第15話 運命
茜色の顔つきがさっと変わった。
それまでの穏やかで優しい表情は今はもう影も形もない。
ただ彼が息子や赤紫色の少女に背中を向けていた為、二人にはそれを見られることはなかったことだけが幸いだった。
(マゼンターっ⁈自分から身分明かしちゃうのかーっ⁈)
緋色は少女の隣で仰天していた。
このままバレなければ穏便に事が進められたのにいっ‼
少年は嘆いた。
彼女は茜色をじっと見上げたまま彼の反応を待っている。
さて、どう出る?茜色家頭首。
「クリムスン家の、養女……」
茜色は息子たちに背を向けたまま呟いた。
「ああ」
マゼンタが静かに答える。
(まさか、緋色が報告してくれたのは、この子?)
茜色の脳裏に息子と画面上で会話した際の台詞が蘇った。
背中を向けたままの父に緋色は慌てて、
「あっ、いやっ、これはね、なんというか、たまたま、一緒に、宿題を……!」
もう既に分かり切っていることだが何か言わずにはいられない。
どうか、どうかこの場を穏便に……!
すると茜色が振り返り二人を見下ろす。
「いや、全く構わないよ」
彼の顔は元通りの穏やかな表情へと戻っていた。
少し前まで赤い夕焼けが広がっていた空はすっかり移ろい、辺りは夜の気配を感じさせている。
未舗装の道路の両側には平屋建ての民家が続き、所々明かりが洩れ夕餉の香りがどこからともなく漂っていた。
外で働いている者からすると今頃はちょうど帰宅時間だろうが、なぜか人通りはほぼない。
その代わり、道路の真ん中を一台の黒い車がどっしりと占領している。
エンジンの音もせず、この場所から動く気は毛頭ないといった風貌で、もし前方や後方から他の車が来たらちゃんと避ける気はあるのか?と疑いたくなるほどしんとしていた。
そこへ薄闇の中から二人の男が車のほうへ我先にと駆けてくる。
最初に辿り着いた眼鏡の青年は後部座席の窓を覗き込むと、
「あそこにいる方が、一緒にいるマゼンタと緋色を見たそうです……!」
彼は遠くの道沿いで杖に上半身を預けた老人に視線を向けた。
「それで」
車の後部座席に座っていた男が低い声で先を促す。
眼鏡の青年の次に辿り着いた少年が息を吞みながら、
「二人は茜色家のほうに向かったって……!」
父親にそう報告した。
座席の男は自分の隣に横たわっていた鞘を持つ手に力を込めた。
畳部屋はこじんまりとしていた。
いや、少なくともマゼンタがいつも食事を取っているクリムスン家の大座敷に比べたら、断然狭いという意味でだ。
この場には大勢の男たちはいなかったし、勿論どこまでも続くお膳の列もない。
ただ部屋の中央に四角い机が置かれ、その四方にふっくらとした座布団が一つずつ置かれ、この家の頭首茜色と赤紫色の少女が向かい合うように、そしてその間で視線を右往左往させている緋色が居心地悪そうに座っていた。
三人共足は崩していたし、茜色は相変わらず微笑んでいたし、少女もいつも通りの無表情だったが、何やらピリピリとした空気感が場を支配している。
でもその空気はやがてすんなりと破られた。
縁側に続く廊下から数人の女たちが静々とやって来たかと思うと、何も言わず両手に抱えた大皿を次々と机の上に並べていったのだ。
マゼンタはまず家の中にこんなに女たちがいることに驚いたし、皿の大きさやその中身にも驚いた。
なぜならクリムスン家に女は自分の他にはいないし、クリムスン家の料理は全て小さな皿に繊細に盛りつけられており、こんなに大きな物を見たことがなかった。しかも、今目の前にある皿の中身はどれも異様に真っ赤だったのだ。
(赤い……)
少女は湯気の立ついったい何なのか判断しかねる料理たちを見下ろした。
「わー、ウマそう!」
机に並べられた大皿たちに緋色は居心地の悪さをさっさと払拭していた。
「さあ、たんとお食べ」彼の父親も笑顔で勧める。
「いただきまーす!」
と、緋色は大皿に箸を突っ込むと、自分のすぐ目の前にあった小皿にどんどん取り分けていく。
その手つきは慣れたもので、彼の小皿はあっという間にこんもりとした山となった。
赤紫色の少女は彼の様子を観察しながら、クリムスン家とは明らかに異なる茜色家での作法を目に焼き付ける。
少年は取り分けた赤い物体を既にガツガツと口に運んでいた。
「んーっ!最高!」
緋色が口の周りを真っ赤にしながら叫ぶ。
(本当か……?)
マゼンタは無表情ながらも少年を呆然と眺めた。
「マゼンタ」
突然名を呼ばれ、少女ははっとする。
「君も好きなだけ食べるといいよ」
真正面で茜色が微笑みかけていた。
マゼンタは今一度目の前の赤い料理に視線を落とす。
それらはどろどろとしながら湯気を放ち、相変わらず何なのか全くわからない。
米?肉?魚?野菜?豆?果物?これらはいったい何なんだ?
しかし彼女には興味があった。
クリムスン家の料理とは全然違う、それに緋色は一応美味しいと言っている……
だから、少しだけ、ほんの少し、ちょびっとだけ、大皿に箸を入れると、その先に物体を乗せ、自分の小皿にぽとりと取り分けた。
物体は白い小皿の上でホクホクと湯気を湧き立たせている。
(なぜこれは、赤いんだ……)
マゼンタは取り分けた物体を恐る恐る箸で掴む。
(クリムスン家の料理でこんなものは見たことがないぞ……)
少女は掴んだものをゆっくり口に入れた。
だがそれが舌に触れた瞬間!!
物凄い衝撃が彼女の全身を駆け巡る。
それは今までに感じたことがない、痺れるようなまるで痛みを伴うような感覚だった。
マゼンタは思わず畳に手をついて俯く。
(か、辛い……!なんだこの、辛さは……!)
彼女は虚ろな目で茜色と緋色を見上げる。
ところが当の二人は美味しそうに料理を頬張っていたのだ。
(ええーっ……⁈)
茜色も緋色も自分の皿に取り分けた料理を次々と口に運んでいる。
緋色に関してはもうがっついていると言ったほうがよいだろう。
「ウマーっ!」
「やはり我が家の料理が一番だな。各地を転々としているとどうしても恋しくなってしまうよ」
いやいやいやいや、どうしてそんな平気な顔をして食べれる⁈辛くないのか⁈
まさか私の目の前にある料理だけが辛い?
でも先程から緋色は今彼女が取り分けた大皿の料理もガツガツと余裕で食べていた。
少女は机に置かれた大皿たちを隈なく見回す。
どの料理も真っ赤でもくもくと湯気を上げ続け、未だに何の料理なのか不明だ。
しかも彼女が口にしたものはあまりに辛すぎて、いったい何を食べたのかさえわからない。
赤紫色の少女は何とも言えない表情で、真っ赤な料理を頬張る親子を眺めた。
「ところでマゼンタ」
茜色が箸を置いた。
彼女は急に雰囲気の変わった彼にはっとなる。
「君はいったいどういう子なんだい?」
少年が途端にむせる。辛味がやっと鼻を突いた。
「緋色と同じ塾のクラスメイトなんだろう?」
「あ、いや、だからこれは……」
緋色がむせながらも父に抗おうとした。だが、
「私には記憶がない」
少女はこの家の頭首を真っ直ぐに見つめる。
「え?」
「紛争地帯のマゼンタ地区でクリムスンが助けてくれた時、私は自分が何者で、なぜそこにいるのかわからなかった。言葉も喋れず、皆が何を言っているのか理解も出来なかった」
茜色も静かに彼女を見返す。
「でもクリムスンが私を養女にしてくれて、今では少しずつ言葉もわかって、塾にも通わせてくれて、そこで緋色と出逢った」
緋色は口をつぐんで彼女の話を聞いている。
「だから私がどういう子かと言われると、それだけしか答えられない」
「……そうだったのか」
あの男は記憶喪失のこの子を……
茜色が少女から自らの息子に視線を移すと、緋色はしゅんと肩をすくませていた。
父親である茜色は例え血が繋がっていないとはいえ、息子の気持ちがすぐに察せられた。
養子、養女、同じ立場……
その時、マゼンタがさっと立ち上がった。
「遅くなったからそろそろ帰る」
「え、もう?」緋色が彼女を見上げる。
「ああ。宿題、一緒に出来てよかった。ごちそうさまでした」
少女は軽く頭を下げた。
辺りはすっかり暗くなっていた。
それでも室内の灯りと空からの瞬きによって、暗がりの中でも充分に見渡せるほどだった。
そんな心地よい闇の中茜色と緋色が縁側に立ち、庭に下りて靴を履いた赤紫色の少女を見下ろしていた。
「じゃあ」
マゼンタが二人を振り返る。
「またな!」
緋色も答える。
少女は踵を返すと敷地の門へと向かった。まるで自分の家とそっくり同じ作りの門へ。
「緋色」
「ん?」
彼女を見送っていた少年は、名を呼ばれて父を見上げた。
「もうクリムスン家の人間と関わるな」
「え……?」
緋色の声が掠れる。
「前にもそう言ったはずだよ」
「でも……!」
マゼンタの後姿を見ていた茜色は息子に顔を向けると、
「いいね?」
怒鳴るわけでもなく厳しく言いつけるわけでもない。
ただ冷たい威圧感だけは幼い彼にもしっかり届いた。
「……うん」
緋色は一瞬下を向いた。父上の言うことは絶対だ。
反対するのはわかってる。わかってるけど……!
少年は再度、少女の去り際に目をやった。
「父上?」
茜色家の門を出てすぐの所でマゼンタは立ち止まった。
周囲の暗さに溶け込むように一台の黒い車が音もなく停車している。
しかしながらその前にクリムスン、葡萄、コチニールの三人が仁王立ちに腕組をして立ち塞がっていたのだ。
クリムスンの腰には刀の鞘が光っているのも少女は見逃さなかった。
「マゼンタ!」
葡萄とコチニールがすぐさま彼女に駆け寄る。
「大丈夫ですか⁈どこも怪我はないですか⁈」
「怪我?」
「もう心配したよ!緋色とここに入ったって聞いて……!」
「何もされていませんか⁈」
「二人とも何を言っているんだ?私は緋色と宿題をしていただけだ」
「宿題……⁈」
「ああ、あとは夕飯をもらった」
彼女のその言葉を聞いた途端にコチニールと葡萄は愕然とする。
(夕、飯……⁈)
一瞬場がしんとなり少女がわけもわからずきょとんとすると、葡萄が物凄い勢いで少女の頬を両手で挟んだ。
「まさか毒を盛られたんじゃ!」
「ふあっ⁈」
「マゼンタ、ペッとして!オエッって!」コチニールも必死だ。
だがどうしたって力のある彼女が葡萄の手をさっと掴むと、
「まったく、さっきから何を言っているんだ!毒なんか盛られるはずないだろ。ちょっとだけ辛かったけど」
いや、相当辛かったけど……
少女は内心茜色家の料理をそう評価していた。
「ならいいのですが……」
「無事そうで本当よかったよ」
葡萄とコチニールが心底ほっとしたように溜息をついた。
(なんなんだ、この大騒ぎは)
彼女は呆れていた。
緋色の家に来て、宿題をして、茜色に逢って、ご飯を食べた、それだけのことじゃないか。
なのになぜこんな大事になっているんだ。
少女には理解が出来ていなかった。
ただし、一連の流れを傍観していた大男は娘に近づくと、
「マゼンタ」
少女は彼を見上げる。
大男は、
「もう二度と茜色家の人間と関わるな」
「……なぜ?」
彼女は率直に疑問を呈した。
葡萄とコチニールは頭首とその娘の間でそわそわと目配せする。
クリムスンは続けた。
「それが運命だからだ」
「運命?」
日の光がぽかぽかと注ぐ中、今日も敷地内には例の弦楽器の音が響き渡っていた。
決してこの陽気に合っているとは言えない。
目を背けずに長く聞けるとも言えない。
それでも前よりは何とかマシと呼べるほどにはなっていた。
けれどもそれを縁側に腰掛け奏でている本人はそんなことには気づかないように、全く別の件について思考を巡らせている。
「もう二度と茜色家の人間と関わるな」
「それが運命だからだ」
マゼンタの脳内ではその二つの台詞ばかりがぐるぐると渦巻いていた。
「運命」
彼女は自分の口に出して言ってみる。
そうして空を見上げながら言葉の持つ意味を考えた。
(定められたもの……)
同時刻、マゼンタがセキエを練習している縁側から大して遠くない距離にある頭首の書斎ではクリムスンが縁側に立って庭を眺め、葡萄が室内のソファに座り、テーブルの上で光る画面を一生懸命操作していた。
「見つかったか?」
頭首が眼鏡を掛けた葡萄を振り返る。
彼は画面を指で動かしたまま、
「全ての教科の基礎を学べて、ここから通える距離で、マゼンタの今の状況を理解してくれそうなところで……ええ、いくつかピックアップ出来ましたよ」
「なら話は早い。その中のどれかに通わせよう」
「ただ、一つだけ問題が」
葡萄は指の動きを止めるとクリムスンに顔を向けた。
「なんだ」
「今も聞こえていますが……」
二人の周囲には拙いセキエの音がこれでもかと占めていた。
「このセキエという楽器の件です」
「それが?」
「マゼンタが気に入っているこの楽器を教えてくれる人が他にいるかどうか。一応ネットで調べてはみたのですが、セキエの情報が一切出てこないんです。〝ツキソメ〟なら形は似ているんですけど、音が違いますし、セキエはよほど知られていない楽器みたいなんですよね」
クリムスンは半ば呆れていたがそれを顔には出さず、
「葡萄」
「はい」
「今そんなことを言っている場合か」
「わかっています。しかしせっかく慣れ始めた塾を私たちの事情で勝手に変えて、さらにあの楽器まで奪うのはあまりに哀れでしょう?」
頭首は彼の変化に内心驚いていた。
最初はあんなにマゼンタがこの家へ入ることを反対していたのに、彼女の気持ちを汲めるほどに成長したとは。
しかしながら今はそれどころではない。何せ茜色家が絡んでいるのだから。
「ならあの子に楽器を渡した塾の講師をここまで連れてきて、この家の中で教えてもらえばよかろう」
「なるほど。すぐに対処いたします」
眼鏡の彼が颯爽と立ち上がる。
クリムスンは冷静に言ったつもりだった。けれども苛立ちが含まれていることに当の本人も葡萄も気づいていた。
「お断りいたします」
ここには以前にも来たことがある。マゼンタを塾に通わせるために一番最初にこの教員室を訪れた。
今はあの時と違いマゼンタの姿はないが、二人の塾講師とこうして向かい合ってソファに座り話をする。まるで同じ光景だ。
ところが葡萄はアガットの返事に思い切りのけぞっていた。
それはあの時とは全く異なるものだったから。
「なっ……!」
そんなさらっとお断りっ……⁈
葡萄の提案は決して悪い話ではなかったはずだ。
時間的に無理をさせるわけではなく、金銭に関してもきっちりお支払いさせて頂く、なのにお断りになる……⁈
アガットはのけぞったままの彼に対し淡々と続けた。
「私は前任の先生からこの場所を任されていますし、セキエを教えることが本職ではありませんから」
葡萄は乱れた姿勢を徐々に戻しながら、
「それはごもっともですが……」
やはり家まで来て教えてもらうわけには参りませんか……
クリムスンの提案を自分も勿論考えてはいた。
でもそれが必ずしも通るとは限らない、そこまで考慮していた。
ただ茜色家が絡んでいる現状、どうしても早々に解決したい問題の一つであることに変わりはない。
だから塾の先生がこの提案をさっさと吞んでくれたら嬉しいに越したことはなかったのだ。
しかしそれが出来ないとなると……
葡萄は掛けている眼鏡の蔓を押し上げた。
「なら、セキエという楽器について伺いたいのですが」
「どうぞ」
「ネットでいくら調べても、情報が載っていないんです」
「あはは。よっぽどマイナーな楽器なんですね」
アガットの横に座っている臙脂が同僚をちらり見やる。
「それで、他に教えている方がいらっしゃらないかと思って」
「ふうむ。他に教えている方ですか……」
葡萄は切実な眼差しを塾講師たちに向けた。
誰でもいい、あの楽器を教えてくれるならどんな人間でも……!
アガットはしばし考えるような姿勢を取ると、
「実は私もあの楽器をとある人から譲り受けて習ったんです。でもその方ももういなくなってしまったので……ですから申し訳ないですが他に弾ける人は、わかりません」
「そう、ですか……」
眼鏡の彼はがっくりと項垂れた。
楽師には楽師の繋がりがあると思っていたのに、こうも簡単に打ち破られるとは……
彼の様子にさすがに気づいたのか、アガットが声を掛けようとしたその時、
「やはり」
葡萄が顔をガバッと上げ、
「あなたに我が家へ来ていただくわけには……!」
「お断りいたします」
アガットは満面の笑顔で答えた。
その夜、マゼンタは父クリムスンに呼び出されていた。
なぜ呼び出されたのかは彼女にはわからなかったが、実際その狭い畳部屋に入って父と、その隣に座る葡萄と向かい合った時、いつもとは違うただならぬ気配を感じた。
いったい何事だ?
クリムスンと葡萄が正座をしている。
だからマゼンタも二人に倣った。
そうして顔を突き合わせ、父たちが話をし始めた。
少女は黙って話を聞いていた。
が、すぐにクリムスンは告げる。
「というわけで、おまえの塾は別のところにすることにした」




