第18話 弓と負けず嫌い
矢は的の中心へと突き刺さった。
まるで引き込まれるように、勢いよく。
その場にいた全員が口を半開きにする。勿論射た本人以外が。
(当たった)
少女の感想はそれだけだった。
弓を射た、矢が的に当たった、彼女にとってはただそれだけだ。
「なんで?」
コチニールが呆然と呟く。
「すご……」
ボルドーも瞬きを忘れている。
その時だ。
真っ赤な何かが彼女の視界の端で翻るのを捉えたのは。
少女はその何かを振り返る。
それは顔を伏せるように一目散に走っていく。
この場にいたくない、今見たものを全部なかったことにしたい、そんな雰囲気を醸し出しながら。
(カーマイン?)
マゼンタは小さな兄の背中がさらに小さくなっていくのを見送った。
「もう、弓まで出来るなんてマゼンタすごいよっ!」
その夜の大座敷、コチニールは隣に並んで共に食事する妹に今日何度目かわからない言葉を掛けた。
「あ、ああ」
「初めて射た矢が的の中心に真っ直ぐ当たるなんて、もう本当すごすぎるっ!」
初めて……
少女の脳内は木刀でクリムスンを斬ろうとした時のことや、カーマインを背負い投げた時のこと、さっき弓を射た時のことを思い出させる。
本当に、初めてなのだろうか……剣術も、体術も、弓術も……
「まったく、マゼンタに弓をさせるなんてどうかしてますよ」
「なんで?」
兄コチニールは妹の隣に座って箸を振り上げる葡萄を、怪訝な顔で覗き込む。
「だから何度も言っているように、この子は女の子です……!弓を持つならセキエの弓で充分でしょう?」
「でもマゼンタは両方出来るよ」
「両方出来ればいいって問題でもないんですよ」
「そうかなぁ」
「そうですっ」
これでまたクリムスンに弓のことを報告せねばならなくなったじゃありませんか……!
眼鏡の彼は内心苛立っていた。
コチニールから報告を受けた時はびっくり仰天だったが、時間が経って湧き立ってきたものは〝またか〟だった。
葡萄は少女に対してとにかく大人しく、女性らしく、ただ勉強して、セキエを弾いていてくれればそれだけでよかったのである。
それ以上は何もしなくていい、危険なことも男勝りなことも一切不要だ。
なのにまた余計なことを……‼
彼が冷静を絵に描いたような存在でなければ今頃ちゃぶ台をひっくり返しているところだろう。
「そういえば」
マゼンタはコチニールの隣の空席に目をやった。
「なあに?」
最近はもうコチニールや葡萄と食事を共にすることはあっても、カーマインとはほとんど大座敷で顔を合わせることはない。
時間が合わないのか、彼はいつも稽古に励んでいると話には聞いている。
それでも少女はもう一人の兄が座るはずの席を見ずにはいられなかった。
「なぜカーマインはあの時逃げていったんだ?」
「ああ、弓道場で?」
「そう」
コチニールは話そうか話すまいかほんの少し悩むような仕草をすると、
「カーマインはね、マゼンタに負けたくないんだよ」
「体術みたいに?」
「うん」
「弓術も?」
「うん」
そこへ葡萄も会話に加わるように、
「カーマインは昔から負けず嫌いですからね」
「マゼンタが女の子で〝妹〟だから尚更だよね」
少女は久しぶりに口をポカンと開けた。
(女の子?妹?ん?)
マゼンタは決してまどろんでいたわけではない。
睡眠が足りないわけでも、昼ご飯をたらふく食べて血液が脳に回らなかったわけでもない。
ただ自分の席に座って何となく、本当に何の気なしにその言葉が勝手に口からこぼれ出てしまったのだ。
「なぜカーマインは私に負けたくないんだろう」
隣に座っていた緋色は、はっとして彼女のほうを振り向く。
関わってはいけない、もう二度と接してはいけないと言われた。ライバルだから、家同士親同士の仲が悪いから。
でも、なんでかわからない。自分でもどうしてかわからないけど気になるそいつが、今、疑問を宙に投げかけている。
これはどうしたものか……!
「なんでだろう」
少女はまたぼんやりと呟く。
少年はあまり深く考える性格ではなかった。
父に言われたことは充分にわかる。でもそれよりも自分の思いに忠実だった。
だから彼の出す答えは早かった。
「そりゃあ、女には負けたくないだろ」
マゼンタは我に返ったように隣の席に顔を向けた。
緋色が黄みがかった赤い瞳で自分をじっと見ている。
周囲では子供たちが賑やかに騒いでいたが、二人の間だけはしんと静まり返るようだった。
(私、今、口に出して……)
彼女は思わず口に手を当てた。
なんて失態を、関わるなと言われた本人の前で疑問を呈してしまうとは。
「カーマインがおまえの何に負けたくないのかは知らねえけど」
赤紫色の少女はまた緋色に目をやった。彼はただ純粋に彼女を見上げている。
「……カーマインを、知っているのか?」
「そりゃクリムスン家の次男坊だからな」
緋色は私よりもカーマインのことを知っている……
確かに自分がクリムスン家にやって来たのはほんの少し前。でも守人一族である彼が自分より兄たちのことを知っていてもおかしくない。
彼女の中にとある思いが浮かび上がった。
だがそれとほぼ同時に、
「もう二度と茜色家の人間と関わるな」
「これ以上本当に彼に関わっちゃダメだよ。約束して」
クリムスンやコチニールの言葉が思い返され、マゼンタは溜息に飲み込まれそうになった。
けれどこのままカーマインのことがわからないままで本当にいいのだろうか。
緋色なら何か答えを知っているかもしれない。それを尋ねることは本当にいけないことなのだろうか。
クリムスン家と茜色家がライバルだということは理解した。
でも実際少年の家に行っても何もなく、危険な目に遭ったわけでもない。
料理は異常に辛かったけど……
マゼンタは視線を上げる。
緋色が彼女を真っ直ぐ見つめて次の言葉を待っていた。
少女は意を決したように呼吸を整える。
「私が、弓を射って的に当たったら、カーマインが怒ってしまったんだ」
「ほお」
少年はいつになくまともに話を聞いている。
「そうしたらコチニールと葡萄が、カーマインは負けず嫌いで、私が女で妹だからなおさら負けたくなかったのだと言って」
「妹?」
「ああ」
「姉じゃなくて?」
「我が家では妹ということになっている」
「どう見ても妹には見えねーけど」
緋色が若干唇を尖らせる。
「とにかく、そのカーマインの気持ちがよく理解できなくて、モヤモヤしているんだ」
彼女は真っ赤な兄のことばかり考えていた。だから自身が緋色からセキエの下手さを示唆された時に生まれた感情をすっかり忘れ去ってしまったのだ。
むしろその際の気持ちとカーマインの気持ちが同じものだと理解していないのかもしれない。
「もしかしてさ、カーマインは矢をハズした?」
何かを思いついたように少年が尋ねる。
「あー……恐らく」
マゼンタが記憶を遡るように答えると、彼はすぐにピンときた。
「なんだ、わかった、あれだよ。カーマインは矢を的に当てることが出来なかったのに、おまえが簡単に出来ちゃったから、悔しかったんだよ」
緋色はそう言って一瞬動きを止める。
「ん、今なんかオレ、おまえが簡単に出来ちゃったからって……え?おまえ弓上手いの?」
「悔しい?」
少年の問いに答える暇がないほど彼女の中に一つの言葉が反芻していた。
悔しいって、なんだ?
彼女は学んだ単語とそれに紐づく感情を脳内で探し始める。
悔しい、悔しい?悔しいとは?悔しいとはなんだ?
「ちょ、マゼンタ」
名を呼ばれて彼女は彼に目を移す。
「おまえ本当に弓上手いの?」
「そうらしい。あと剣術と体術も一応出来る」
少女の返答に緋色はぎょっとした。
弓と剣術と体術も、だと……?
「でも私だけじゃないぞ。クリムスン家は守人だから、皆練習してるんだ」
「いやいやいやいや、おまえが出来るなんて、そんなの絶対ウソだ……!」
「ウソじゃない」
「だって、そんなに細いし、体力なさそうだし、だいたい記憶喪失のヤツが出来るわけないだろっ!」
「自分でもなんでかわからないけど、出来るものは出来るんだ」
その理由を知りたいのは、誰よりもこの私だ……
マゼンタは苛立ちを込めた鼻息を軽く吐いた。それは勿論何も思い出せない自分自身に対してであった。
すると少年が思い切り立ち上がり、彼が座っていた椅子はあまりの勢いに悲鳴を上げる。
「ならオレと勝負しろ!」
赤い瞳を燃やして自分を見下ろす彼に彼女は呆れた。そのセリフをつい最近も聞かされたばかりだったから。
「だから私はおまえと関わるわけには……」
「んんなのカンケーねーよっ!そこまで言うからにはオレと真剣勝負だっ!」
少女は緋色をじっと見上げる。
彼は鼻息を荒くして絶対に望みを聞き届けるまで一切動かない姿勢を貫いている。その姿はどこかの誰かに上手い具合に重なってしまった。
「わかったよ」
彼女は既視感を覚えながら重い腰を上げた。
彼はいつも通りに教室へと向かっていた。初めは慣れなかったが今ではもう足元で響く廊下の雑音にもすっかり馴染んで、これから改修工事を徹底的にしようなどとは思わなくなったほどだ。あれだけ騒がしい子供たちの奇声にも慣れ、すっかり塾講師としての職務が板についたと自分で自分を褒めてさえいる。だから今日も教員室から教室までの廊下を歩き、扉を開け、室内の子供たちに挨拶をして、授業を進める。そのつもりだった。けれどもこの日は様子が違っていた。なぜか皆窓際に集まって外の広場に注目していたのだ。広場には特に何もない。草は刈ってあるが遊具も何もなく、別段子供たちが夢中になるものなど何もないはずだ。なのに何をそんなに一生懸命見張っているのか。変わった動物でも遊びに来たのだろうか?彼はそんな風に軽く考えた。
「みんな何してるんですか?授業を……」
子供たちの背後に立った彼は視線の先を見て息を呑んだ。
何もないはずの広場で赤紫色の少女と黄みがかった赤色の少年が向かい合っていた。
「マジでケガしても知んねえからな。オレはまだ十歳だけど、そこいらの大人より力はあるし体術の技だってカンペキに覚えてる。子供だからって甘く見てると痛い目にあうからなっ」
緋色が宣戦布告する。
だが相手は無表情ながらもしっかり呆れています、という態度を滲ませながら、
「ああわかった、だからさっさと来い」
棒立ちのまま答えた。
「おまえマジだからな!オレはおまえが女だろうと手加減なんかしてやんねーぞ!」
「はいはい」
そのセリフもどっかで聞いた……
マゼンタは同じような展開に溜息をつく。
カーマインの気持ちを理解したくて緋色に尋ねたのに、どうしてこんなことになるんだ。
「じゃあ行くぞっ!」
少年が彼女に向かって走り出す。
その光景に教室の窓際に立っていた講師が目を見開いた。
緋色があっという間に彼女の側に辿り着き、その襟元を掴もうとする。
簡単に手を伸ばせる、簡単に掴める、そう思った。
しかしなぜか相手が先に自分の腕を右手で掴んでいた。
軽く、目にも止まらぬ速さで。
「⁈」
いつの間にか、地面を擦る音と共に少年は倒れていた。
彼は呆けた顔で相手を見上げる。
マゼンタが自分を見下ろしていた。
「え、今、何した?」
その時、子供たちのはしゃぐ声がやっと耳に入る。
教室の窓から覗いていた彼らは自分たちより〝大人〟な二人が喧嘩をしていると思い盛大に喜んでいた。
ところが彼らの声に交じって、
「こらっ!君たちいったい何してるの⁈」
本当の〝大人〟が怒りをあらわにしている。
少女はその講師に気づくと、
「アガットが来たからさっさと戻るぞ」
緋色を置いて教室のほうへ先に歩いた。
その場に取り残された少年は上体を起こし、
「あいつ、ヤバい……」
彼女の後姿を呆然と見送った。
「君たちはここがどこだかわかっているんですか?ここは塾であって道場じゃないんです、学問を学ぶ場所なんですよ。そんなに稽古がしたいなら家でやってください、家で」
授業終わりの教員室。自席に座ったアガットの側で、マゼンタと緋色が一応項垂れるように立っている。
その光景をアガットの迎え側の席に掛けた臙脂が普段と変わりない表情で眺めていた。
アガットは基本的に優しく温厚で、授業もセキエに関しても親切丁寧を信条に教えている。だからこんな風に生徒を呼び出して叱るなど珍しい。
これもものを教える人間の務めか、それとも生徒たちの身を心配してのことか、はたまた単純に自分の監督下で問題を起こされたくないだけか……
「なら音楽の練習はいいのか?」
「は?」
緋色の疑問に対し、アガットの血管が切れた。
それでも少年は隣に立つマゼンタを見上げ、
「こいつが毎回ここでやってんじゃん、セキエの練習」
「それはまた別の話ですよ」
「別って」
緋色は食ってかかるが相手も負けてはいない。
「音楽だって立派な学問の一つです」
「それを言うなら体術だって……」
「なんですか?」
「いや……」
さすがの少年も目の前の講師が笑顔を見せつつブチ切れていることに気づいたようだ。
「とにかく、もう今後一切塾の敷地内で今日のようなことはしないように、いいですね?」
「はーい」
適当に流すように緋色が返事をする。
ただし、彼らのやり取りの間も赤紫色の少女は何とも言えない顔で突っ立っていた。
(父上と約束したのに、緋色と関わってしまった……これは、いったいどうすれば……)
彼女は思いがけない誘いに乗ってしまった自分を後悔していた。
夕日が少年の背中を照らしている。
辺りには民家が建ち並び、帰宅する人々を次々と掬っては柔らかな明かりを室内に灯し始めていた。
でも少年は視線を下げ、砂利で埋め尽くされた歩道を一人トボトボと歩いている。
(オレは強い、家のみんなだってそう言ってる)
寂しげな背中の彼は足元の小さな小石たちを敵視しながら思った。
(小っちゃい時から稽古して、大の大人を投げ飛ばすのなんて今のオレには簡単なことだし、体術の技も全部カンペキに覚えてるし。なのにアイツ……!)
少年の脳に数時間前の記憶が蘇る。
一瞬だった。腕をつかまれて、気づいたら見下ろされてて……なんで、なんで……⁈
彼は不意に立ち止まると、赤く染まった空を見上げた。その途端、
「うああああああああっ‼」
叫び声に道行く人たちが驚き肩をすくませる。
「今ならカーマインの気持ちがよくわかるわっ!悔しくて悔しくてたまらねえええええっ!」
少年は周囲の反応に気づくこともなく空から顔を下ろすと、真っ直ぐに前を見据えた。
「とにかくこうなりゃ特訓だ!今のオレにはそれしかねえっ!」
そうして黄みがかった鮮やかな赤色の彼は一目散に走り出した。
全てを振り切り、目的地へ向かってただ無心に走る。
走って走って走って、今日の嫌な出来事を振り払うように走って、それでもやっぱりそれはべったりこびりつくように付いて回って、そうこうしているうちによく見慣れた白壁沿いの道を通り、木枠の門を越え敷地内に入った丁度その時、馴染みのある男が屋敷の縁側をゆったりと歩いているのが目に入った。
「猩々緋!」
齢五十半ば、だが筋骨逞しい槍の使い手が名を呼ばれ振り返る。
「おかえりなさい緋色様」
「ただいま!父上はいるかっ⁈」
少年は父茜色の右腕でもある彼に近づきながら尋ねる。
「茜色様は出かけておいでですが」
「マジでっ⁈」
「さようで」
タイミング悪っ!
しかし少年の切り替えは異常に早かった。
「じゃあ猩々緋でいいや。オレに体術の稽古をつけてよ!」
それを聞いた瞬間、彼の額に汗が浮かぶ。
「ワ、ワシは今忙しいので……」
「ええーっ⁈たまにはいいじゃん!なんかもうずっと猩々緋に見てもらってない気がする!」
「それは……」
緋色様との稽古は老体に響きますからな……
猩々緋は自分でとてもよく自覚していた。だからこそたとえこの家の跡取り息子の願いと言えど、何とかしてそれだけはしばらく阻止していたのである。
しどろもどろになった彼はふと庭先に目を留める。
芸術的センスで植樹され、石や池が配された庭には数本の図太い木があった。が、その中の一つの枝に、明らかに木の一部とは言えないものが寝そべっている。
どこからどう見てもサボっているそいつは小柄だからなのか、それともバランスを取るのが上手いからなのか、いつもああして木の上で昼寝をしていた。
猩々緋はポンと両手を叩くと、
「ならばあのカッパーを相手にされてはいかがで……」
「カッパー!」
彼が言い終わるか否か、少年は猛スピードで走り去っていく。
「ああ、なんとか免れた」
猩々緋は安堵のあまり顔が緩んだ。
「カッパー!」
緋色が庭に生えた大木の根元にさっと辿り着き、新たな相手を見上げる。
カッパー。年は確か三十代後半位。背は少し低め、だが衣の下の鍛え方が常人離れしていることを少年もよく知っていた。色は緋色と似たような黄みがかった赤色をしていたが、少年よりもほんのり深みがあり、その髪は顎辺りまで伸びてそれこそ寝癖まみれ、服装もいつも動きやすい道着を着用している。
「カッパー!」
再三呼ばれ続けた彼はいかにも面倒くさそうに薄目を開けた。
「ねえっ、オレと体術稽古して!」
彼は薄目のまま頭を僅かに傾けると、
「悪いが今忙しい」
「とても忙しいようには見えないっ!」
「そうは見えなくても忙しい」
「ウソつけっ!」
「噓ではない」
「ねえ体術稽古してよっ!」
「だから忙しい」
「忙しくないだろっ!」
「忙しいんだ」
「ねえってばっ!」
「他の誰かに頼め」
「猩々緋がカッパーとやれって言った!」
少年の投げ掛けに木の上の男は重々しく瞳を閉じた。
そしてあからさまに溜息をつくと、
「やれやれ」
全身から気怠さをこれでもかと表現しつつ、上体を起こした。




