第113話 湖と夕餉と来客と
湖面は静かだった。
淡い橙色の空を反射するように自らも同じ色を湛え、岸辺に小さな波を微かに形成するくらいだ。
湖畔には白に近い茶色の砂粒が敷かれ、湖の周囲はどこまで行ってもその砂粒だけで木々もなければ山もない。
これでは海と勘違いしてしまうのもわかる気がした。その証拠に向こう岸はあまりに遠すぎて全く見えない。
湖畔に人の姿はほぼなかった。
ここは観光地ではなく穴場なのか、それとも王族御用達の湖なのか、これだけの広さを誇りながらも湖に入っている人間はおろか、湖畔を歩く人もまばらだったのだ。
そこへ海パン姿の少年と水着姿の少女が、岸辺から湖へと一目散に走っていく。少年は腰から膝まである真っ赤な水着で、少女は上下に分かれた三角形の白い水着だ。
「ひゃっほーいっ!」
緋色は叫びながら湖の中へザブザブと入った。
彼を追うマゼンタも、続いて湖へ入る。
「これが海かーっ!超気持ちーっ!」そう言って緋色が泳ぎ出す。
マゼンタも思わず頭から水の中に潜った。
水の中に潜るのはこれが二度目だ。
一度目はキャンプ実習でワニを捕まえるために川の中へ飛び込んだ時。
そして今日が二度目。
正確には赤星紅国クリムスン家の湯船に浸かったことはあるが、あれは潜るとは何となく違う気がする。
湖の中は意外と澄んでいた。
キャンプ場の濁った川の中とは違って、ちゃんと水の中が見通せる。
淡い橙色の水中は太陽の光を浴びてキラキラと輝き、銀色に輝く小魚の群れや、黒く細長い魚がうねうねと泳いでいた。
足元は先へ進む度にどんどん深くなっていくが、灰色の岩が湖底をごつごつと占めているのを何とか確認出来る。
マゼンタはそのまま水中を潜り続けた。
橙星の暑さには慣れたが、確かに緋色が言うように気持ちがいい。
このままどこまで行けるか、泳いでみようか……
彼女がそう考えている時、湖畔には共に茶色い海パンを履いた二人の守人が立って、湖ではしゃぐ緋色を眺めていた。
「ここって遊泳出来るんだね」コチニールが隣の葡萄に顔を向ける。
だが相手は湖を見渡して何やら感動しているようだ。
(これが、海、じゃなかった、湖なんですね……!なんて大きいのでしょう、向こう岸が見えません……!これはもう海と言っても過言ではないのでは……⁈)
眼鏡の彼の様子に気づいたコチニールは、思わず口角を引きつらせる。
あれだけ緋色のことを散々否定していたのに……
「葡萄」
「は、はい」
眼鏡の彼が我に返った。
「僕たちも入ろう」
「え、ええ」
コチニールと葡萄は沸き立つ気持ちを抑えつつ、湖畔から湖の中へ歩を進めた。
その頃、岸から離れた浜では柑子とマロウが並び立ち、湖初体験の守人たちを微笑ましく眺めていた。柑子王子は橙色の海パン姿で、マロウ王子は私服姿のままで。
ちなみにフォイーユモルトは王子たちのすぐ側で、どこから持ってきたのか人数分のパラソルをせっせと設置している。
「皆さんはしゃいでいらっしゃいますね」と、柑子。
「人生初めての湖体験らしいですから」と、マロウ。
不意に柑子はマロウ王子を見上げて尋ねた。
「あの、マロウ殿下はお入りにならないのですか?」
「私は泳ぐのがちょっと苦手で」
柑子は思わずのけぞりそうになるのを必死に堪える。
「そ、そうだったんですね……!なのにこんな場所にお連れしてしまって……!」
「いえ、泳ぐのは苦手ですが眺めるのは好きなのです」
「そ、そうなのですか……?」
「はい。なのでどうぞ私のことは気にせず皆さんと楽しんでいらしてください」
「そ、そういうわけには……!」
マロウは柑子の背中に優しく触れた。
「大丈夫です、私はここでゆっくりさせていただきますから。それにフォイーユモルト殿も側にいらっしゃいますから安心ですし」
パラソルを設置していたフォイーユモルトが顔を上げる。
「はい、私がお側におります」
「うーん、なら……フォイーユ、マロウ殿下を絶対お護りしてねっ!」
「かしこまりました」
「ではマロウ殿下、行って参ります」
「いってらっしゃいませ」
柑子は湖で泳ぐ守人たちに向かって走った。
マロウ王子には申し訳ないが、せっかく湖を目の前にして泳がないのではもったいない。
柑子は何となく後ろ髪を引かれつつも、湖を優先させた。
マロウ王子にはフォイーユがついているから大丈夫だろうし……
そのマロウ王子も柑子の思いをくみ取りつつ、彼の背中ににこりと微笑みかけていた。
それから湖を嗜む守人四人と橙星の王子は、空気を入れた丸いボールを投げて遊び始めた。
「ぅおりゃマゼンタっ!今日こそ倒してやんぜっ!」
と、緋色が少女に向かってボールを叩き投げると、彼女はそれを手首で受け、反動でボールはコチニールに飛び、
「それはこっちのセリフだよっ!」今度はコチニールが緋色目がけてボールを叩き投げる。
ボールは見事に緋色の頭に命中し、弾き飛んだ。
「ったあっ!」
緋色が叫べば、柑子も葡萄もコチニールも日常を忘れてケラケラと笑った。
浜辺にはフォイーユモルトが設置したパラソルの下に、さらに彼が一人せっせと並べた長椅子が整列していた。その一つにマロウ王子が横たわって、湖ではしゃぐ守人と橙星の王子を無表情で眺めている。
ところがマロウ王子はふと何かに気づいたように上体を起こすと、尚も人数分の長椅子を並べ続けるフォイーユモルトに声を掛けた。
「あの、申し訳ないのですが」
「はい」
文字だらけの男が汗水一つ垂らさずに顔を上げる。
「何か飲み物はあります?」
「ございますが……」
そう言いつつ、文字男はちらり湖のほうへ視線を向けた。
「ああ、私なら一人でも平気です。柑子殿下からお聞きではないですか?一応心得はありますので」
「しかし……」
「それに彼らもすぐ近くにいらっしゃいますし、私から少し離れるくらい問題ありませんよ」
「ですが……」
「なんだか暑くて、喉がとっても渇いてしまって、ふう」
マロウ王子は手の平で大げさに顔を扇いで見せた。
「かしこまりました、すぐにご用意いたします」
「そうしていただけると助かります」
マロウ王子の返答を聞くや否や、フォイーユモルトは尋常ではない早足で浜辺を後にする。
彼を見送ったマロウ王子は「まったく」と、軽く溜息をついた。
それをまるで見計らったかのように、フォイーユモルトが去った方角とは反対の方向から、黒いサングラスを掛けた細身の男がマロウに向かって一直線にやって来た。
男は透けるような白い肌に青みの赤紫色の長い髪、格好は襟付きのシャツにパンツ姿で、どこからどう見てもマロウ王子にそっくりだった。
「ここまで来るとはいい度胸してるよ」
マロウ王子は自分に近づいた男を見上げて言った。
相手はおもむろにサングラスを外す。やはり彼はマロウ王子と瓜二つの顔をしていた。
「こんな所を見られたらせっかくの計画がおしまいだね」マロウ王子が相手に言う。
「それを言うならおまえのほうがいい度胸してるぞ。俺たちだけで王都に来る予定が、なんであいつらまで引き連れて……!」サングラスを外した男が王子を非難した。
「それについてはもう話し合っただろう?」
「しかもここではあいつらとずっと一緒に過ごすんだろっ?」
「そうだよ、柑子殿下の別荘に滞在するって言ってあるだろう?君も一緒に来るかい?」
「ふざけるな……!」
「いいじゃないか、君たちだってすぐ側のホテルに宿泊するんだから」
「でもその間私たちはずっとおまえの動向を気にしていなきゃならない」
「それは申し訳ない。けど」
マロウ王子は立ち上がって、湖ではしゃぐクラスメイトたちを見つめた。特に、赤紫色の少女を。
「彼女のことをもっとよく知るいい機会だと思うんだ」
サングラスを外した男も彼女のほうに顔を向ける。
赤紫色の少女たちは相変わらず湖の中で、ボール遊びに熱中していた。
柑子王子のプライベート別荘は、湖のすぐ近くだった。
そこだけ空に真っ直ぐ伸びる木々をありったけ植樹し、その中に平屋建てではあるが恐ろしく広大な敷地面積を誇る石造りの建物を建てた。
灰色のその建物は正面から見ると閉鎖的で中が一体どうなっているのか見当もつかないが、一度入ってみると建物の奥は全面ガラス張りで、別荘を囲む林の奥に昼間遊んだ湖がものの見事に見渡せる。
部屋数も数十はあるらしく、網の目のように走った柔らかくも温かな木造廊下に、いくつもの扉が備え付けてあった。
今夜はそれらから一人一部屋自由に選んで、最高の寝心地のベッドで最高の夜を迎える、とのことらしい。
けれどそれまでまだ時間はある。何より、夕飯がまだではないか。
彼らは別荘のリビングに通されると、その場所で早速食事を取ることにした。
リビングと言ってもやはり広い、広すぎる。
天井のそこかしこに温かい光を発する丸い照明が埋め込まれ、中央には分厚いカーペットの上に丈の低い大きな木製テーブルが置かれ、テーブルの周囲には数え切れないクッションと布張りのソファが囲み、壁際には木でできた人や動物を形作ったような置物と仄かに光る間接照明が並び、壁には植物を模したような織物がいくつも掛けられていた。
そのテーブルにはこれまたフォイーユモルトがせっせと用意した魚料理や肉料理、火を通した野菜から綺麗に盛り付けた果物までがたんまりと置かれている。
マゼンタ、コチニール、葡萄、緋色、柑子はテーブルの周りに直に座るとおもむろに食事を楽しみ、マロウに関しては側のソファに腰掛け、ゆったりと出されたお茶を嗜んだ。
その間にもフォイーユモルトは、一人テキパキと主人や客人に飲み物を運んでいる。
この男、ボディーガードというよりもはや世話係なのではなかろうか。
「おっ、これ超ウマっ!コチニールも食べてみっ!」
出された料理をむしゃむしゃと頬張った緋色が言う。
「うん」
「緋色、食べ方が汚いです」と、少年の作法を突っ込まずにはいられない葡萄。
コチニールは緋色が勧めてくれた皿を眺める。
大皿に一匹の魚が横たわり、その周囲を白、黄、橙色の野菜が取り囲んでいた。
コチニールは言われたとおりに魚と野菜を自らの小皿に取り分けると、何の躊躇もなく口の中に入れた、次の瞬間。
「うっ……!」思わず口を押さえるコチニール。
「なっ⁈超ウメーだろっ⁈」と、笑顔の緋色。
「う、うん……」
とは返したものの、信じられないほど辛い……!コチニールの額に数多の汗が浮かんだ。
するとマゼンタが兄の耳元に口を寄せ、小声で言う。
「こっちのは辛くなかった」
彼女は別の皿に乗った野菜料理を密かに指差した。
コチニールは汗を垂らしながらこくこくとうなずく。王都の料理が辛いとは聞いていたが、まさかこれほどとは……!
料理を嗜みながら柑子が説明する。
「湖が側にあるのでこの辺りは魚料理が有名なんです」
「なっ、めっちゃウマいわっ!」と、豪快に食べまくる緋色。少年は相変わらず辛さにめっぽう強いらしい。
柑子は自分たちの後ろのソファに座るマロウに視線を向けた。
「マロウ殿下、あの、本当に飲み物だけでよろしいのですか……?」
紫星の王子はティーカップを持ったまま微笑む。
「せっかくこんなに豪華な食事を用意していただいたのに、申し訳ありません」
「マロウ王子ってホント食細いよなっ」咀嚼しながら緋色が言った。
「ええ、自分でも驚いています」
「何かあればすぐにおっしゃってくださいね、なんでも準備させていただきますので……!」と、身を乗り出す柑子。もてなす側としては居ても立っても居られない気持ちだろう、客人が何も食べないのでは。
「はい、でもどうぞお気遣いなく」
柑子王子にそう答えるマロウを、コチニールがこっそり見上げている。
コチニールの脳には、友人のとある台詞が流れていた。
「どーせ橙星の料理が口に合わないからって身を隠しちゃったのよ」
って、ヘンナは言ってたけど、でも飲み物は召し上がっていらっしゃるし、橙星の料理が口に合わないわけじゃないんじゃないかな……
紫星の王子のことをそんな風に考えているコチニールの後ろで、葡萄はたった今自分が口にした料理があまりに辛すぎて悶えていた。
「ところで皆さん泳ぐのがとても上手ですね」
敢えて話題を変えるかのように、マロウ王子が全員を見回す。
「赤星には海や湖はありませんが川は流れていますから、小さい時はよくそこで泳いでいました」コチニールがマロウの思いをくみ取って朗らかに答えた。
「オレもっ!」緋色も素直に同意する。
「学校にはプールがあって水泳の授業もありますしね」と、コップの水を飲み干した葡萄。
「ほお」マロウが思わず目を丸くさせた。
柑子も「私は湖も利用しますが、基本的には子供の頃から宮殿のプールで泳ぎを習っていたので……」
「宮殿にプールっ⁈」緋色が唾を飛ばす。
「うん」
緋色は大いに納得した。やっぱ柑子王子はホントに王子様だったんだなぁ……と。
するとマゼンタが素朴な疑問を口に出す。
「紫星の海は凍っているからマロウ王子は泳げないのか?」
兄コチニールは驚いて吹き出した。
「確かに海は凍っていますが湖によっては凍っていないものもありますよ」
笑顔でマロウは答えてくれたが、コチニールは内心冷汗ものだ。(マゼンタ、王子に対しての言い方が酷すぎるっ……!)
マロウは続ける。
「それに私は泳げないのではなく、泳ぎが苦手なのです」
何を思っているのか、マゼンタはマロウをじっと見上げた。
その反応に対し相手が尋ねる。
「マゼンタさんはいかがなのです?赤星で幼い頃から泳ぎを習っていらしたのですか?」
途端にコチニールがソワソワし出し、葡萄ははっと紫星の王子を見上げた。
「私は……」マゼンタが言いかける。
彼女の脳裏には、クリムスン家の浴槽に頭まで浸かった光景が浮かんでいた。
お風呂に沈んだのは、果たして泳いだと言えるのだろうか……
兄コチニールも記憶を掘り起こしていた。
(マゼンタは紅国で泳いだ経験なんて一度もないはず……!あるとしたらこの間のキャンプ場で川に飛び込んだ時だけなんじゃ……)
その場にしばし沈黙が流れると、不意にどこからともなくチャイム音が鳴り響いた。どうやらその音は建物の入口から聞こえてきたらしい。
「あれ、誰だろう?」
柑子が言うと、すかさずフォイーユモルトが主人の近くに来て答えた。
「私が見て参ります」
顔面に文字を湛えた彼は、リビングから奥へ繋がる廊下へと急ぐ。
「オレたちの他にお客さん来る予定だったの?」
緋色が肉にがっつきながら柑子に尋ねた。
「ううん、誰も来ないはずなんだけど……」
その言葉にマゼンタ、コチニール、葡萄は姿勢を正す。
誰も来ないはずの別荘のチャイムが鳴った。それは何を意味しているのか、守人ならすぐに察せられる。
だが緋色は緊張感なく肉を頬張り、マロウ王子はマゼンタを観察するように横目で見下ろしていた。
やがて、廊下の奥からバタバタとこちらへ向かって走ってくる足音が聞こえてきた。
一つ、いや二つか。そのさらに後にはフォイーユモルトと思われるゆったりとした歩みも聞こえてくる。これはどうやらフォイーユモルトが誰かを別荘へ迎え入れたということのようだ。
「ん?」咀嚼しながら緋色が廊下へ顔を向ける。
コチニールが身構えた。「誰か来た……!」
「はい……!」葡萄も唾を飲み込む。
対してマゼンタは冷静に廊下の奥を見つめた。
次の瞬間、一人の少女がリビングに飛び込んでくる。
年や身長は緋色より少し上か。平均的な体格で、日に焼けた肌に長い髪を二つに分け三つ編みにし、その髪と瞳の色は鮮やかな橙色をしている。服装は長細い布を胸に巻いているが片方の肩は丸出しで、下は真っ直ぐな長いスカート姿だ。
「兄君様ぁっ!」
彼女はリビングに入るなりそう叫んだ。
「蜜柑⁈」柑子も思わず立ち上がる。
「お会いしたかったですっ!帰ってくるなら帰ってくると一言言ってくださればよかったのにっ!」
蜜柑と呼ばれた少女は柑子に近づいて彼の腕を掴んだ。
「ごめん、伝えていなくて……!」
そこへ廊下から一人の男が姿を現した。
年も身長も体重もフォイーユモルトといい勝負で、服装も彼とほぼ同じ。ただし彼のように文字を全身に刻んではおらず、短く刈り上げた髪と日に焼けた肌、髪と瞳の色は黄みの明るい茶色だった。
その男はリビングに入るなり室内をさっと見回す。
マゼンタとコチニールは同時に彼の正体を判断した。(ボディーガードか)と。
彼の後にはフォイーユモルトが何の危機感もなくゆったりと続いていた。
「お元気でしたかっ?心配していたんですよっ!なんの便りも寄越していただけないからっ!」
蜜柑と呼ばれた少女が柑子に詰め寄る。
「あ……ごめんね」
「突然カイクウの都の軍事学園に通うとおっしゃって、もう私は心配で心配で、兄君様に何かあったらどうしようと思ったら夜も眠れなくてっ……!」
「うん、ごめん」
「でも、こうしてまた無事なお姿を見ることが出来て、本当によかったです……!」
「うん、蜜柑も元気そうで何よりだよ。陛下は……東雲陛下と甘草陛下はいかがお過ごしかな……?」
「お二人共とても元気にしています。王宮の皆も相変わらずですよ」
「そう、それはよかった……」
二人の会話を聞いていたコチニールは、やるせない顔で柑子を見上げた。
「でも王宮を抜け出してこんな所まで来て大丈夫なの?」柑子が蜜柑に尋ねる。
「ちゃんと許可はいただきましたので、数日なら兄君様と一緒にいられます……!」
「そっか……」
柑子がほっとしたように微笑んだ。その時、
「あの……」箸を持ったままの緋色が柑子たちを見上げて呟く。
二人ははたと緋色を見下ろした。
「誰?」
緋色は柑子の腕を掴む少女に問うた。
同様にマゼンタ、コチニール、葡萄、ソファに座ったマロウも三つ編みの彼女を見上げている。
「誰とは無礼なっ……!」蜜柑に次いで入室した男が前に歩み出ようとした。
それを咄嗟にフォイーユモルトが手で阻止する。
男はフォイーユモルトをキッと睨み、フォイーユモルトは彼を一瞥した。
「ああっ、ごめんっ!こちらは私の妹の蜜柑です。で、あちらが蜜柑のボディーガードの土色です」
土色と呼ばれた男が唸り声を上げる。
しかし緋色はポカンとしたまま蜜柑を見上げ、「妹、てことは……」
葡萄がすかさず緋色に耳打ちした。「王女殿下ですよっ!」
その瞬間、緋色がはっとなる。
「はじめまして、蜜柑と申します」
橙星の第一王女は客人たちを見回して挨拶した。
「それでこちらが緋色、葡萄さん、コチニールさん、マゼンタさん、それから、紫星第一王子のマロウ殿下です」
今度ポカンとなるのは蜜柑のほうだった。
「紫星?」
「うん」
「あの、紫星?」
蜜柑王女は天井を指差す。
「うん、その紫星」
「……」
しばし固まった王女はあまりの衝撃に目を見開く。どうやら彼女も紫星の王子がこの星を訪れていることを知らされていなかったらしい。
マロウは飲み物の入ったカップをテーブルに置くと、ゆっくり立ち上がった。
「はじめまして、マロウと申します。どうぞよろしくお願いいたします、蜜柑殿下」
「あっ、あのっ、はいっ、こちらこそっ……!」
蜜柑王女はしどろもどろだ。
確かに、まさかこの場所で紫星の王子と会うことになるだろうとは、夢にも思わなかったに違いない。
(正しい反応ですよね)コチニールは微笑みを浮かべて王女の様子を見守った。
リビングの入口ではボディーガードの土色も驚きのあまり目を見開いて、フォイーユモルトに関しては小さな溜息を漏らしている。
「皆さんとは同じクラスメイトで一緒に様々なことを学んだり、イベントに参加したり、とにかくいつもすごくお世話になっているんだ」
柑子が蜜柑に説明した。
「そうだったんですね……!」
「おうっ!めっちゃお世話してやってるぜっ!」
緋色の言葉に蜜柑が目を丸くする。
「緋色っっ!」葡萄が小声でブチ切れた。
「だってホントのことじゃんかよっ!」
柑子は緋色に苦笑いを返す。その兄を蜜柑は心配そうに見つめていた。
コチニールの脳裏には、柑子が以前言っていた話が蘇っていた。
「私は……王妃様に……母君様に、嫌われているからかもしれません……」
柑子王子はそうおっしゃっていたけど、蜜柑王女とは仲がよろしいみたいで、それは本当に救いだな……
コチニールがそう思う側で、フォイーユモルトがほんの少しだけ微笑みながら柑子を見守っていた。
早朝の別荘はしんと静まり返っている。
昨夜は夜遅くまで食べて飲んで笑って騒いで、やがて各々好きな部屋に吸い込まれてたっぷりと眠りに落ちた。
勿論笑って騒いでいたのは主に緋色だが、夜に見えた思わぬ客人のおかげで柑子もかなり気がほぐれたようだった。
おかげで日が昇り、別荘を包む霞が晴れ、景色に湖の一部が復活しても、まだ誰も起きてはこない。たった一人の少女を除いて。
赤紫色の少女はリビングのテラスに立ち、伸びをした。
別に早起きというわけではないが、赤星紅国にいた頃の習慣がもはや身についてしまっている。
クリムスン家にいた時も、王宮楽坊にいた時も、とにかく朝は早くて稽古なり自主練なりに時間を費やしていたからだ。
彼女は背中を伸ばしながら目の前の景色を眺めた。林の隙間から淡い橙色の湖が顔を出している。今日も湖は穏やかで、ほとんど波はない。
そんな彼女の背中に、小さな足音が近づいた。
足音は彼女のすぐ側で立ち止まり「おはようございます」と、声を掛ける。
マゼンタは振り返った。
そこに昨晩初めて会った橙星の王女、蜜柑がポツンと立っていた。
「おはよう」
マゼンタは彼女に朝の挨拶を返す。
蜜柑は赤紫色の少女の隣に立った。
「とても気持ちのよい朝ですね」
「ああ」
橙星の王女は林の奥をぼんやりと見つめて話し始めた。
「昨晩兄君様から伺いました。マゼンタさんたちは、赤星の守人という方々だと」
「赤星紅国守人一族クリムスン家だ」
「それは、王族や民を護るお仕事をされる方々だと」
「そうだ」
「マゼンタさんも、なんですね」王女が隣に立つ守人の彼女を見上げる。
「ああ」
「なら……」
蜜柑王女は真っ直ぐマゼンタに向き直った。
「率直におっしゃってください。兄君様は、本当に、軍事学園で無事にお過ごしなのでしょうか?」




