この俺様が。

オーバーンは指に触れる冷たい手触りにニヤリと笑った。




 彼女を見分けるのは簡単だ。鮮やかな赤紫色の髪はどんなに大勢の人間に紛れても人目を引いた。馬の尻尾のように揺れるその色は、先頃クリムスン家に迎えられた女の子だと近所の人たちにもすっかり認識されている。だが最近はそこに新たな要素が加わった。彼女は背中にいつも細長い形状のものを背負っていたのである。どこかへ出かける時、どこかから帰ってくる時、兄弟や誰かと共にいる時も、常に少女の背にはそれがあった。おかげで朝夕夜、色が正確に見極められない時間でも形だけで判断がついた。

その彼女が今日も塾の門を叩く。いや、正確には塾の中にある教員室の扉を開けた。背中にはしっかり長細い楽器が鎮座している。

これから練習が始まる。譜読みはだいぶ前に習得したし、暗譜(あんぷ)も完璧。曲を最初から最後まで一通り弾けるようにもなった。でもまだまだ修正が必要だし、表現が足りない箇所もある。だから今日もアガットに隅々まで教わって曲を完成させたい、彼女の心は楽譜の記号以上に舞い踊っていた。

しかし扉を開けた室内には誰もいなかった。いつもなら師匠が先にいて出迎えてくれるのに。

「アガット?」

マゼンタは入室しながら声を掛ける。

でも空間は何も返してこない。

(いないのか?)

少女が練習場所である彼の机に近づく。

机の上は授業で使う教科書やら参考書やらノートからメモ書きから相当乱雑に配されていた。アガットの机はいつもこうだ。物がとにかく滅茶苦茶。どこに何があるかさっぱりわからない。けど当の本人は全てを把握しているらしく、物を失くして慌てている光景を拝んだことはなかった。セキエを練習する際は、このゴミのような、失礼、知識の塊の上に楽譜をそっと置いて奏でているのである。

彼女はそれに対し文句を言ったことはなかったが、つい迎え側の机に目が行ってしまった。

アガットの机と向かい合うように置かれた机の上は何もなかった。教科書もノートも全てどこかへしまってあるのか、塵も埃も、無論消しゴムの(かす)さえも見当たらない。しかもそれが常だった。整理整頓が全て。それを見事に体現したような有様だ。

少女は何とも言い難い表情で二つの机を見渡した。

その時、廊下から誰かの足音が近づいてくる。

彼女は期待を胸に振り返った。師匠が遅刻なんて珍しい。

が、視線が合ったのは待ち望んでいた人物ではなく、その同僚だった。

「今日も早いですね」

臙脂(えんじ)がにこりともせずさっさと自席に向かう。

でも少女はその態度に慣れていた。この塾に通うことが決まってからずっと、この男はこんな姿勢だ。授業でも、その前後でも。

それに彼女自身がある種彼と同じ形相を貫いていたから慣れて当然なのだ。

「アガットは?」

「彼は用事があってまだ来ていません」

椅子に掛けながら抑揚のない声が返ってくる。

「そうか」

マゼンタは教科書をペラペラと開く臙脂を観察した。

言葉を交わしたことはほとんどない。授業中もほぼやり取りしたことがない。

アガットと同じくらいの年齢、彼より背は高く、至って平均的な体格。運動が得意なタイプには見えない。かと言って頭が切れるのかというと、決して教えるのが上手いというわけではなく、ただ言われたことを淡々とこなす、といったところか。

授業には真面目に取り組んでいるし、わからないことを質問すれば的確に答えてくれる。

ただほとんどの生徒は彼より断然優し気なアガットに聞きに行くのだが。

いったいこの男はどんな奴なんだろう……

(なぜこっちを見る)

臙脂は彼女の視線をしっかりと感じ取っていた。

じろじろと見られるのは好きではない、だいたい失礼だろうが、そんなこともわからないとは……

そこまで思って彼は思いとどまった。

少女が記憶喪失だったことを忘れかけていたのだ。

記憶喪失。

なんて厄介な問題だ。まさかこんなものを押し付けられるなんて。

けど興味の対象にされるのは我慢がならない。このまま席を立つか、そう考えた時、

「臙脂はセキエを弾けるか?」

彼女が唐突に尋ねた。

「弾けません」

少女を見ることもなく彼は答えた。本当に素っ気ない。

(だよな)

マゼンタは内心項垂(うなだ)れる。

もし弾けるのなら教えてもらおうと思ったのだが……

彼女は授業前のこの時間を有効活用したかった。少しでもセキエに触れて曲を練習したい。今はその貴重な時間だ。しかももし臙脂がセキエを弾けるならそれを教わることで彼をもっと知れるではないか。これぞ一石二鳥。少女は最近覚えた熟語を使って自分の気持ちを噛みしめた。

しかし当の本人が弾けないと言う、これはどうしたものだろう。

彼女は彼を再度凝視した。

臙脂は少女をとことん無視するが視線は痛いほど感じられる。

(だから弾けないと言ったのに、なぜこっちを見る)

彼の心情は焦りと共に苛立ちも含み始めた。

それでも彼女は彼を見続ける。

その目に何か強い思いが込められているように、そこから何かが発せられているかのように。

途端に臙脂の緊張の糸が切れた。

彼はふうと溜息をつくと、

「セキエは弾けませんが、それに似たような楽器は……弾けます」

「似たような?」

「大きさはだいぶ違いますがね」

「ならセキエも弾けるんじゃ……」

「だから弾けません」

マゼンタはさらに彼を凝視した。そう言えばまだ聞こえはいいが、実際は睨み上げる位に発展している。

(なんだこの圧は……)

臙脂のこめかみから冷汗がこぼれそうになる。

なぜ自分がこんなに睨まれなければならないのか、しかもセキエの件で……!

彼は今度は肺の奥底から溜息を吐く羽目になった。

「わかりました。見るだけでいいのなら」

赤紫色の少女の圧勝だった。



同じ頃、本来のセキエの師である男は勤め先に向かって足早に歩いていた。

本当ならば走りたい、大きく腕を交互に振って目的地に向かいたい、そう思っていた。

だがこの地域は舗装されている歩道が少ない。土も小石も全て剝き出しだ。

それに加え彼は普段あまり運動をしていなかった。使うのは専ら頭と指。だからちょっと駆け足になったくらいで足がもつれ簡単に転びそうになってしまう。なんと繊細な体だろうか。

けれども急がねばならない、この時間なら彼女がもう先に来ている。

「ああ、遅くなってしまった……!」

アガットははやる気持ちを抑えながら職場の敷地内へ足を踏み入れた。



臙脂は啞然としながら目の前の光景を眺めていた。

先程まで自分を脅迫するような瞳で追い詰めていた少女がセキエを演奏している。

セキエを奏でるのはいい、その景色は今までも散々目にしてきた。授業の前、何なら授業の後にもよく見聞きしていた。当初はとても耳に出来るような音ではなかったが、少しずつ聞ける音になったことも知っている。それはいい、そこまではわかっていた。

しかし、これは……〝ルアルカイキ〟だろう……?

セキエの楽譜は存在しない、だから代わりにツキソメの楽譜を使うことは承知の上。

けれども、だ。

〝ルアルカイキ〟は確かにツキソメの曲である。だがただの曲ではない。〝名曲〟だ。

ツキソメの中でも断然高度な指使いに細かな弓の動き、速度もかなり速いときている。

ツキソメを何年も弾き続け、練習に練習を重ねた人間がようやく弾くことが出来る、言わば〝難曲〟だ。

それを初っ端の、しかも曲を一度も弾いたことのない者に練習曲として課題を出すなんて、アガットはどうかしている、そう思っていたのだが……

目の前の少女はいとも容易(たやす)く〝ルアルカイキ〟を演奏していた。

(なんなんだ、この上達の早さは。ついこの前まで、一音一音弾くことしか、出来なかったのに……)

多少のミスや表現の未熟さはあるものの完成に確実に近づいている。

臙脂は口を半開きにしたままただ彼女に目を見張るしかない。

その時、

「すみません、遅くなりました!」

扉を開く音と重なった彼の声に、マゼンタは手を止めて振り返る。

師匠が呼吸を整えて入室しながら、

「もう練習していたんですね……!」少女と同僚に近づいた。

「ああ。臙脂が見てくれた」

名指しされた彼は途端にぎくりとする。

「おお、臙脂が。それはそれは」

アガットがにっと口角を上げた。

「いや、私はただ見ていただけで教えるなんてことは……」

臙脂が途端に焦り始める。

が、彼を尻目に師匠はニコニコと微笑んでいた。

(なぜそんなニヤつく……!)

臙脂の額に筋が浮かんだ。

アガットと臙脂。たまにこうして小競り合いのような戯れをしているが、基本的に仲は良いのだろう。彼女がこの場所でどんな音を鳴らそうとも二人が(いさか)いになることはないし、授業方針で揉めることも勿論ない。どちらかというとアガットがやりたい放題やって、それを臙脂が援護したり見守ったりしているみたいだ。

少女は何となくそんな風に感じていた。

「今日は遅かったな。何かあったのか?」

マゼンタがアガットに尋ねる。

「ええそれが、最近頻発している窃盗事件の件で町内会の会合がありまして」

「窃盗事件?」

「知らないですか?ニュースでも取り上げられているんですけど」

「ニュースは見ない」

少女の一日はほぼ塾の勉強とセキエの練習に当てられていた。それに家族の誰もが各々忙しく、テレビや新聞の前に座っているということがなかった。

「最近ジョーガの都を騒がせている窃盗犯がいるんですよ。彼は各家々に忍び込んでは現金や金目の物を片っ端から盗んでいってしまうんです」

「へえ」

「しかもなかなか捕まらないものですから、この地域でも注意喚起のお知らせが回ってきましてね、そのための会合だったんです」

「ほお」

「まああなたのお家は守人(もりひと)の一族ですし、セキエも大丈夫だとは思いますけど、一応気をつけてくださいね」

彼女の脳内に疑問符がポコポコと浮かんだ。

もしかして……

「セキエって高価な楽器なのか?」

「ふふふ。かもしれないですね」

臙脂の次は少女が啞然とする番だった。

彼女は恐る恐る手の中に納まったセキエを見下ろす。

アガットの髪や瞳と同じ色をした楽器の弦がきらり艶めいた。



「あ、来たな」

セキエの練習が終わり今度は授業を受ける為教室に入ると、本日も元気な子供たちの間を縫って緋色(ひいろ)が近づいてきた。

「なあ、今日こそオレと手合わせしろよ」

「断る」

マゼンタは自分の席へ向かう。

「なんでだよっ」

「おまえもわかってるだろう?」

少女がさくっと席に着いた。

またこの話か。

茜色(あかねいろ)の息子、緋色少年は一度彼女に倒されてからというもの、絶えず挑戦状を叩きつけていた。ただし全て破り捨てられているが。

「いいじゃんか、ちょっとくらい」

彼女の前で少年が仁王立ちになる。

「よくない」

すると彼は

「ならさ、バレないようにやればいいんじゃね?」

いたずらっぽく笑みを浮かべた。

「そういう問題じゃないだろ」

「なぁんでぇだよぉー」

緋色がいやいやと首を横に振る。

どうしても引き下がらないつもりか。

少女が今日もうんざりしようとした時だった。やはりいつもの朗らかな声が室内に響いたのは。

「はーい、授業始めますよー」

「んもうっ!」

鼻から息を吐いた少年が渋々自席に向かう。

マゼンタは塾講師兼楽師のアガットに心から感謝した。




クリムスン家道場では木刀による剣術稽古が行なわれていた。

彼らの稽古内容は日によって違っていたが、道場では体術と剣術の稽古を主としている。

男たちは皆一人一人木刀を持ち、相手を見つけ、木刀を振るい上げる。

木刀と木刀が重なり合う音と、床と裸足が擦れる音、威勢のいい掛声。それらは道場の外にまで遺憾なく伝わっていた。

彼らは皆真剣に相手に向かっていく。そうでなければ上達しないし何より危険だ。稽古の最中によそ見をするなんて。

それでも気になる者がいれば目が勝手に追ってしまう。

その者はまだ若かった。若いなんてもんじゃない、彼らからすればまだまだ子供だ。

なのにどうしてこうなった?

彼らは驚きを隠せなかった。

対象は今ボルドーと稽古をしている。

ボルドーは普段割とのんびり屋で穏やかな性格をしているが、体術や剣術に関しては相棒のワインに引けを取らない。

その彼が対象に押されている。

(いつの間にこんな上達を……!)

ボルドーは自らの木刀で何とか相手の攻撃を防いでいた。

彼の相手、コチニールはボルドーのありとあらゆる隙を狙って木刀を振るいまくっている。

その動きは最近対戦したとある人物に似ていた。

息つく暇を与えない、攻撃の手を止めない……!

コチニールの集中力はやはり尋常じゃなかった。

そんな兄の近くで稽古をしていた弟は目を見開いたまま固まっている。

(兄貴、また上手くなってやがる……!)

いつの間に、どうしてこんな……⁈

「こらカーマイン」

弟ははっと我に返った。

稽古の相手、ワインが自分を見てにやりと笑っている。

「よそ見してると一本もらうぞ」

「なっ……!」

長身の相手は不敵な笑みのまま木刀を構えた。

体術ではカーマインに一本取られたが、剣術ではどうなるか試してみようじゃないか……!

ワインは決して粘着質な性格ではない。けれどもまだ幼い彼に一本取られた経験はちゃんと脳裏にこびりついている。それは頭首の息子の成長を示唆し喜び溢れるものだったが、同時に自分もこれからまだまだ伸びなければならないと感じていた。

「そんなことにはならない!」

カーマインがワインにそう答えようとした。

ところが突然、道場内の男たちが一斉に動きを停止しとある方向に顔を向けたのである。

そのせいで彼も言葉を飲み込みそちらを見ることになってしまった。

全員の視線の先、道場の入口に赤紫色の少女が立っていた。

「あいつ、また……!」

カーマインは瞼を歪ませる。

「あっ!」

コチニールも彼女の姿に気づいて木刀を止めた。

「ん?」

なぜか注目を集めている当の本人だけは首を(ひね)る。

皆動きを止めてこっちを見ている?

するとすかさずコチニールが彼女に駆け寄った。

「マゼンタ、また手合わせして」

また?またって……

カーマインが聞き耳をしっかりと立てている。

「ああ、いいけど……」

少女が内心首を捻ったまま答えると、兄の背後に位置する男たちが我先にと手を挙げ始めた。

「オレもイイっすか⁈」

「俺も!」

「ワシも頼む!」

彼女はほんの少しのけぞった。

(なんだこれは?)

コチニールやカーマインが稽古してほしいというのならまだわかる。だがなぜ男たちまで?

少女はまさか自分の腕の噂がこの家中に蔓延しているとは夢にも思っていなかった。

「まず僕が最初!」

兄コチニールが男たちを振り向く。

もう一人の兄カーマインはブチ切れながら、

「なんなんだおまえら……!なんでそんなマゼンタにばっかり……!」

周囲に対して非難しまくっていた。

「じゃあ早速……」

コチニールが笑顔で妹に向き直る。

またマゼンタと稽古が出来る、そうしたら僕の腕もめきめき伸びるし本当に助かるよ!

彼は胸を躍らせた。が、彼女は唐突に、

「そうだコチニール、この家に金庫というものはあるか?」

「ん?」

金庫?

突拍子のない質問に一瞬頭が凍結した。

「あると思うけど、金庫がどうかしたの?」

妹は自らの背中にしょった楽器に目を向けると、

「セキエを保管したいんだ」

「へえ。金庫に入れるには持ち手が少し長いと思うけど、斜めにすれば入るかなぁ」

なぜにそんなことを言うのかは想像もつかないが彼女は至極真剣らしい。

「でも突然どうしたの?」

「最近ジョーガの都で起きている窃盗事件を知っているか?」

「うん。学校でも気をつけるようにって言ってたよ」

「それでアガットがセキエも高価だから気をつけるようにと」

「なるほど、それは大事だね」

コチニールは納得した。彼女が毎日練習している大切な楽器だ。それが高価な物なら厳重に保管して損はないだろう。金庫があるかどうかを尋ねるのも理解できる。

しかし二人のやり取りを眺めていた男が乾いた笑い声を出した。

兄妹はその声の主、ワインに視線を移す。

長身の彼は二人に近づきながら、

「そりゃ注意するに越したことはないけど、守人の家に忍び込むようなアホはそもそもいないだろう」

「……それもそっか」

コチニールも相槌を打った。確かに一般の民家なら注意を払うべきだろうけど、ここは守人一族クリムスン家。窃盗犯が狙うにはリスクが高すぎる。なんせ筋骨隆々の男たちを相手にしなければならないし、誰かが家を空けるなんてことはまずあり得ない。必ずどこかに誰かはいるのだから。

マゼンタは兄とワインの反応に思いを巡らせる。

(アガットもそうは言っていたが……)

自分の背中から伝わる楽器が妙に重く、いやに温かさが伝わった。




 こじんまりした畳部屋は障子も襖も全てが開け放たれ、柔らかな風たちは室内を行き来し放題だ。庭の植物からは瑞々しい生命の香りが漂い、そこにある全てに癒しを無償で提供している。

眼鏡を掛けた青年はその部屋で正座をし、小さな丸机に向かっていた。

机上にはいくつかの用紙が並べられ、風で飛ばないよう文鎮(ぶんちん)に押さえつけられている。

彼は細筆を使って丁寧に文字を書いた。

少年少女らに伝えおくこと、男衆への申し付け、各種機関とのやり取り等、書き物の中には決して表に出せないものもあった。

それを手慣れたようにさらりさらりと書いていく。

これも大事な仕事の一つ、クリムスン家頭首の右腕としての務めだ。

どうせなら集中して一思いに書き、次のやるべきことに移行したい。彼の任務はまさに分刻みだった。

ところがなぜかざわめきが少しずつ近づいてくる。しかもそれはさっさと通り過ぎてほしいのにわざわざ自分のほうに向かっていた。

彼のこめかみが無意識にひくひくと動く。

葡萄(えび)

彼が顔を上げると数人の男たちが縁側の向こうに立っている。

何事か、今の時間は掃除か洗濯か畑仕事だろうに。

「お嬢はいるかい?」

手前の(いか)つい男が尋ねてくる。

お嬢……ああ、マゼンタのことですね。

彼女は既にその呼び名で男衆から親しまれていた。

「いいえ、朝からセキエの練習で塾にいっていますよ。でもどうしてですか?」

「いやさ、お嬢に剣術稽古をしてもらおうと思ってな」

「はあっ⁈」

葡萄の苛立ちは驚愕のあまり吹き飛んだ。

「お嬢の腕前、相当らしいって評判聞いたよ」

「どうやら手合わせもしてくれるらしいしなっ」

「そうそう、だからオレらも相手になってもらおうと思ってさ」

眼鏡の彼の眉がみるみるうちに吊り上がる。

剣術稽古⁈腕前⁈手合わせ⁈相手⁈何を抜かしてるんだこいつらはっ⁈

彼は前のめりになりながら立ち上がった。

「マゼンタは女の子です!剣術稽古なら男だけでやんなさいよ男だけでっ‼」

葡萄の息が切れる。

ちょっと目を放した隙にどうしてこんな不埒(ふらち)な話が持ち上がっているのか……!

苛立ちを越えて憤慨が身を焦がしていた。

ほんの軽い気持ちで尋ねた男たちはというと、彼の形相に目をぱちくりとさせた。

なぜそんなに怒っているのか。彼らに葡萄の気持ちは残念ながら察せられなかったのである。



「休みなしのぶっ続けで大丈夫ですか?」

「一曲仕上がりそうだ」

そう言って演奏の手を止める。

(〝ルアルカイキ〟……ツキソメの名曲)

まさかこの曲がこんなに早く完成するとは。

アガットは満足そうに微笑みながら目の前の生徒を見上げた。

今朝も早よから彼女は練習にやって来た。自分のごっちゃりとした机の端に楽譜を置いて、颯爽とセキエを奏で始め、それが延々と続きもう昼過ぎ。

あと少しで子供たちが授業を受けにやって来る。

お昼ご飯も食べず休憩も一切挟まず、弾いて弾いて弾きまくる。この並外れた集中力はさすがとしか言いようがない。

彼女には初め好きなように弾いていいと伝えた。が、その時点でほぼ曲を成してしまっていた。手法も技術も暗譜も完璧。後は僅かな修正と表現の追加、それだけ教えればよかった。

まったくこの子は、本当に手がかからない。

塾講師兼楽師の彼はもうちょっと出番が欲しかったと嘆いて肩をすくませた。

「セキエの楽譜は元々ないんだろう?」

マゼンタが尋ねる。

「ええ、ですがセキエとツキソメは形や弦や指の押さえ方が似ていますし、さらに音階は一緒ですからツキソメの楽譜で代用は可能なんです」

ふと少女に疑問が湧いた。

「アガットはいつからセキエを習ったんだ?」

「子供の頃からですよ。近所にセキエを弾いている人がいらして、たまたま話しかけたら教えてくれて、しかも譲ってまでくれて」

それは、私と同じ状況?

彼女はセキエを習うきっかけとなった出来事を思い出す。

塾へ来たら今まで聞いたことのない音がして、それがアガットが弾いていたセキエだとわかり試しに弾かせてもらって、そうしたら彼が教えてくれることになり、セキエも譲ってくれて……全く一緒だ。

師匠は続ける。

「でもその人はすぐいなくなってしまって……後は独学で学びました」

「独学……すごいな」

こんな最初はとんでもなく酷い音が出る楽器を独学で学ぶなんて……

視線を手の中の楽器に落とす。

姿形は申し分ないが中身はかなり手こずる代物だ。

「いやいやいや、そんな大したことではないのです。ただなんとなーく弾いていたら弾けるようになって、なんとなーく続けていたら曲になって……」

彼は照れたように頬を染める。

「だからそれがすごいんだ」

「いやいやいや、そんなことないですよっ、ほんとにそんなこと、そんなことはっ……そんなことはっ……!」

師が謙遜する間、マゼンタは考えていた。

初めてアガットが演奏するのを聞いた時に彼が出したあの音、あの音色に、今の私が出す音は一致しているだろうか、と。

近づいたのは自分でもわかる、だが一致したかというと完全ではない。

何かが違う、何かが弱々しい。

どうしたら彼のように美しい音が出せるのだろうか。その音の溝はどうしたら埋まるのだろう。

練習時間、練習頻度、年数、経験?もっと色んな曲を弾く?

少女は頭の中で考え続けた。

授業中も、子供たちがきゃっきゃと笑う合間も、隣の席に黄みがかった赤い少年が着席していようと、彼女は壇上に立つ師匠を眺めて思考を回した。

彼は今黒板に文字を書きながらここにいる全員に一生懸命学びを授けている。

マゼンタは彼の背中を見つめ続けた。

(アガットは謙遜していたが、独学であんなに弾けるなんて)

少女の脳にまた彼のセキエの音がこだまする。

「すごい人だ……」

彼女がポツリ漏らした時だった。

突然教室の前方にある扉がさっと開いたかと思うと、もう一人の塾講師が顔を覗かせる。

彼の表情は普段とは打って変わって切迫していた。

「どうしたの?」

アガットが驚いたように声を掛ける。

臙脂は息を整えると、

「たった今、茜色家に窃盗犯が入ったと連絡が……!」

「ええっ⁈」少女の隣で緋色が思い切り立ち上がった。

「緋色、すぐに帰る準備を……!」

アガットも少年を促す。

「お、おおっ」

緋色は机の上の教科書類を慌てて片づける。

マゼンタは驚きながらも首を傾げた。

(守人の家に、窃盗犯?)


















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ