第19話 〝ルアルカイキ〟と母親
男たちが美味そうに飯を食らっている。唾を飛ばし、ご飯粒も飛ばし、喋って笑って今日一日を労い合っている。何と楽しそうな光景だろうか。
しかしながら大座敷の中央付近だけはピリピリと空気が傷んでいた。周りは楽しく騒いでいるというのに、なぜかこの場所だけは一日の確認という名の尋問から食事が進められるのが日課となっていたのだ。
「マゼンタ、塾はどうですか?緋色とはどうですか?」
「あ……」
少女の脳裏に本日の出来事、塾の広場で緋色を地面に投げ飛ばす、という映像が流れる。
「じゅ、順調だ」
本当は順調ではないのだが……
けれど真実を述べることはどうしても憚られた。
父にも兄にも止められたのに緋色と関わってしまったこと、それは絶対に止められたからこそ言えなかった。
「もう、葡萄はそればっかり聞いて」
コチニールがもういい加減にしなよと思いつつ眼鏡の彼に言う。
「当然でしょう?大事なことなんですから」
「でもマゼンタだって耳にタコだよ、ねえ?」
「タコ?」
聞き慣れない単語に彼女は首を傾げる。
「聞き飽きたってこと」
「あ、ああ」
「ほら」
「ですがこれはクリムスン家にとっての死活問題なのですっ」
葡萄が箸を振り上げた。
「それは大げさだよ」
「大げさではありません。茜色家の人間に関わってどんな問題が持ち上がるかと思ったら今から冷や冷やものですよ」
「あのね、マゼンタのこともっと信頼してよ」
「してますよ、してますけどね……!」
葡萄が少女を疑い、コチニールが庇う。これが最近の流行りだ。
だが真っ向から否定し、自分を信じてくれと言えない彼女はとにかく話題をそらそうとコチニールの奥の席に目を向ける。
「あー、カーマインがまたいないな……!」
「ん?」
「最近ずっと、一緒に食事を取っていない」
「たぶんまだ稽古中だと思うよ」
稽古。
少女は塾で緋色から言われた言葉を思い出す。
悔しかったから……カーマインは悔しかったから稽古をしている。
「大丈夫です。ほっといても後でちゃんと食べるんですから」
葡萄が言いながら漬物をボリボリと嚙み千切った。
「そうか……」
コチニールは目を伏せた妹に気づいた。
カーマインのことを心配してくれているのだな、と。でも、
(カーマインはマゼンタと顔を合わせたくないのかもしれない……)
同時に弟にも思いを馳せていた。
クリムスン家の道場には煌々と明かりが灯っていた。
けれども物音はほとんどしない。あるとすれば何かがザクザクと音を立てたり、時折床をほのかに打ち付けるようなリズムを刻んでいるくらいだろうか。それ以外は人の声も何もしなかった。
それでもマゼンタは道場を覗き込んだ。
その場所にいるであろう人物に声を掛けたくて、どうしても聞きたいことがあって、夕食後すぐにここへやって来たのだ。
案の定、道場内には砂袋が一つぶら下げられている。袋は人の胴体程の大きさで紐に吊られゆらゆらと不安定な動きを見せていた。その前で真っ赤な兄が袋に対し殴り蹴りしている。
彼の姿は憎き相手を打ちのめすべく、ただがむしゃらに向かっているようにも見えた。
やる気、熱意、気迫は伝わる。
ただ赤紫色の少女はそれで気圧されるような人間ではなかった。
彼女はいつもと変わらない速度で彼に近づくと、その横顔を真っ直ぐに見つめた。
兄は妹の登場に少しだけ驚きつつ、でも苦々しそうにそれまでの動きを止める。
「なんだよ」
「ご飯、食べないのか?」
「はあっ?」
「お腹、空かないのか?」
「おまえに関係ねえだろっ、邪魔すんな……!」
「私に勝てないことがそんなに悔しいのか?」
少女のあまりに率直な質問にカーマインが瞼を鋭角にした、と思ったら、
「ああそうだよ!女で、妹であるおまえに、体術も剣術も弓も勝てないことが悔しくてたまらないんだよっ!」
彼女は啞然とする。
真っ赤な兄は汗まみれの顔のまま肩で何度も息をした。
「その感覚は、私にはわからない」
「はあっ?」
「わかろうとした、おまえの気持ちを。でも、どうしてかわからない」
私はどこか、おかしいのだろうか。それとも記憶を失ったせいでその感覚も失くしてしまったのか……?
「はっ。そりゃそうだろうな。おまえはなんだって出来るんだから」
「なんだって?」
「武術だって音楽だって、なんでも簡単にやってのけてるじゃねえかっ……!」
カーマインの言葉に彼女は口をポカンと半開きにする。
「なんだそのアホ面は……!」
「なんでもではない。私は記憶がないし、言葉もボロボロだし、おまえの気持ちをわかろうとしてもわからないのだから」
今度唖然とするのは兄のほうだった。
(言われてみればそうだった。こいつは武術とかは玄人なのに、人間としての基礎が完全に欠落してやがる)
カーマインは今更ながら妹の実態に気づかされたのである。
「ただ体術とか剣術とか弓とかは、自分でもなぜ出来るのかはわからないが」
「ああそうかよっ。でも俺はおまえにも兄貴にも父上にも負けねえからな」
途端に少女の脳が凍りつく。
「なぜコチニールと父上が出てくる?」
「とにかく!俺は誰にも負けないんだよ!」
彼はそう言い切ると汗を置き去りにしたまま道場の出口へ向かう。
真っ赤な兄を見送りながら彼女はまた、首を傾げる羽目になってしまった。
子供たちは休むということを知らないのだろうか。
極限まで遊び極限まで感情を放出し、それでも尚体も心も動かして駆け回り喜び続ける。電池が切れるまで、体力の限界を迎えるまで楽しむことを絶対にやめない。
塾の授業が始まる前、教室での彼らはいつもそのような動向だった。ただ一人を除いて。
大人びた彼女は、実際彼らより年長だったが、常に冷静で、この塾に通っているのもとにかく赤星の基礎を学ぶ為、教養を身に付ける為勉学に励んでいた。だから授業も真面目に受講していたし、休み時間も予習や復習は欠かさない。何なら宿題さえとっとと終わらせていた。
その顔は常に無表情。何か心動かされることがあったとしても、それは彼女の中だけで完結し、表に出ることはほぼない。つまりとことん冷静で周囲からは何を考えているのか全くわからなかった。のだが、今日の彼女はどこかが違っていた。自分の席に着き、机の上に並べられたものを見て目を輝かせている様子だったのだ。
「これが、曲……」
マゼンタの前に数枚の紙が並べられている。そこには縦書きで赤星数字が羅列してあった。
「はい、これが練習曲です」
授業前の教員室。いつものようにアガットからセキエを習い、そろそろ授業が始まるから教室へ向かおうとしたその時、唐突に手渡された。四角い紙に何やら数字が書かれたものを。
「そろそろ曲も弾いてみましょう、まずは手始めにこれを」
少女の心臓が跳ねた。
曲、これが曲、やっと私も曲を弾けるのか……!
「これは〝ルアルカイキ〟」
「ルアル……?」
もらった紙の右端に目が行く。
そこには題名のようなものが表記してあった。
「昔の言葉で、今でいう所の〝一網打尽〟みたいな意味です」
「いちもうだじん……」
彼女のいまいちピンと来ていない反応に、
「えっと、一度に全て捕まえるということですね」
塾講師はしっかりと教えを授ける。
「ほお」
一度に全て捕まえるって、いったいどんな曲なんだ?
少女は楽譜をペラペラとめくってみた。
しかしそれらのどこにもただただ赤星語の数字がずらり整列しているばかりだ。
「実はこれはセキエではなくツキソメの楽譜なんです」
「ツキソメ?」
「セキエとよく似た弦楽器です」
そういえば、以前に葡萄がそんな単語を口にしたことがある。確か塾を変えるという話が出た時に。
「元々セキエには楽譜というものが存在しないので、代わりにツキソメの楽譜で代用しているんですよ」
「楽譜が存在しない?」
「らしいです。どうも耳で全て記憶していたとか何とか。詳しいことはわかりませんが」
「でもツキソメという楽器の楽譜が代わりになるんだな」
「ええ、一応ツキソメはセキエとほとんど同じ作りで音階も一緒です。なので弾けないことはありません」
マゼンタは一枚目の右上から順番に目を通していく。
この数字がセキエの一つ一つの音と連動しているのか。
「まずは楽譜を読んで、それから好きなように弾いてみてください」
楽師アガットはにこりと微笑んだ。
以上が数分前。
そして今も彼女は目の前に並べた楽譜を見渡して心躍らせていた。
〝ルアルカイキ〟一網打尽、セキエの曲、曲、曲……!
やっと弾ける!
これまではずっとただ一音一音、アガットに言われた通りに弾くだけだった。
弾き方や表現の仕方はちょっとは師匠に近づいたかもしれない。でも曲を弾けるとなるとやはり浮き立つものが違った。
曲になる。今までの一つの音が繋がって初めて曲になるんだ。
それを想像しただけで鳥肌が立つ思いだった。
どんな曲になるのか、少女は感情を表に出さないままにまた紙面の数字をなぞり始める。
その時だった。
突然楽譜の上に両手が思い切り乗せられる。それはあまりの勢いだった為、紙のインクが歪むほどだった。
「マゼンタ、オレと手合わせしろ」
聞き慣れた声に彼女は呆然としながら彼を見上げた。
楽譜に手をついたままの緋色が鼻息を荒くしている。
「おい聞いてんのか⁈」
「だから」
少女は肩を下ろして言葉を継ぐ。
「私もおまえも言われただろう?互いに関わるなと」
「んなこたこの際カンケーねえよっ!茜色家のオレがやられっぱなしになるわけにはいかねえからなっ!さっ表出ろっ!」
彼はやっと楽譜から手を放した。紙面は少年の圧でやはり造形を僅かに変えてしまっている。
「断る」
「いいから出ろって!」
「いやだ」
「なんでもいいから出ろよっ!」
「ダメだ」
「おまえぇぇぇっ!」
「諦めろ」
「ヤダっ!オレはおまえに絶対負けたくない!」
その言葉にマゼンタは緋色をじっと見つめる。彼女の脳内にとある声がじんじんと響いていた。
「でも俺はおまえにも兄貴にも父上にも負けねえからな」
つい最近、真っ赤な兄も同じようなことを言っていた。
負けたくない、思い……
少女は机の上の紙面に目を落とす。
数字は、音は、彼女にとって何も物言わない。でも、負けたくない、負けたくない?悔しい、悔しい?
彼女が何かを考え始めた時だった。
教室の前の扉がガラリと開き、突如として思考が遮られる。
「はーい、授業を始めますよ」
塾講師アガットが朗らかに入室する。
「くそっ、先生来ちゃったじゃんか」
緋色は教師に悪態をついたものの、すぐ少女に向き直ると、
「こうなったら塾が終わったあと勝負だかんな……!」
「だから……」
「絶対逃げんなよ!」
マゼンタは深い溜息をついた。
逃げるだと?誰が逃げるか。逃げるわけではない、わけではないが……
ただ何となく、学校からの帰り久々に塾に寄ってみようか、コチニールはそう考えた。
妹が茜色の息子、緋色と同じ塾に通っているとわかってから、気が気じゃない日々が続いた。一時彼女が茜色家に誘われてその敷地内に足を踏み入れてしまったこともある。けれども父や葡萄と約束をしてから妹は彼と一定の距離を保っているようだし、何も危険なことは起きていない。毎日同じ時間に塾から帰ってくるし、次の日も午前中からセキエを習いに行っている。大丈夫、彼女は無事だ。彼とはもう何もない。だから久しぶりに迎えに行って一緒に帰ろう。
そう思って兄は塾の敷地を跨ぐか跨がないかのギリギリの場所で妹を待った。
そろそろ授業が終わる時間だ。コチニールは塾の玄関扉を眺める。
するといきなり扉が開いて赤紫色の少女が全速力で駆けてきた。
え?
兄がそう思ったのも束の間、
「行くぞ!」
妹はコチニールの手を掴むとそのまま走り続ける。
「ちょっ……!」
兄は何が何だかわからぬまま彼女に引っ張られていった。
少し前まで景色全体を占めていた茶色い葉が植えられた土地は、さらにいっそう生い茂っていた。そう感じたのは葉が成長しただけでなく、その数も増やしているからなのだろう。それらはどんどん背を伸ばし、秋には美味しい実りとなるらしい。クリムスン家でも毎食お膳に上がる主食、つまり米の元となるものだ。この広大な土と作物が男たちや、この国の民の命を支えていた。
クリムスン家頭首の長男はその田んぼの間に伸びる畦道に佇んで息をぜえぜえと切らしている。
が、隣に平然と立った彼の妹はというと、なぜかしきりに背後を振り返っていた。
(ここまで来れば追っては来ないだろう)
少女は永遠と続く道の先の先にまで目を細める。
「いったい、どうしたっていうの?」
コチニールが呼吸を整えながら妹に尋ねる。
「ただの軽い運動だ」
「軽いって……」
マゼンタは走るのもすごく速いんだな……手が千切れるかと思ったよ……
兄は既に認識してはいたが彼女の新たな能力に脱帽した。
「大丈夫か?」
少女が彼を覗き込む。
「うん、大丈夫」
「いきなり引っ張って悪かった。帰ろうか」
紫みを帯びた赤色の少年はふうと一呼吸ついて、彼女と肩を並べて歩き始めた。
穏やかな夕日が二人を見守っている。畦道にはちらほら人影があったが、本日も貸し切り状態に近い。
「勉強はどう?ついていけてる?」
兄が話を切り出す。
「ああ」
「セキエは?今日も先生に見てもらった?」
「ああ」
「緋色とは?ちゃんと距離を取ってる?」
「あ、ああ」
なんとかな、さっきも危ない所だった。
果たしてこの対処が距離を取っていることになるのかは疑問だが、彼女にとっては精一杯の対応だった。
「って、ごめん……!」コチニールが突然振り向く。
「ん?」
「なんか僕、葡萄と同じようなことをマゼンタに聞いてるね」
「別に構わない」
父上も葡萄もコチニールも心配しているのだろうし。
彼らの気持ちはちゃんと少女に届いていた。僅かな疑問を残してはいたが。
「いやいや、気をつけるよ」
小うるさい兄にはなりたくない。
コチニールは気を遣っていた。兄として彼女のことが心配だけれど、信頼しないのはよくない。まさに葡萄を反面教師にしていたのだ。
ああはならない、自分はあんな風には絶対ならない、と。
その時、彼女たちの前方から母親と小さな息子らしき人物がゆっくりと近づいてきた。二人は手を繋いで何か話しながら視線を合わせ、その顔はどちらも幸せに満ち溢れているように見えた。
「きょうのよるごはんはなあに?」
「今日の夜はね……」
二人が兄妹の脇を通り過ぎていく。
マゼンタたちもそのまま歩き続け、親子の会話はすぐに霞んでいった。
「コチニール」
「なに?」
「前々から気になっていたことがあるんだが」
「うん」
「おまえたちの母親はどこにいるんだ?」
同じ頃、茜色家の庭園をずんずんと横切っていく少年がいた。
観る人が見れば彼は頭から湯気を吹き出し、鼻からも同じようなものを吐き出し、何なら全身から燃え滾る激情さえ感じられただろう。
「あんのヤロウ、絶対逃げんなって言ったのに……!」
塾の授業が終わった後、クリムスン家の少女と手合わせする約束をしていた。少なくとも少年は約束をしたと思っていた。なのに、アガットがさよならの挨拶をするか否かのタイミングで教室から一目散に走り去っていったのである。
勿論彼は彼女を追いかけた。
が、塾の敷地を出てすぐに見失ってしまったのだ。
そんなことってあるか⁈どんだけ逃げ足早えーんだよっ‼
とにかく近くを適当に探しまくったが見つからない。
だから仕方なく家路について今に至る。
緋色は庭の端にある木の根元で立ち止まった。
上を見上げると丁度塩梅の良い枝に今日も奴が寝そべっている。
あんな所でよく寝られるな。
少年は彼が寝返りを打って落っこちるのを見たことは一度もなかった。
「カッパー!また相手してよ!」
自分も人のことは言えないが、今日もボサボサ寝癖頭の彼は身動きせず何も答えない。
けどそんなの日常茶飯事だ。
「カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!カッパー!」
「あーうるさいっ!」
さすがに相手は上体を起こした。
「起きた⁈ほら、オレと稽古してよっ!」
「ったく……」
目元を覆う前髪の向こうで彼が冷たく睨んだ、かに思ったが、すぐに木から跳び下りたかと思うと音もなく地上に着地していた。
その夜も男たちは賑やかに食事を楽しんでいた。こんなことがあった、あんなことがあった、これがまだ出来ない、あれが出来るようになった、守人としてクリムスン家の一員としてどれだけ成長したか、どれだけ伸び悩んでいるかを語り合う。今度の任務はこうで、今度赴く場所はここで、戦況は……
けれども彼らは食事をしながらいつも座敷中央付近をよく観察していた。
対象が元気で楽しそうにしているならそれでよし。でもそうでない場合はやはり気に掛かる。
しかも今夜はどう見ても人数が足りない。これは明らかに異常事態であった。
男たちは箸を口に運び普段通りに会話をしながらも、どうしたものかとほとんどが首を傾げていた。
「クリムスンは仕事でしばらく家を空けていますし、カーマインはここのところずっと稽古、そして今晩はコチニールまで……!いったい我が家族はどうなってるんですか⁈」
葡萄がマゼンタの隣で叫んだ。
「たぶん私のせいだ」
「はいっ?」
眼鏡の彼は思わず箸を止める。
少女はお膳に箸を置くと、
「コチニールに母親のことを尋ねたんだ」
葡萄が仰天のあまり言葉を失くす。まさかそんな言葉が彼女の口から出てくるとは……!
眼鏡の彼の思考は完全に停止した。
「それがよくないことだったんだと思う」
彼女の膳は半分ほど手を付けてあった。今晩の料理もとても上品で丁寧で美味しい、はずだ。
でも一緒に食べている人間が一人減るだけで、味の感覚がこんなに変わるとは。
少女は自分の右隣を見た。
そこにいつもいるはずの兄は今夜はいない。
なんとなく、家の誰も、葡萄でさえも母親の話に触れることがなかったから、聞いていいのかどうかずっと迷っていた。が、いざ聞いてみたら……
「おりましたよ、昔は」
葡萄も食べかけの膳に箸を置いた。
「昔?」
「ええ。でもコチニールとカーマインがまだ幼い時にこの家を出て行かれたのです。一般的に言う、離婚というものですね」
「離婚」
離婚とは、夫婦が結婚生活を解消すること。
マゼンタの脳内が辞書を引いた。
「理由は、まあ、なんと申しますか、クリムスンとの性格の不一致、でしょうか」
「はあ」
よくわからない。性格の不一致?
「とにかく、幼いコチニールやカーマインにとっては良いことではなかったのです。特にコチニールは物心がついておりましたし、ある日突然母親がいなくなってしまったのですから、そのショックは大変大きなものだったでしょうね」
少女にはクリムスンとその妻が別れた理由がよく理解できなかった。性格の不一致。それは性格が合わなかったということだろう?だったらそもそもなぜ結婚したんだ。
彼女には大人の事情というものがまだわからなかった。それ以前に大人に事情があることさえ知らないだろう。
それでも、兄が物凄く傷ついたことだけは察した。その証拠に彼女は目を見開いたまま身動きが出来なくなっていた。
夜の帳が下りた庭は外見とは裏腹にまだ温かみを残している。虫たちも活発に動き回って、植物たちも眠りにつく時間帯とは言えその息を止めることはない。
コチニールは室内の明かりを背に縁側に座っていた。その目は庭を眺めてはいるもののはっきり物を映しているかは微妙なところだ。
マゼンタにあんなことを聞かれるなんて……
少年の心臓辺りがずきりと鳴った。
確かに彼女の立場に立ってみれば疑問が湧くのは当然だろう。
男しかいない家、父親はいるのに母親はいない。気になって仕方なかったはずだ。
それでも、それでもだよ。
なんでそれを聞く相手が自分だったんだ……せめて葡萄に聞いてくれてたら……
そう思ってまた自分自身を嫌悪する。
誰かにそれを押しつける自分も、そんなことを思う自分も、未だ母のことを乗り越えられない自分も。
ああもう……!
「コチニール」
彼は顔を上げた。
マゼンタが自分から少し離れた縁側の端に立っていた。
「今日は、悪かった」
コチニールは妹を静かに見つめる。
彼女はいつも通りの表情だったが、決して心にもないことを言っているわけではない。
それは彼女と過ごし始めてだいぶわかっていた。
気持ちが表情には出ない。でも心はちゃんとある。
それが兄の妹に対する見解だった。
「おまえたちの母親のこと、葡萄から聞いた」
少女は兄を真摯に見つめる。
彼は一見穏やかで普段と変わらない様子に見えた。けれども何か、何かが彼の周囲を覆っている。
でもそれが何なのか、今の彼女にはまだ理解出来なかった。
なぜコチニールがそんなにショックを受けて傷ついたのか、わからない。けど、そんな風な兄を見ていたくなかったから、
「ごめん」
少女は頭を下げる。
誠心誠意謝るとは、こういうことだろう。
彼女はただ勉学や音楽だけに時間を費やしていたわけではない。
周囲の人々の言葉、やり取り、動作、全てからありとあらゆるものを吸収していた。
その中には勿論謝罪の場面もあった。
だからその方法を知った彼女は、今出来ることを尽くしたのだ。
「……マゼンタ」
呼ばれて頭を上げる。
兄が寂しげに自分を見上げていた。
「僕と剣術稽古をしてほしいんだ」
「……え?」
夜の庭園に木刀がぶつかり合う音が響いている。
この時間帯なら男たちが代わる代わる風呂に入り寝る準備を始め、稽古に励むカーマインでさえ今日は終いだと道場から切り上げるくらいだろう。
それでも庭から聞こえる木刀の音は鳴り止まない。むしろ一層激しさを増しているようだ。
マゼンタは相変わらず理解不能だった。
なぜ兄が急に剣術稽古をしようと言い出したのか、しかもなぜこの時間に?
けれども拒む理由はない。
兄が稽古をしたいというのならいつだって相手になろう。それはカーマインに対する気持ちと同じだった。
コチニールは先程から木刀を掲げて何度も彼女に向かっていた。
「やああああっ!」
兄の木刀が妹に振り下ろされる。
彼女はそれを片手で持った木刀で受け止める。
相手の木刀が次々に繰り出される。
父クリムスンほどのスピードではないが、充分に速いし威力もあった。
だが少女はそれら全てを軽々と防いだ。
「くっ……!」
兄が少女の脇を狙って木刀を振るう。
妹はそれを受け止め、逆に突き放す。
「わっ……!」
コチニールが背中からズズズと地面を引きずるように倒れた。
「大丈夫か?」
彼女が思わず声を掛ける。
「まだまだ……!」
聞こえているのかいないのか彼は即座に立ち上がると、また木刀を掲げた。
「やああっ!」
兄の木刀と妹の木刀が再度重なる。
彼は何度も彼女に木刀を振るう。
そして彼女は全てを受け止める。
その光景がずっと続いた。
(やっぱり強い……!僕なんかが勝てる相手じゃない……!でも、それでも……!)
コチニールは木刀を掲げた。
虫の微かな寝息と共に木と木が重なる音が庭中に響き続けた。
夜も更けた。
今頃カーマインも男衆も夢の中に浸り、深夜遅くまで何かを読みふけっている葡萄でさえも眠りにつく頃だろう。
異国の地で任務に当たっている父だけはまだ起きて、敵と戦っているだろうか。
コチニールは縁側にぐったりと仰向けになりながら、遠くの家族にまで思いを馳せた。
(一本も、取れなかった……やっぱりマゼンタ、すごく強いんだな……)
彼は隣に座る彼女に顔を向ける。
妹はその視線に気づいて彼と目を合わせた。
「なぜ急に剣術稽古を?」
少女はやはり素直に疑問をぶつけてくる。
「それは……」
兄はゆっくり上体を起こした。
「マゼンタと稽古したら、強くなれそうだし」
本音は、違うところにあった。
でもそれを素直に言うのは恥ずかしくて、自分が余計に小さく見えて、言えなかった。
その弱さを振り払う為の稽古でもあったのに……けど、妹に知られるのは嫌だった。
「強くなりたいのか?」
彼女が尋ねてくる、純粋に、一途に。
「え、あ、まあ、一応クリムスン家の一員だし、長男だし」
コチニールは上辺の答えを口にした。
「ふうん。ならいつでも稽古につきあうぞ」
「う、うん。その時はよろしく頼むよ」
兄は困ったように微笑んだが、妹に愛想笑いは通じない。
「ああ」
彼女は力強く答えた。




