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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
14/130

第13話 セキエという名の弦楽器


「何なら弾いてみますか?」

アガットはまるでお茶でも勧めるように尋ねた。

「え?」

マゼンタは何とか返事をしたが、その声は(かす)れている。

「はい、どうぞ」

彼は一切ためらうことなく赤紫色の少女にセキエと弓を差し出した。セキエの(さお)と弓が同時にきらりと光を反射する。

彼女はアガットの手の中で光るその二つを凝視するあまり(あご)が首に密着しそうだった。

これを、私が、弾く……?

赤紫色の瞳が揺れる。

楽器など恐らく弾いたことはない。恐らくというのは記憶がないからだ。自分の過去など全く憶えていない。

なのに、弾くのか、私が……?

でもどうしてか物凄い興味が彼女の中に芽生えていた。

その湧き上がる興味の渦は体から解き放たれ、それをアガットはしっかりと見抜いていたのだ。

いや、誰がどう見てもわかるだろう。この子はセキエという楽器に興味があるのだと。

だが少女は岩のように固まったまま微動だにしない。

その代わり、

「と、言われても……」と、(のど)の奥底から声を絞り出した。

彼女の言葉を聞いたアガットは、

「あっ、持ち方ですね。それは……」

少女の思いを知ってか知らずか早速技術的なことを教えはじめた。



マゼンタがアガットの瞳や髪と同じ色をしたセキエの棹を左手でぎこちなく持ち、(どう)の三角部を自らの骨盤に当て、右手は弓の下部を恐る恐る握っている。

その姿は普段着ることのない豪華な着物を着てみたはいいものの、全く似合わず逆に服に着られている、そんな状態の見事なお手本だった。

しかしアガットは彼女の隣に立ちセキエの持ち方を確認すると、

「うん、いい感じです」

と、満面の笑顔を見せた。

(いい感じって、持っただけなのだが……)

少女は担当塾講師に心の中で突っ込む。

それはこれまで経験したことのない居心地の悪さゆえに違いない。

当然だ、楽器なんか初めて触る。

けれどそんな彼女の思いなど露知らず、アガットはセキエについての作法を唱え続けた。

「そしたら、弓を弦の前に持ってきて」

彼女は言われた通り、セキエの棹と自分の腹の間の空間に弓を差し込み、棹に張られた弦に弓を当てる。

「横に引いてみてください」

弓が左から右へ移動する。

その瞬間、セキエの弦はギャーッと悲鳴を上げた。

言うなればとても耳障りな、ある意味全身総毛(そうけ)だつような、とにかくもう二度と聞きたくない音だった。

「音が全然違う」

マゼンタはさっきまでの居心地の悪さや楽器に対する緊張感はどこへやら、若干眉をひそめながらセキエを見下ろす。

アガットが弾いていた時はあんなに綺麗な音が出ていたのに、私が弾くとなぜ出ない。

少女を眺めていた彼は笑った。

「一番最初は誰でもそんな風ですよ。では……」

その時だった。

「何事だ⁈」

マゼンタとアガットが同時に振り返る。

教員室扉の所、まるで今急いで走ってきたような背の高い男が驚いた様子で立っていた。

彼は赤紫色の少女と馴染みの塾講師を視認すると、

「あっ……」微かな声を漏らす。

臙脂(えんじ)

アガットが彼の名を呼んだ。

(臙脂。もう一人の塾の先生)

少女も彼をしっかりと目に()めた。

背丈はあるが平均的な体格、肩までの真っ直ぐな髪、そしてその色は穏やかな赤色。

時々アガットの代わりに授業を教えてはいるが、彼女はあまり接したことはない。

ただ自分の机から教壇に立つ彼を眺めるだけ。

でも彼がこんな顔をするのは初めて見た。

「今彼女にセキエを教えていたところなんだ」

「なっ……!」

同僚の何がそんなに驚きなのか少女にはわからなかったが、彼は普段の無表情とはかけ離れた顔のまま彼女たちに少しずつ近づいた。

だがここでも一切空気を読まないアガットはマゼンタに視線を戻すと話を先へ進める。

「セキエはね、言葉と一緒で練習が必要なんですよ」

「言葉と一緒」

「ええ。ですから最初から綺麗な音が出せる人はそうそうおりません」

「そうなのか」

少女は自分の手の中に収まる楽器を見つめた。

彼女の心の奥が僅かに震える。その震えが何を意味するのか今の彼女には理解出来ない。

ただ確実に何かが引っかかっている。引っかかってはいるが、どうすればいいのかわからなかった。だから、

「邪魔をして悪かった。弾かせてくれてありがとう」

セキエと弓をアガットに差し出した。

もう弾くことはない、自分の本分(ほんぶん)は勉強すること。学校で学ぶ内容をここで教わること。

楽器はその範疇(はんちゅう)にない……

ところが目の前の教師は何かを考えるようにセキエを見つめ、動きを止めてしまった。

マゼンタも彼が考えている間楽器と弓を差し出したままの格好で動きを止め、彼がそれらを受け取るのを必死に待つ。

「あの……」

(しび)れを切らした彼女が声を掛けたその時、

「そうだ!もしよろしければ、セキエを練習してみますか?」

目を輝かせたアガットが言った。

「え?」と、マゼンタ。

「は……⁈」と、臙脂。

「セキエは言葉と一緒。弾けば弾くほど上達すると思いますよ」

赤紫色の少女は自分の手の中の楽器を見下ろす。

セキエを、弾く?私が……?

彼女の脳内が思考停止し、しんとした空気が流れる。

「ああもちろん無理にとは言いません。もしあなたに興味があればの話です」

興味……

彼女は楽器の棹をキュッと握った。

確かに、アガットが出す音はとてもよかった。とても綺麗で、とても心地よくて……

目の前の講師は相変わらずニコニコしながらマゼンタの返答を待っている。

反対に臙脂は呆れたように目を細め、突然の提案をした彼へ何か言いたげに視線を送っていた。

「でも私、これを借りたら、アガットが……」

脳が一瞬止まったとは言え、少女は至極当然の質問を彼に投げかけた。

自分がこの楽器を使って練習するということは、彼が弾けなくなるのでは?

「それについてはご心配なく。まだ手持ちの分がありますから」

「そうなのか?」

彼女は目を丸くする。

この楽器を二つも持っているなんて……!

「ええ、ですから気兼ねなくたくさん弾いてみてください」

少女は再度手中(しゅちゅう)のセキエを見下ろした。

「そこまで、言うなら……」



「何それ」

隣の席に座る緋色(ひいろ)がぶっきらぼうに声を掛けた。

室内はとても賑やかで、彼らより年若い子供たちが思い思いに自分の気持ちを表現し続けている。

そして本日もやはりよく目立つ鮮やかな赤紫色の少女が、窓際最後尾の自席に着いていたのだが、その背中には今まで少年が見たこともないような物が(おお)(かぶ)さっていた。

だから彼は尋ねた。細い棹の先と胴の三角部を布紐(ぬのひも)で繋いだ妙な物について。

「アガットから借りた、セキエという楽器だ」

マゼンタは答えた。

「ぷっ……わはははははははっ!」

教室内に緋色の豪快な笑い声が響き、子供たちの歓声と一緒くたに混ざり合った。

(なぜ笑う)

彼女は理解不能で彼を見つめる。

「てかなんでそれを今ここで背中にしょってんの⁈超ウケんだけどっ!」

「アガットが失くさないよう紐、つけてくれた。それで背中にしょうようにって」

「あははははっ、笑える!マジ場違い!」

なんだかまた嫌な感じがする。

少女は少年に対し芽生えた気持ちを嚙みしめた。

緋色はお腹をよじりながら、

「え、てことはちょっとはその楽器弾けんの⁈試しに弾いてみろよ!」

「……いやだ」

「いいじゃん、ちょっとだけ!オレが聞いてやるからさ!」

「断る」

「えーっ、なんでだよ!楽器なんて人の前で弾いてなんぼだろ!」

「おまえの前では弾かない」

「なんだよケチっ!せっかく貴重な時間を使ってやるって言ってんのにさ!」

「そんなの頼んでない」

「あ、もしかして自信ないんじゃなーい?」

マゼンタはその言葉を聞くや否いなや、自らの心臓に何かがグサっと刺さる感覚を覚えた。

なんだ、この痛みは……?

けれどもそれを理解する間もなく追い打ちをかけるように、

「きっと超ヘタクソなんだなー」

少女のこめかみの血管が本人の意思とは関係なくプツリと音をたてた。

もしここで何も起きなければ彼女は少年に飛びかかり背負い投げたり投げ飛ばしたりした、かもしれない。

でもそうはならなかった。

なぜなら少女にとっては教えを(さず)けてくれる例の彼が、いつもの調子で教室の前の扉を開けたからである。

「はーい、授業始めますよ」

アガットが微笑みを浮かべながら入室した。



コチニールと葡萄(えび)が縁側に行儀よく並び立ち、庭を見下ろしながら突っ立っている。

クリムスン家の屋敷は今日も変わりない。

男たちが敷地の壁伝いに走り、道場からは稽古に熱を上げる声、周囲には鼻孔をくすぐる夕餉(ゆうげ)の香り、いたって通常通りだった。

しかし兄と眼鏡の彼は二人(そろ)って目をパチクリとさせている。

二人の視線の先には赤紫色の少女が庭に立ち彼らを見上げていたのだが、彼女の両手にはこれまで見たことのない妙な物が握られていたからだ。

「というわけで」

マゼンタはセキエと弓を二人に見せるように持ち上げると、

「アガットから借りた」

「えええっ⁈」

「それを貸してくれたんですか⁈」

「ああ、よく練習するようにって」

コチニールは啞然としたまま隣の葡萄に顔を向ける。

「今時の塾ってこんなことまでしてくれるの?」

「いや、初耳ですけど……でも」

途端に葡萄は眼鏡の奥で涙腺(るいせん)(ゆる)ませた。

(楽器の演奏だなんて、体術や剣術稽古よりよっぽどマシじゃないですか……!先生、ありがとうございます……!)

と、アガットに心から感謝した。

少女は早速塾講師から教わった通りにセキエを構えてみる。

さすが体の使い方は上手い。セキエと弓はきっちり彼女の側に収まった。

「お、なんか様になってる」

「アガットが持ち方を教えてくれた」

「塾の先生優しいんだね」

コチニールは少しほっとした。

妹がまさか茜色(あかねいろ)の息子、緋色と同じ塾に通っていると知ってから内心気が気じゃなかったのだ。

でもこんなに優しい先生がついていてくれるなら……

彼女はそんな兄の心配をよそにセキエの弦を弓で引く。

瞬間、コチニールの思考はぶっ飛んだ。

庭の隅で両手の拳を交互に突き出していたもう一人の兄、カーマインさえその音にずっこけた。

けれど彼らの反応など気にせずマゼンタは、ギーギーと酷い音を響かせながらセキエを奏で続けている。

その顔は無表情というより真剣そのもだった。

自信ない?ヘタクソ?

だったら絶対上手くなってやる……!

彼女の瞳はメラメラと燃え盛っていた。

ただ、眼前(がんぜん)で聞かされているコチニールと葡萄はあんぐりと口を開け、二人同時に同じことを思った。

(体術も剣術もすごく上手なのに、音楽は超下手……)と。



少女の練習はその後も続いた。

その何とも形容し難い耳障りな音は、普段なら笑い、歓声を上げ、食事を楽しむべき大座敷にもしっかりと届けられ、

「なんなんだこの音は」

「オレに聞くなよ……」

男たちはぶつくさ文句を垂れつつ皆しかめっ面をしながら一応食事を口に運んでいる。

セキエの音は実際かなりよく響いた。

塾で聞こえた時の音はそれほどでもなかったように思うが、今彼女がこうして弦を擦るとかなり遠くまで鳴り響いたのだ。

だからクリムスン家全員の耳にしかと認識されてしまった。

大座敷中央辺り、男たちに交じってカーマインもワイン、ボルドーの二人とお膳の前に並んでいる。

三人は共に食事を取ってはいた。

しかし今まで聞いたこともない雑音が気になるワインとボルドーは辺りを見回し、

「今度は何が始まったんだ?」と、ワイン。

「一説によればまたあの子が関わってるらしいけど」と、ボルドー。

そんな二人は自分たちの隣でむしゃむしゃと米を頬張るカーマインに視線を送る。

真っ赤な少年は彼らの無言の抗議を察し、

「知らない、俺には関係ない」

「関係ないって」ボルドーが鼻から息を吐く。

「おまえの姉、じゃなくて妹だろ?」ワインも(さと)すように尋ねた。

箸を止めたカーマインは顔を上げると、

「俺は、武術であいつに勝つことだけしか考えてない。だからあいつが他に何をしようとどうでもいい」

「あ、そう」

「はっきりしてるね」

真っ赤な少年は二人の大人を無視してまたむしゃむしゃと食べ始めた。



その畳部屋には書棚が整列するようにいくつも並び、外からの光をほとんど遮っている。勿論棚の中には様々な大きさの本がぎっしりと詰め込まれ、初めてこの部屋に入った者なら幾分圧迫感を感じるかもしれない。ただ全てが書棚で埋まっているわけではなく、書棚の間には机とそれに見合う椅子が置いてあった。

この部屋の(あるじ)はすぐに察しがつく。家の者なら誰だってわかるだろう。

今その彼は机と共にある椅子に座り、机上に浮かぶ発光画面と向かい合っていた。

「ということで、マゼンタは楽しく塾に通えているようです」

葡萄は画面に映る頭首クリムスンにそう報告する。

何があっても何がなくても彼は必ず家の全てを知らせる。

それが仕事の一つだった。

「そうか、それは何よりだ。で……」

耳がもげそうな音がまるで二人の会話をかき消すようにずっと漂っていた。

「これがそのセキエとかいう楽器の音なのか?」

クリムスンは表情一つ変えなかったが、葡萄は顔を引きつらせ、

「え、ええ。今はまだ始めたばかりですからね、上手くなるには時間がかかるみたいで」

眼鏡の彼はそう答えはしたが、内心

(近所迷惑になってないといいんですが……)と、思わずにいられない。

セキエの音はそれほどに大きかった。

「ま、まあその話は置いておいて」

葡萄は姿勢を正す。

「カーマインとマゼンタが体術稽古をしたんです」

「カーマインと?」

「いえ、正確にはカーマインがマゼンタに勝負を挑んだのですが、彼女が一瞬でカーマインを倒してしまいまして……」

クリムスンは納得するように目を伏せた。

「そうか」

「いったいあの子は何者なのでしょう、体術も剣術も素人ではないですよ」

「だからそうだと言っただろう」

葡萄は言ってからしまった、と思った。

稽古をしたほうが記憶が戻るかもしれないという頭首の考えをまたぶり返させてしまう。

それはまずい、それだけは絶対に阻止せねば。

だから、

「でもその後も一切記憶は戻る気配がありませんけどね……!」

とんだ悪あがきだ。けどこれは真実、嘘ではない。自分には情報を正確に伝える義務がある。

ところがクリムスンはいたって冷静だった。

「その点に関しては何とも言えん。今のところマゼンタが自らの過去を思い出すしか方法はないのだからな」

「そ、そうですね」

「とにかく子供たちをよろしく頼むよ、いつものことだが」

「はい」

葡萄の中に、今頭首は娘の記憶よりもライバルである茜色家のことが巡っているのだとすぐに察せられた。




 日が頂上に昇る頃だろうか。

その眩しい光はいつもの如く屋敷や連なる家屋を照らし出し、道場から響く男どもの威勢のいい声は敷地内に花を添えていた。

だが今日はまだ時が早いにも関わらず、彼らの声に交じって何やら若い世代の声も含まれている。

若い世代、基、二人の少年は共に道着を着込んで向かい合い、互いの襟元をいち早く掴もうと狙いを定めていた。

そのうちの一人、真っ赤な少年は真剣な眼差しで相手の隙を窺っている。

絶対に負けない、絶対に勝つ!その思いが全身から溢れ出ていた。

(カーマインの気迫(きはく)が少し前より全然違う……!)

弟の成長に内心驚きつつもコチニールは冷静さを維持しようと相手の動きを見極める。

僕が責めるべきはどこか……⁈

その時だった。

同じように道着を着用したワインとボルドーがのんびりした空気感を伴いやって来たのは。

「稽古中悪い」

ワインが二人に声をかける。

「ほんと悪い……!」

カーマインがコチニールに狙いを定めたまま答えた。

けれど兄はすぐに、

「カーマイン」

と、なだめるように自らの構えを解く。

「ったく!」

弟も仕方なしに両手を下ろした。

コチニールは自分より遥かに背の高い大人たちを見上げ、

「どうかした?」

何かがあったのだろうと尋ねる。稽古中に質問しなければならないほどの何かが。

しかし大の男二人は互いの顔を見合わせると、

「そのー……」

ボルドーが口を濁す。

「ん?」

なんだろう、言いにくいことなのだろうか。

兄の疑問をよそにワインとボルドーは相手の肘を(つつ)き合う。

なんだ、これは⁇

コチニールは普段とは違う二人の様子に首を傾げ、カーマインは呆れたように口を半開きにさせた。

〝おまえが言えよ〟〝いやおまえが言えよ〟を複数回やり取りした後、結局ワインが言うことにしたのか、彼は意を決した表情をすると突然、

「マゼンタお嬢は今日はいないのか?」

少年たちは彼が放った聞き慣れない言葉にポカンとなる。

「え?」と、コチニール。

「お嬢?」と、カーマイン。

「あの、ほら、今日おまえたちは学校休みだろ?だから、お嬢も……」

言った当の本人でさえも言い慣れずにしどろもどろになっている。

「お嬢って……」

カーマインはすっかり呆れ果て、いい大人たちを白けたように眺めた。

でもコチニールは対照的に、

「ああ、マゼンタは塾だよ。塾は学校の休みとは違うから」

ワインに真摯(しんし)に答える。

「そうかぁ」ボルドーが残念そうに溜息を漏らした。

「でもなんで?」

「いや、一度さ、彼女と手合わせしてみたいなと思って」

「えっ?」

ワインの思いがけない提案に兄弟は同時に反応した。

さらに隣のボルドーも付け加える。「噂じゃ体術も剣術も相当な腕前らしいし」

「あー……」

確かに、とコチニール。

「冗談だろ……」

カーマインは今にも吐きそうだ。

ところがワインはカーマインの気持ちを理解した上で、

「それがあながちそうでもなくて、俺たち以外にも相手になってほしいって奴がゴロゴロと」少年たちの後ろに目をやった。

兄弟が背後を振り返ると、道場内の男たちが真面目な顔で彼らの話を聞いている。その目はキラキラと希望に満ち輝いていた。

「わぁ……」コチニールは驚きながらも啞然となる。

「んんなの、ありえねーよっ!」

カーマインの悲鳴がクリムスン家の敷地に響き渡った。



塾の建物は誰がどう見てもボロく、よくここで勉学を教えているものだと感心するほどであった。

ただし建物の側にあるだだっ広い広場は草がしっかりと刈られ、数本の大木が脇にどっしりと(きょ)を構えている。

遊具などは何もない。けれども子供たちが走り回るのには充分な広さだった。

その広場に、何なら広場すら越えて敷地の外にまでどうにもこうにも()せない、しかも耳にこびりつくような音が蔓延(まんえん)していた。

その音は勿論塾の内部から流れ込んでくる。

窓は締めてある。子供たちの姿はまだない。

当たり前だ、休日の上に始業時間には程遠いのだから。

それでも彼女が奏でる例の楽器は、大きな音を響かせずにはいられなかった。

教員室の中、塾講師兼楽師(がくし)のアガットが自席に座り、同じく塾講師の臙脂も反対側の席に着いて赤紫色の少女を眺めていた。

少女はアガットの前に立ちセキエを構えながら、弓を弦に当て左右に動かしている。

ただしその楽器からはずっとザラザラとした音だけが続いていた。

どこまでもどこまでも、どこをどう奏でてもざらつく。

耳を塞ぎたい、今すぐその手を止めてほしい、そんな音色だ。

だがなぜかアガットは微笑みながら音を聞き、臙脂も彼女をじっと見上げている。



同時刻、塾の玄関扉をこれでもかと勢いよく開けた者がいた。

その反動で扉は物凄い音を立てたものの、中に入って来た少年の大声のほうがそれに勝り扉は途端にしゅんとしてしまう。

「オレいっちばーん!」

緋色の声が誰もいない廊下にこだまする、かに思えた。

しかしそれ以上にとんでもなく耳に残る音が建物内部に充満していたのだ。

「楽器の音、か?」

彼は無意識のうちに音の出所を探り始める。



その頃マゼンタは先程と同じくアガットの前でセキエを弾いて、いや、音を鳴らしていた。

弾くと言うには程遠い、ただ音を鳴らす、この表現がぴったりだろう。

相変わらず聞くに堪えない、常人ならすぐにやめるかその場を立ち去る、そんな音……

それでも彼女はやめなかった。

アガットが鳴らす音に近づける、今はそれが目標、まずはそれから、そこがスタートだ、そう思っていた。

その時緋色が教員室扉にはめ込まれているガラス窓からひょっこり顔を出し、室内を覗き見た。

(ふーん、これがセキエの音かー。にしてもひでぇ音)

彼は顔の中心に目から口から全ての部位を寄せずにはいられない。何なら口の中が本当に酸っぱくなってしまうようだった。

不意に赤紫色の少女がセキエを鳴らす弓の動きを止める。

「うん、いいですね。素晴らしい上達ぶりです」

「そうか?相も変わらず酷い音だと思うが」

アガットの褒め言葉に対し、彼女は正直な感想を述べた。

なぜなら自分で弾いていても耳がムズムズし、指から伝わる振動で全身がざわついている。

素晴らしい上達?どこがだ?

少女は自身の腕を酷評(こくひょう)した。

それを感じ取っているのかいないのか、アガットは言葉を繋ぐ。

「セキエはまず音を出す時点でとても難しい楽器だと言われています。それを一音一音全て弾けるということはかなりセンスがあるということだと思いますよ」

「センス?」

「まあ平たく言うと才能のことですね」

「才能」

私に音楽の才能が?あるのか?

彼女の中に素朴な疑問が浮かび上がった。

「以前に何か楽器を習っていたことがあるのでしょうか」

単純な質問。アガットには何の悪気もない。

才能があると思った、だから素直に尋ねたのだ。

だがその質問はマゼンタの胸にチクリと針を刺した。

彼女の反応にいち早く気づいた臙脂がアガットに視線をやる。

扉のガラス窓から覗き込んでいた緋色も何か不穏(ふおん)な空気を感じて目をパチクリさせた。

「あっ、申し訳ありません。あなたには記憶が……」

最後にやっと自分の失言に気づいたアガットが慌てふためく。

(記憶?)緋色が心の中で呟いた。

赤紫色の少女はしばしの間黙りこくる。

それははたから見れば僅かな時間だっただろう。

けれどもその場にいた人間からしたらかなりの長さを感じるほどの息苦しさを覚えた。

アガットも臙脂も事情は葡萄から聞いて知っている。なのにまた自分の口から話すべきかどうか、彼女は迷った。

言いふらすつもりはない、念押しするつもりもない、でも……

マゼンタは何かを決心したように今一度アガットに顔を向けた。

「私が気づいた時、周りにはたくさんの人が倒れていて、突然見ず知らずの男に襲われそうになって、そこを父上に、クリムスンに助けてもらった」

え……?

緋色が思わず瞳を見開く。

「私にはそれ以前の記憶がなくて、当時は声も出なかったし、皆が何を言っているのかも全く理解出来なかった」

アガットと臙脂は彼女をただ静かに見つめている。

「それでも父上は私を養女として引き取ってくれて、今はこうして少しは話せるようになったし、言葉もだんだんわかるようになってきた。けど記憶は……」

全然戻らない……!戻る気配すらない……!

マゼンタはセキエの棹をぎゅっと握りしめた。

「だから、もしかしたら昔は楽器をやっていたのかもしれないけど、今はまだ、わからない」

そうして彼女は顔を伏せた。

「そ、そうでしたね。私としたことが、葡萄さんからお話を伺っていたのに、大変失礼いたしました」

アガットが慌てたように平謝りする。

「いや、いいんだ。疑問を持つのは当然だと思うから」

一番疑問を持っているのは私だろうが……

マゼンタの言葉と思いがポロポロと床に落ち、すぐさま消えていった。

教員室扉の向こう側では緋色が何かに縛られたように棒立ちになっていた。


















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