5‐1
休暇前のパーティは、晴れた午后に開かれた。ドレスを鎧い、化粧をし、イヤリングとネックレスで飾り。そうして、セシリーは鏡のまえで胸を張る。
(今日のわたしはとても綺麗にしてもらったもの。誰になにを言われても気にしないわ)
そう何度か唱えたのち、ゆるやかに口角を上げる。鏡のなかで、化粧とアップスタイルの髪型でいつもより大人びたセシリーが、優雅に微笑みかえした。
「行きましょう」
その声に、もうひとりのセシリーが、大丈夫だと言うように頷いてみせた。
エスコート相手とは寮の入り口か会場の入り口で待ち合わせることが多かったが、セシリーは中庭の薔薇園を指定していた。気恥ずかしさを隠すように。
待ち合わせの時間に合わせ、彼女は薔薇園に足を踏み入れる。石畳のうえを、ゆるやかな足取りで進んでゆく。今日の薔薇たちは静かだった。生徒たちの浮き足だった空気と相対するように、静まりかえっている。ただ、セシリーの行き先を固唾を飲んで見守るような緊張感があった。
(おかしな感じ。どうしたのかしら)
いつだって、姦しくおしゃべりだった薔薇たちが。
巨大な迷路のように薔薇で作られた通路を進んださきに四阿が現れる。慣れ親しんだその場所に人影が佇んでいることに気が付いて、セシリーは少し足を早めた。ドレスを纏った彼女の、できるだけの早さで。
四阿の柱に寄りかかるようにして立っていた影が顔をあげる。夜空色のドレスのセシリーを迎えたのはルーファスだった。眼鏡をかけず、前髪を上げて、彼の美しい夜空の瞳が輝いている。前髪に隠れていた整った輪郭やすっと通った鼻筋が表に出ていた。姉妹たちしか知らなかった幼馴染みの端正な顔立ち。その彼の夜空色の視線が溶けるようにセシリーを見つめていた。ひととき息を飲んだように言葉を失うと、それから満面の笑みを溢した。
「ああ、セシリー、とても似合ってる!」
その湿度の高い声音に、セシリーの身体が震える。ルーファスにそう言ってもらえることが嬉しくて、ありがとうと応える声もまた、震えてしまう。差し出されたルーファスの手を取りかけて、セシリーは寸前で指先を止めた。
「でも、その……わたし、ロイさまにエスコートしていただく約束をしているの」
その言葉に、子どもの頃のように唇を尖らせて、ルーファスは拗ねたように告げる。
「彼にはもう話してある。ドレスも贈ったし、そのパーティの後に話を聞く約束もしたのに、別のひとのエスコートの申し出を受けるなんて、酷いよ。セシリー」
その言葉に、セシリーは瞬きを幾度か繰り返した。
「ルーファスが贈ってくれたドレスだったの?」
「君がきれいだと言ってくれた、僕の目の色と同じドレスなのに、気がついてくれないなんて」
セシリーは送り主の書かれていないことの文句のひとつでも言おうとした言葉を飲み込んだ。
(ルーファスの目の色のドレス!)
彼の色を纏っているという事実に気がついて、セシリーの身体をカッと熱を帯びる。髪で隠されていない耳のさきが赤く染まっていた。それを誤魔化すように俯くと、ルーファスの機嫌が良くなったようだった。
「さあ、行きましょう、お姫さま」
「ええ」
言葉少なに頷いて、セシリーは諦めたようにその手を取った。静かだった薔薇たちが、きゃらきゃらと明るい声で話しはじめ、その渦にふたりはのみこまれてゆく。
夜会と異なり、会場は開放的に作られ、庭と室内が地続きのように人々が行き交っている。色鮮やかなドレスに包まれた少女たちがきらきらと燦めいていた。ホール内に飾られた絵画の人物たちも、今日はあちこちを歩きまわり、騒がしい。
足を踏み入れたセシリーへ周囲の視線がまとわりつくように感じ、思わず動きを止めた。それに気が付いたルーファスがそっと彼女の腰を引き寄せ、その視線を遮る。セシリーはゆるやかに息を吐くと、ルーファスの熱に導かれるように足を踏み出した。
会場を回り、友人たちと小鳥が囀るように話をしているうち、向けられる視線がセシリーへの好奇心とは違うもののように感じはじめた。
(これって、ルーファスへの視線……?)
ちらりと隣に佇むルーファスへ視線を向ければ、彼は「何?」と尋ねるように小首を傾げてくる。細いグラスを持つ手つきと相俟って、その仕草が輝いて見えた。
(眼鏡をとって、髪を整えて、いつも隠れていた顔も見えてるんだもの。普段と違う姿にときめく生徒が居てもおかしくないわ)
これまで、学院の行事でエスコートを頼んだ時の彼は、髪は最低限に整え、眼鏡を取ることもなかった。今日になって、急にきちんと整えて参加するなんて!
セシリー自身、普段のように振る舞えているか自信がない。見つめられるたび、触れられるたび、胸がどきどきとしている。
「どうしたの? なにかあった?」
セシリーに合わせてかがみ込んだルーファスの顔がセシリーに近づいて。心臓が締め付けるように痛む。鼓動の音が聞こえてしまわないか、ひやひやしてしまう。
「な、なんでもないの。ただ……」
「ただ?」
そう繰り返し、先を促すルーファスになんと伝えようか迷ったセシリーが、言い淀む。視線を泳がせた先で、セシリーは見たくない人影を見てしまい、息を飲んだ。
アイリーンが、友人たちに囲まれて会場内へと進んでくる。愛らしく微笑んで、裾を白く染めた薄赤いドレスで泳ぐように軽やかな足取りで。その視線のさきを辿ったルーファスも彼らの姿を見つけ、咄嗟にセシリーを背中へと隠す。それよりも先に、アイリーンがセシリーを見つけてしまった。
まあ、と目を瞠ると、隣にいた少女――かつてセシリーに一方的にあれこれと言ってきた少女になにやら囁いている。くすくすと、忍び笑いが起こるのをルーファスの背中越しに見てしまった。
「あら、セシリーさま。アマベルさまは、いまだにレオンさまとわたくしの婚約の邪魔をしているようですわね」
鈴の音のような軽やかな声が会場内によく響いた。向けられた視線を断ち切るように、セシリーはゆっくりと瞬きを繰り返し。深呼吸をひとつ。それから、背筋を伸ばし胸を張ると、ルーファスの影からゆっくりと彼女たちの前に姿を見せた。まっすぐな瞳で彼女たちを射貫いて。
「ごきげんよう、アイリーンさま。お言葉ですが、姉にはお二人の仲を邪魔する理由がございませんわ」
「そんなことを仰って。まだ、レオンさまのことを好いておられるのでしょう? レオンさまは伯爵家のご子息でいらっしゃるし、商会を立ち上げて自ら商売もされている優秀なお方ですよ」
セシリーは頭がくらくらする思いでその言葉を聞いていた。
(レオンさまは、アイリーンさまになんて説明をなさっているの……。彼女はあまりにもなにも知らなすぎる)
言いたいことは山のようにあり、何から彼女に説明すべきかをセシリーは咄嗟に決めかねて口籠もってしまう。その様子を、アイリーンは自らの優位と受け取ったようで、さらに言葉と続けた。
「レオンさまは、将来、伯爵位をお継ぎになると言うし、わたくしのことを大変大切にしてくださって、いろいろと贈り物をしてくださるの。ね、ですから、わたくしたちの婚約の邪魔をなさらないようにとお伝えしてくださいな」
アイリーンの、紅ののった愛らしい唇から零れる言葉に、セシリーは耳を塞ぎたくなってしまった。嬉しそうな声が、幾重にもなった帳の向こう側から聞こえてくるような錯覚に襲われる。
「ねえ、セシリー。本当のことを教えてあげれば?」
黙ってその様子を眺めていたルーファスが彼女の隣に寄り添いなおし、そっと囁いた。腰に回された手から熱が伝わり、セシリーを現実に呼び戻す。
「でも……」
言葉を飲み込んだセシリーとルーファスの表情に気が付いたように、アイリーンが胡乱げな表情を浮かべる。
「なんですの?」
「いや、君って本当に何も聞いていないのだね」
アイリーンの言葉に応えるように、軽やかな声が降ってくる。様子を伺うようにしんとしていた会場の二階テラスから、軽やかな足取りで降りてきたのは、この国の第二王子であるウィリアムだった。自身を象徴する、アイスブルーの正装を身に纏い、楽しげな笑みを浮かべている。
第二王子はセシリーのふたつ年上で、学院内で見たことはあっても関わることはなかった。いくら、貴族も平民も通う平等を掲げた学び舎だとしてもそこには大きな壁が確かに生じている。それは貴族内でも変わらない。
「で、殿下」
咄嗟にカーテーシーの姿勢を取ったセシリーを手で制し、ウィリアムは微笑んだ。ルーファスがふたりの間に身体を滑りこませると、呆れたように尋ねる。
「なにをなさるおつもりですか」
「パーティに招待されたからね、様子を見に来たら面白そうなことになっていた」
にこやかな笑顔でそう応えた第二王子は、あらためてアイリーンに向き直ると、興味深げに彼女を観察し。それから、軽い口調で告げる。その通りの良い声は心地よく、会場を支配してゆく。
「そう、僕が口を挟むことではないけれどね、ダドリー伯爵令嬢への言葉は言いがかりだよ。レオン・ハワードは、アマベル・ネヴィルと婚姻し、ネヴィル家の爵位を継ぐことになっていた。その婚約が破棄された結果、彼が爵位を継ぐことはない」
そうだね、と言うように、ウィリアムはセシリーに目線で尋ねる。彼女は、アイリーンについとまなざしを送り、それからウィリアムに向き直る。左様でございます、と頷いて見せた。それに、満足げに頷くと、ふたたび口をひらいた。
「三男である彼が、ハワード家の爵位を継ぐことはないからね。レイ伯爵は子爵の位もお持ちのはずだが、それは第二子に譲られるのだろう。ああ、それと商会だったか」
話して良いだろうかという視線をウィリアムから感じ、セシリーは背筋が僅かに震えた。
(なにもかもご存知なんだわ……)
それは、ネヴィル家とレオンによる秘密のはずだった。
「わたくしから、お話しいたします。あの商会は、父とレオンさまが立ち上げたことになっておりますが、実際は姉が立ち上げたものです。結婚後はふたりで経営していくつもりだったかもしれませんが、婚約時点では姉がその一切を担っており、レオンさまは実務を含め携わっておりません。書類上も、レオンさまの名義にはなっておりません」
「そ、そんな嘘よ……」
震える声を落としたアイリーンの顔面は蒼白で、いまにも崩れ落ちそうだった。
「そして、ネヴィル家から彼に援助もしていたのでは?」
「ええ……その通りです。アイリーンさまとレオンさまの婚約がなかなか進まないのは、その、」
言葉を区切ったセシリーは、眉根を寄せる。令嬢らしからぬ振る舞いではあるが、何と告げるべきか、言葉に迷う。それに気が付いたように、セシリーに隣で佇んでいたルーファスの手が彼女を後押しするようにやさしくぽんぽんと腰を叩いた。
「婚約破棄による損失と、新たな婚約の条件が釣り合わないからだと思われます」
婚約を破棄し、援助を打ち切られ、継ぐはずであった爵位や商会もすべて失って。レオン・ハワードを男爵の元に継がせるのならば、ハワード家にとって価値のある家にという思惑もあるのかもしれない。逆にパーシー家からすれば、爵位も商会もないレオン・ハワードと婚姻させる気がないのかもしれなかった。噂で聞く限り。実際のところ、それはセシリーには分からないけれど。
「そういうことだ。アマベル嬢が君たちを邪魔する必要は何もない。邪魔したところで彼女に益はないし、なにより、彼女は今も楽しくやっているようであるしね」
ウィリアムの、まるで彫像のように綺麗な笑顔は、有無を言わせない圧を伴っていた。
(本当に、なにもかもご存知なんだわ……これは確かにわたくしたちは試金石でしょうね)
どれだけ情報を集め、真実を見抜き、貴族として正しいと思われる振る舞いをできるかどうか。恐ろしいわ、とセシリーはウィリアムの笑顔をまじまじと見つめたのだった。
それと同時に、ロイの言葉を思い出す。篩いを振ろうしているひとが居ると、ロイはセシリーに教えてくれたのだった。
(まさか、それが、殿下ということでは……)
ロイとウィリアムが繫がっているならば、彼が教えてくれた噂の出所はウィリアムなのだろうし、セシリーが話したこともまた、ウィリアムの耳に入っている可能性がある。そのことに、セシリーはちいさく背筋を震わせた。
「し、しかし! まだ婚約者であったころにわたしに嫌がらせをしていたのは本当です。アマベルさまのすべてが嘘というわけでは」
それね、とウィリアムは底冷えのする瞳で、言い募るアイリーンを見つめた。周囲の空気が、冬の朝のように張り詰める。
「婚約者が異性と親密な付き合いをはじめたようだと知れば、諫めることくらいするだろうね。アマベル嬢は君たちふたりにそれぞれ苦言を呈しただろう。家のためにならない、とね。それを恋の障害と受け止めて盛り上がったのは君たちだ」
どうせそれ以上でもそれ以下でもない、とウィリアムは切って捨てる。やわらかな佇まいを持つ第二王子が、冷たく切り捨てたということは、おそらくレオンもアイリーンも彼らのお眼鏡には叶わなかったのだ、とセシリーはおもった。
(そして、もしかして、お姉さまのことを……)
以前、アンが教えてくれたアマベルと仲の良かったひとの話を思い出す。そして、街へ出かけたとき、ルーファス以外にも、誰か一緒に居るようなことを言っていたことも。ルーファスは監視だと言っていた。それが誰だったのか、セシリーは知らない。知らないが、今は知らない方が良いような気がした。
そこまで考えて、隣にいるルーファスの様子を伺う。なにを考えているのか、セシリーには読めない。彼は淡々とアイリーンとウィリアムの様子を見つめていたが、セシリーのまなざしに気が付いたのか、やわらかな表情を彼女に見せた。普段なら髪と眼鏡で隠れている眦が光に溶けていた。
「さて、これでお話は終わりですね。それでは僕らはこれで」
同じく青褪めている友人に支えられたアイリーンは何も言うことができず、ただ立ち尽くしている。その様子に一瞥すらせず、ルーファスはセシリーの腰を抱え直すと視線の中心から抜けだそうとした。
「殿下もありがとうございました」
「いや、では例の通りに」
ウィリアムがルーファスにかけた一言を不審も思いつつ、セシリーは促されるままに彼らから離れる。彼らの視線が痛かったので。




