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呼び出されたタウンハウスで、セシリーは父であるダドリー伯爵から告げられたのは、結婚を急ぐことはないが、学院に在籍しているあいだに婚約者を決めたいこと、家を継がせることのできる婚約者を選ぶこと、何人かと顔合わせをはじめることというような内容だった。
それらを胸に抱えたセシリーは、重たい気持ちを引きずったまま、アマベルとお茶を飲んでいた。タウンハウスにはこじんまりとしたアマベルの温室がある。ルーファスが一定の温度を保つように術式を構築したというそれは、硝子をふんだんに使用し、内からも外からも植物が映えるようになっていた。
その一画にテーブルと椅子が置かれている。緑の幕に囲まれた、日射しの気持ちの良い場所だった。
「お姉さまはどうしてレオンさまと婚約を結ぶことにしたのですか?」
家族しか居ないのだから許してほしい、と思いつつ、セシリーは背中を丸め、見上げるようにアマベルを見た。背筋を伸ばしたアマベルは口に含んだクッキーを咀嚼し、それから「わすれちゃったわ」と微笑んだ。
「どうしてだったかしら。でも、初めてお会いしたときの印象は悪くなかったのよ。魔力がないことも気にしないとおっしゃって。お父さまも気に入っていたみたいだったし、それならばと思ったのだけれど。商会を立ち上げるときにわたくしが意見を曲げないことが多々あって、それくらいからかしら。すこしずつすれ違うようになっていったのは」
ほら、レオンさまは従順な女性が好みでしょう、とアマベルは微笑んでみせた。なにひとつ気にしてはいないというような完璧な笑みで。
「いえ、学院に入学した頃にはもうすれ違い始めていたかもしれないわ」
ひととき、アマベルの視線が手元に落ちる。長い睫毛が瞳に影を落としていた。ふるりと、睫毛が震え、ゆるやかに瞬く。
セシリーにとって、完璧な淑女であるアマベルでさえ婚約破棄をされたことを思うと、なにが正解なのか、もう分からなかった。
「わたしには、どういう相手を選ぶべきか分からなくて」
そう力なく告げるセシリーに、アマベルは「あら?」というように眉を僅かに上げた。
「そうなの、でも……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、それから、困ったように小首を傾げたのち、アマベルは口を閉ざすことを選んだようだった。
「お姉さま?」
「ああ、いえ、そうねえ、そう……いえ、わたくしが小耳に挟んだ感じだと、最有力候補が居そうだったから。でも、今日のお父さまのお話がそれではなかったのなら、わたくしからはなにも言えないわ」
ごめんなさいね、と歯切れの悪いアマベルを眺めながら、セシリーは背筋を伸ばした。
(最有力候補! でも、今日のお話では複数人とお会いしてみる、という感じだったのに。なにかあるのかしら)
やさしく、セシリーのことを大切にしてくれるひとであれば良い。できれば魔術師として働くことを受け入れてくれるような。そう願いながら、セシリーはアマベルの淹れてくれた紅茶に口を付けた。ミルクをたっぷりと入れたそれは仄かに甘い。蜂蜜も垂らしてくれたのかもしれなかった。その優しさが胸の裡に広がってゆく。アマベルはこういうさりげないところがあった。
メイドにカップやポットの片付けを頼み、アマベルとセシリーが屋敷に戻ろうと庭の小道を辿っていると、屋敷の方からルーファスが現れた。不本意そうな表情で、纏う空気が普段よりも鋭い。
「どうしたの、ルーファス?」
「アマベルに用がある」
「わたくしに?」
分かった、とひとつ頷いて。こちらで話しましょう、とアマベルはルーファスを庭の方へと誘った。セシリーはふたりのあいだに流れる空気に小首を傾げながら、先に屋敷に戻ることにしたのだった。
(ルーファスは緊張してるのかしら。それにしても、機嫌が悪そうだったけれど)
タウンハウスに用意されているセシリーの部屋からは、庭を見下ろすことができる。急いで部屋に戻ったセシリーはどうしても気になって、カーテンの影に隠れるように窓からそっと覗いてみる。ふたりは四角く剪定された低木のあいだを歩いているところだった。ふいに、ルーファスがアマベルに花束を差し出す。紅色の薔薇の花束。それを受け取ったアマベルの嬉しそうな微笑みに、戸惑いを孕んでいるのがセシリーには分かった。
(まあ、ルーファスが花を贈るなんて!)
そういう甲斐性があったのかという驚きと、贈り物を受け取ることのできるうらやましさと、思い通りに進んでいることを喜ぶ心で、セシリーの裡は忙しい。すべてを眺めているのは気が引けて、窓から身体を無理にでも引き剥がすと部屋にあるソファのひとつに腰を下ろし、息を吐いた。
(それにしても、ルーファスの表情が固いわ。もっとやさしい顔をして見せたら良いのに)
ぼんやりと物思いに沈んでいると、ノックの音とともに、セシリー、と名前を呼ぶ声がした。そのやわらかい響きに、そうこんな感じよ、と思いかけて、ハッとする。ルーファスの声だった。
「ルーファス?どうしたの?」
常にタウンハウスに居るわけではないので、セシリー付きのメイドはいない。必要なときだけ、呼ぶことにしていた。セシリー自ら部屋の扉を開けると、先ほどまでとは異なり瞳にやわらかく光を滲ませたルーファスが立っている。
「なにかあった?」
「これをセシリーに渡そうと思って」
差し出されたのは薄紅色の一輪の薔薇だった。アマベルに渡していたような深紅ではなく、淡さを持つ薄紅のそれは、花が開きはじめたところのようで、まだ蕾に固さを残している。これから、うつくしく綻んでゆくのだろう。蕾でも、強すぎることのない華やかな香りが、鼻孔を擽る。
「わたしに?」
うん、喜ぶかと思って、と紡がれる言葉がやさしくセシリーを包みこんだ。
「ありがとう、嬉しい」
とても嬉しい。それは間違いのないセシリーの気持ちであるはずなのに、アマベルの花束を盗み見てしまったあとでは、心が沈んでゆく。
(差があるのは仕方ないのよ。それでも、わたしには笑顔を見せてくれているわけだし)
それだけで満足すべきなのは分かっていた。その方が、心が豊かで居られる。
「気に入らなかった?」
「ううん、そんなことないわ。ルーファスからお花をもらうのが初めてだから、すこし驚いただけよ。時間保持の魔術で寮まできれいに持って帰りたいわ」
時間保持の魔術を用いれば、一定期間の鮮度を保つことができた。花だけでなく、食料にも用いることができる。セシリーではあれば、寮に帰るころまでは保つようにかけられるはずだった。
「そうかと思って、もうかけてある。面倒な術式の構築を頼んできた依頼主の庭に咲いていた花をもらったんだ。セシリーが気に入ったなら、また頼んでみる」
「まあ、ありがとう。でも、わたしのことをそこまで気にかけてくれなくても良いのよ」
「僕がセシリーに贈りたいから」
棘が綺麗に落とされた薔薇を持つセシリーの手の甲を、ルーファスのゆびさきがそっと撫でた。「ね、いいでしょう」とルーファスのまなざしが子どものころに戻ってゆく。甘えるときのそれに変わる。
「わ、わかったわ。無理のない程度に」
声に動揺が現れて、耳先も赤く染まっているような気がした。それを隠すように、セシリーは視線を下げた。下ろしただけの髪が落ちる。セシリーが丁寧に厳重に閉まっておいた気持ちに、ルーファスは簡単に触れて引きずり出そうとする。ルーファスのその甘え方に弱いことを、セシリー自身も分かっていた。
うん、とルーファスは満足げにひとつ頷くと、それじゃあねと部屋を後にした。扉を閉じたあと、セシリーは覚束ない足取りでソファへと戻り、重い身体を沈めた。
(あの甘え方をされると、とても断れない。人の気持ちも知らないで……!)
倒れ込むようにソファに座っていたセシリーは手のなかに残った薔薇を掲げ、見上げる。その繊細でうつくしい花弁にそっと触れてみる。冷静になってみると、ルーファスから花をもらったことはとても嬉しい。
(大切にしよう。わたしの宝物だわ)
セシリーの心を反映するように、薔薇の花が僅かに綻んだような気がした。
ここで、2章が終わりです。明日、ルーファス視点の2.5章を更新します。