第16話 ライバル
「え……?」
彼女は言葉を失った。
別の、塾……?
「セキエについてはアガット先生にお返しして、別のツキソメという楽器を習うのはどうでしょう」
「は?」
葡萄がわけのわからない言葉を放ってくる。
セキエを返す?ツキソメを習う⁇
「ツキソメはセキエに形がよく似ているのです。紅国ではとてもメジャーな楽器ですし、教えている方もたくさんいらっしゃって……」
マゼンタは思わず畳に右手をついた。
「ちょっと待て。何をそんなに先走っているのかはよくわからないが、要は私が緋色に近づかなければいいのだろう?」
「そういうことではない」
クリムスンが声低く反論した。
しかし彼の隣に座った葡萄は顔を歪めると、
(いえ、しっかり的を得ていると思います)
心の中で断言した。
少女は目の前に立ち塞がる二人を見上げ続ける。
「今の塾は家からも、コチニールとカーマインの学校からも近いから、私は今のところがいい」
「距離の問題じゃないんですよ」
「私は、何かあればコチニールとカーマインのところにも、この家にもすぐに駆けつける。だから塾は今のところがいい」
クリムスンは娘の真剣な表情に驚いた。
葡萄も戸惑ったように、
「何かって……」
だが不意に少女の真剣な顔が解かれ、いつもの無表情に戻ったかと思うと、
(え、今私、なんて言った?〝何かあれば〟……?なぜそう言ったんだ?なぜそう思ったんだ?)
彼女は自分で宣言したにも関わらず呆然としてしまった。
頭首と眼鏡の彼が思わず顔を見合わせる。
けれどまた少女の中に謎の熱意が湧き立ってくると、
(いや、今はそれどころじゃない。なんとかこのままあの塾に通い続けさせてもらわなければ……!)
マゼンタはクリムスンをじっと見上げた。
父親でありこの家の頭首でもある彼は彼女を見返しながら、とある光景を思い出していた。
それは彼女が木刀で自分に向かってきた時のこと。
体の動かし方、木刀の扱い、力の強さ、速さ、全てにおいて完璧。
確かに、家を空けることの多い自分にとって、この子の強さは助けになるが……
時が流れた。
少女は父親を見続け、父親は何かを思案し、頭首の右腕も彼の出す答えを待っている。
「わかった」
「はいっ?」
クリムスンの発した言葉に葡萄は素っ頓狂な声を上げた。
「おまえの言う通り、塾はこのまま変えずにおこう」
「本当か⁈」マゼンタが目を見開く。
「ああ」
赤紫色の少女はほっと胸を撫で下ろした。
なぜ自分がそんなに安心したのかもわからずに。
「ちょっ、クリムスン⁈」葡萄が一人慌てている。
「ただし」
マゼンタは父の声音にはっとなる。
「約束を破った場合はただではおかないぞ」
それからほどなくして、彼女は今日も師匠からセキエを学んでいた。
彼は教員室の自席に座り目を細め口元を若干緩ませながら、すぐ側に立つ彼女の演奏をじっくりと聞いている。
彼女は弓や弦の扱いにもかなり慣れたようで一切違和感なく手指を動かし、楽器からは以前のような音は姿を消してしまった。
代わりにまるで小川のような、さらさらとした音だけが響いている。
マゼンタは楽器から出る全ての音を鳴らし終え、セキエの弦から弓を放した。
「うん、上達が早いですね」
アガットが満足したように微笑む。
「何とか音が聞けるようになってきた」
少女は言いながらセキエを見下ろした。
楽器の見た目は何も変わっていない。でも、あんなに酷い音ばかり鳴っていたのに、アガットが奏でる音色に近づいてきた気がする。
彼女の耳は自分が出す音をそう捉えた。
「ところで、これからもここに通えそうなんですか?」
「あー、一応」
もうアガットにまで話が回ってきていたのか……
「それはよかったです。せっかくセキエが上手くなってきたのに、途中でやめられてはもったいないですから」
「お騒がせして申し訳ない」
「いえ、それぞれご家庭の事情がありますものね」
運命という大きな事情がな。
マゼンタは心の中で非難した。
「それにしても、葡萄さんという方はまるであなたの母親みたいですね」
「母親?」
「ええ。あなたがセキエを続けられるように、私にお家で教えてくれないかと頼みにいらしたんですよ」
「葡萄が?」
「はい。よほど気にかけていらっしゃるのですね。勉学だけではなく音楽も学べるようにと」
少女は思いがけない彼の言葉とその内容に目を見張った。
塾の授業が始まる前、子供たちが元気にはしゃぐ中、最近妙に静かになった例の少年が相変わらず自席に座って何かを必死に考え込んでいる。
若いというのに眉間に皺、口元はひん曲がり、手元は腕組みをした彼はずっとああでもないこうでもないと考えを巡らせていた。
(父上の言うことはよくわかるよ。マゼンタはクリムスン家の養女で、オレたち茜色家とは犬とサルみたいな仲だって。でも、それでもさあっ……!)
答えの出ない宿題を永遠に解かされるように、彼は貧乏ゆすりをした。
その時だ。
教室の後ろの扉が開き、少年は自分でも無意識にそちらを振り返る。
彼の視線の先にはやはりセキエを背負った赤紫色の少女が立っていた。
(マゼンタ!)
本来ならばそう彼女の名を呼ぶはずだった。
でもそれが口から出なかったのは、例の父との約束があったからだ。
少女も事情を知ってか少年を一瞥し、そのまま自分の席へと向かう。
彼の尻は椅子の上でもぞもぞしながらも、目だけは彼女をしっかと追っていた。
マゼンタが自席に着く。
少年が彼女に視線を送る。
だが赤紫色の少女は彼を完全に無視した。
その顔は普段通りの無表情だったが、何か決意のようなものも交じり込んでいる。
それでも何かを言いたくてたまらなかった彼は、
「あ……」
と言った瞬間、教室の前の扉が開いて、
「はい、授業を始めますよー」
アガットがのんびりと入室した。
マゼンタと緋色が塾で授業を受けている間、クリムスン家の長男と次男が並んで下校していた。
長男コチニールは中学校、次男カーマインは小学校に通っているが、中学校小学校共にすぐ側に建ち並び、下校時間が重なった場合は別に示し合わせているわけでもないが、何となく同じ道を歩き、気づけば並んで家路についていた。
「茜色家に入った⁈」
カーマインが叫んだ。
「うん。あ、誰にも内緒だよ」
「どうりで葡萄がソワソワしてたわけだ」
「だってすごく心配だったんだもん」
「はーん、それで父上と二人でなんかコソコソしてたんだな」
「たぶんマゼンタが次に通う塾を調べてたんだと思う」
「あいつバカだな。茜色家の中に入るだなんて」
「しょうがないよ。まだ僕たちと茜色家の関係がよくわかってないんだから」
「え、待てよ。じゃあ今日から違うとこに通ってんの?」
次男が兄の顔を覗き込む。
「ううん、同じ塾。葡萄がそう言ってた」
「なんで?そんな茜色家の奴がいるとこなんかさっさと辞めさせればいいじゃん」
「たぶんだけど、あの楽器が関係してるんだと思う」
「へ?」
「他にいないんだって、あのセキエを教えてる人」
「だから?」
「だから今の塾の先生に教わるしかないでしょ?」
「なんだそれ」
「父上も葡萄も、マゼンタの気持ちを汲んでいるんだと思うよ。たぶんだけど」
「勉強に行ってんだか楽器習ってんだかわかんねえな」
呆れ果てた弟にコチニールがふふと笑う。
「どっちもなんじゃない?」
「アホくさ」
「それよりさ、こうやってカーマインと一緒に帰るの久しぶりだね」
「はっ⁈」途端に次男坊が立ち止まる。
兄も彼に合わせて立ち止まり、
「ん、どうしたの?」
すると途端に弟は焦り始め、
「一緒に帰るとか……!」
顔を真っ赤にして走り出した。
「え、ちょっと待ってよ!」
コチニールはカーマインの後を追いかけた。
塾の授業が終わり、子供たちが歓喜の舞で教室から出て行く。
室内に残ったマゼンタも教科書やノートを揃えて帰り支度をしていた。
ところが、その横で例の黄みがかった赤色の少年が席に座ったまま今もなおそわそわし続けていたのだ。
(あー、めっちゃムズムズする……!授業中も休み時間も一っ言も話してないし……!あー、なんなんだこれ、なんなんだこれは……!確かに父上はマゼンタと関わるなって言ったけど、その気持ちはよくわかるけど、でもっ……!)
彼の脳内は授業前と大して変わっていなかった。
赤紫色の少女が支度を終え席から立ち上がる。
「マゼンタ!」
思いもよらず大きな声が教室内に響いた。
彼女ははっとして隣の彼を見ると、なぜか呼び掛けた当の本人が一番驚いている様子だった。
それでも少年は呼吸を整えると、
「あ、あの後ちゃんと、帰れたか?」
裏返るような彼の声に、少女も身を固めた。
「き、聞いてんじゃん……な、なんか言えよ……!」
今度は彼女がそわそわする番だった。
〝もう二度と茜色家の人間と関わるな〟
クリムスンの声が脳内を駆け巡る。
父上はそう言っていた。けど……
マゼンタは隣に座る緋色を今一度見る。
少年はやっぱりそわそわしたまま彼女を見上げていた。
と、ここで赤紫色の少女に突然、天啓が降りる。
彼女はガサゴソとノートの紙切れを手持ちの鞄から取り出すと机の上にパシリと置き、不意にペンで何かを書き始めた。
(ん、なにやってんだ?)
緋色が目を点にして彼女の手元を追う。
一思いに何かを書き上げた少女はその紙を彼の眼前に掲げた。
が、少年はなぜか絶句している。
そして呆れたように、
「あの、読めないんだけど……」
紙に書かれた彼女の文字はとにかく滅茶苦茶だった。
これは達筆なのか、それとも単に汚いだけなのか、緋色には判断がつかない。
彼の言葉にマゼンタは一瞬愕然とした。
読めない?緋色にはこの文字さえ読めないのか⁈
学校に通って塾にも通って私より長く勉学に時間を費やしているというのにっ⁈
彼女は自分の文字が汚いとは夢にも思っていなかったのだ。
しかし天啓は少女を見捨ててはいなかった。
彼女の元にまた新たな閃きを降ろしたかと思うと、少女は持っていた紙とペンを手放し突然両腕を大きくばたつかせ始める。前に、後ろに、自分の周囲を囲むように。
マゼンタにとってそれは〝車〟を表現したものだった。
先程緋色が「ちゃんと、帰れたか?」と問うた。
だから〝車で帰った〟と言いたかった。
言いたかった、のだが、茜色家の人間と関わることを禁じられている。
だから致し方なく身振り手振りだけで何とか伝えようとしたのだが……
「おまえ、なに踊ってんの……?」
少年の反応に彼女はまた愕然としてしまった。
踊っているわけがないだろう……!これのどこが踊りに見えるんだ⁈
事情を知らない人間が見たら確かに踊っているかバタついてるかぐらいにしか見えないだろうが、少女は懸命に伝えようとしていた。
けれど心のどこかで自分がやっていることがアホくさいと思っていたのも否めない。
マゼンタは諦めたように溜息をつくと、
「父上に言われたんだ、茜色家の人間と関わるなって」
「あー、やっぱりそっちもか」
緋色はやっと納得した顔をする。
「だからおまえにはもう近づかない。話もしない」
「オレも父上から言われた。クリムスン家の人間と関わるなって」
「そうか、なら……」
「でもさっ、父上とクリムスンがライバルなのはよーくわかってるけど、なんでオレたちまで話したり近づいたりしちゃいけないんだよっ」
「それは……」
思えばどうしてなのだろう。確かに緋色の言う通りだ。親同士、家同士がライバルなのはわかった。でもなぜ私たちまで接してはいけないのだろうか。そもそもなぜ父上と茜色はライバルなんだ?
彼女の中に疑問の渦が次々と巻き上がる。
ところが、
「いやさ、親同士の仲が悪いのにその子供が仲良くしてたらなんか、都合がよくないんだろうなってのはわかるんだけどさ……!」
少年の言葉にマゼンタは呆れた。
(一応わかってるじゃないか)と。
緋色は腕組をして、
「けど同じ塾のとなりの席に座って、同じ授業を受けて、同じ休み時間を過ごして、なのに絶対関わるなって言われたって、そんなの出来るわけないじゃん!」
素直な気持ちをぶちまけた。
「ただいま」
塾が終わって帰路につき、屋敷の玄関を跨いでいつもの挨拶をしたその瞬間、
「おかえりなさい、塾はどうでしたか?」
上がり框で仁王立ちをしている葡萄が物凄い圧を加えるように少女に尋ねた。
「た、楽しかった」
マゼンタは顔を薄っすら引きつらせながら答えた。
彼は眼鏡の奥で目を光らせつつ、
「そうですか。緋色とはちゃんと距離を保っていますか?」
「ああ……」
ほんの少し話してしまったが……
彼女の中で授業後の少年とのやり取りが思い返される。
しかし少女にとって目下の課題は茜色家の人間と関わったことではなかった。
「葡萄」
「はい」
「基本的なことを聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
「なぜ父上と茜色は仲が悪いんだ?」
眼鏡の彼は虚を突かれたように目を見開いた。
「それは……」そしてさらに口ごもる。
赤紫色の少女は不思議に思っていた。
家の者全員から尊敬され信頼される父クリムスンが、茜色とだけ仲が悪いのはなぜだろう。
ライバルだから。
そう言われてしまえば、ああそうかと納得することも出来るが、どうしてそうなったのかが疑問だったのだ。
マゼンタは目の前に立つ父の右腕を担う男を再度見上げる。
彼は思い詰めたように瞼を伏せていた。
「葡萄?」
「……根深い因縁があるのです」
「因縁?」
「ええ。ずっと昔から、私たちが生まれるずっと以前から」
「それはどういう……」
彼女は先を尋ねたかった。
けれども出来なかった。
なぜなら眼鏡の彼が突然両手をパンパンと打ち鳴らしたのである。
「そうそう思い出しました、あなたに急ぎのお使いをお願いしたかったんです。大根と里芋と山芋とゴボウと蓮根とカブを八百屋さんで買ってきて頂けますか?」
彼は超特急で言い放った。
少女は今の言葉を暗記しながらも、
「野菜なら庭にたくさん生えているが」
と、背後の畑を振り返る。
「今日は八百屋さんのお野菜が欲しいんですよ」
葡萄はそう言って一枚の細長い紙を差し出した。
それは手の平から少しはみ出す大きさで、赤星語の文字と山岳のような絵柄が記載してある。
「なんだこれは?」
「これはお金です。これをお店の人に渡して、今言ったお野菜を買って来てください」
マゼンタは単語を思い返す。
「……わかった」
お使い、大根、里芋、山芋……
眼鏡の彼はそんな彼女を意味深な目で眺めていた。
日が沈みかけている。
そのおかげで鮮やかな赤紫色の髪も空からの光を浴び、いつもより暗く黄み寄りに見えていた。
少女は背中に背負ったお馴染みの楽器や塾に通う為の四角い手持ち鞄を置いて、すっかり身軽な格好のままクリムスン家の門を出て行こうとしていた。
が、丁度良いタイミングで門の向こう側から長身の男二人がやって来る。
彼らは彼女を目に留めると、
「今からお出かけ?」
ワインが声を掛けた。
「葡萄に使いを頼まれた」
「そう、気をつけて」
赤紫色の少女は二人とすれ違うように門を越え、反対に男二人組は敷地の中へと歩みを進める。
そこへ木刀を持った道着姿のコチニールがワインたちのほうへやって来た。
「あ、二人ともここにいた」
「コチニール、稽古?」ボルドーが尋ねる。
「うん。また相手になってほし……」
その時、コチニールの視界に異様なものが入り込んだ。
ワインとボルドーの背後、夕暮れの庭園に紛れて例の彼が足音もさせずに門を出て行こうとしていたのだ。
コチニールは思わず呟く。
「葡萄?」




