4‐2
タウンハウスに帰ると、邸は静けさの底で佇んでいた。人の動く気配と、風に揺れる植物のざわめき、それから鳥や虫たちの声に包まれた静けさ。
セシリーは馬車から下りるとそのまま中に入らず、庭のほうへと向かう。アマベルたちには帰ることを伝えていない。邸に居るのかどうも、セシリーは知らない。それでも構わなかった。今日は誰にも会いたくない。
タウンハウスの庭は、庭師とアマベルによって丁寧に世話をされている。どの時期でも、何かしらの花が綺麗に見えるように整えられていて、庭でお茶を楽しめるように、あちこちにテーブルを置くための空間がある。最奥には、大きく硝子窓が取られた温室が設えてあった。
温室には入らず、近くの木の下に腰をおろした。着替えた方が良いのは分かっていたが、自室まで行くのが億劫だった。一番のお気に入りのドレスではないので、自分を許すことにしてしまう。後でメイドに泣かれてしまうかもしれないが。
足元には枝をすり抜けた日光が、ゆらゆらと影を落としていた。さやさやと、木々がさざめく。肌寒さはあるが、心地よい。緑に囲まれて、誰も気が付くことはないだろうし、庭師は寡黙でセシリーのことはきっと話さないはずだった。
人の気配もしない静けさの奥底で蹲り、セシリーはぼんやりと風に吹かれていた。アンの言葉が蘇る。どうしたら良いのか分からなくなって、ひとりになるためにここに来た。セシリー自身が、なにをどうしたいのか分からなくなっていた。
ふいに、思い立ち、セシリーは近くに落ちていた木の枝を手に取った。そのまま、それをペンに見立て、地面に線を描いてゆく。
「力と動きの指定は正しく」
もう、随分前にこの術式を書いたときのことを思い出す。あれは、ルーファスがアマベルを好きなのだと、悟ったときのことだった。
「ひとつひとつの線を丁寧に」
繋げるところと繋げないところを明確にすること。
すべて、ルーファスが何度も繰り返し、教えてくれたことだった。術式を書くたびに何度だって思い出す。すぐに駆けだしてしまうセシリーのことを呼び止めて、手を繋ぎ、ゆっくり歩いてゆくように隣に居てくれたひとのこと。
「わたしは、お姉さまにもルーファスにも、幸せになってほしいから。だからもう、ふたりにちゃんと向き合って、見守ることにする。そうするわ」
書き上がった術式を眺め、セシリーは満足げに頷いた。記憶を改竄する術式は、セシリーのお守りだった。使うつもりはなかったけれど、それでもいつか、あまりに辛くなったときに、ルーファスへの気持ちを捨ててしまうつもりで構築した、たったひとつのお守り。でも、もうこれはセシリーには要らないもののように思えて、立ち上がると、足先でそれをぐちゃぐちゃに消す。すこしドレスの裾を持ち上げたその姿がはしたないとは自覚しつつも、セシリーにとっては必要なことだったので。
さようなら、と呟いた声は涙とともに落ち、術式であったもののなかに吸い込まれるように消えてゆく。ひととき、術式が魔力を篭められたように光を持ち、弱々しく消える。
「これは、もういちど、出会うための別離なのだから」
足から力が抜けたように蹲ると、セシリーは幼い子どものように丸くなり、肩を震わせていた。涙はひとつも溢さず、声もすこしも漏らさないまま。そのまま、どろりと足元が溶けて飲み込まれてしまえば良い、とセシリーは重たくなった頭で思った。
ぱちん、と何かがはじけるような音ともに魔力の気配がセシリーを覆い、セシリーの意識はそのなかに溶けていった。
***
それはよく晴れた午前のことだった。幼いセシリーはルーファスを連れ出して、カントリーハウスの周辺にある丘や森を駆け回っていた。普段であれば、誰かがふたりの様子を見ていたはずだが、その日はなぜかふたりきり。
ふたりは手をつないで森のなかに入り、細い小道を辿る。森のなかは虫や鳥たちの声に溢れ、木々のあいだから零れたひかりが点々と落ちていた。土の匂いと、青々と茂る植物の匂いが混ざり合い、セシリーたちの裡に入り込む。ひとの気配はないのに、騒がしい。セシリーは森のなかを歩いていくのが好きだった。
「見て、あそこに白いきのこが生えてる」
ルーファスは道から外れた木の根元に生えている、白く輝くきのこを指さした。ふわふわとした笠が、白いドレスのように揺れている。貴婦人が音楽に合わせてくるりくるりとダンスをしている。
「きれい!」
取ってくる、とそう言って道を外れようとしたルーファスに置いて行かれることが心細くて、セシリーは咄嗟に手を伸ばし、その後に続こうとした。そのとき、ルーファスの姿がぐらりと揺れた。踏み出した先は崖になっていて、前のめりの体勢で落ちてゆこうとするのが、セシリーの目にはゆっくりとした動きで見えた。ルーファスの手を掴み引き寄せようとしたが、ぐるりと身体が入れ替わる。その勢いのまま、セシリーは崖の下へと投げ出された。崖の上で尻餅をついたルーファスが驚いた表情を浮かべているのが見えたのが最後だった。
我に返ったルーファスは飛びつくように崖の下を覗き込む。草や枯れ葉の降り積もる底でセシリーが倒れていた。薄黄色のドレスに血がついているのが分かって、ルーファスの血の気が引いてゆく。
「ぼ、僕のせいだ……」
早くセシリーのところに行かなくちゃ、とルーファスは左右を見回し、比較的下りやすい場所を見つけると、慎重に下へとおりていった。
きのこの生えている箇所と小道のあるところは高さがほぼ変わらず、緑に覆われていたため、小道を外れた先が断崖になっていることに気がつかなかったのだった。
手に擦り傷をつくりながら降り立つと、セシリーの元へと駆け寄る。口元に掌を翳すと、呼気があたる。呼吸をしていることに安堵の息を漏らした。手足は折れていないようだったが、足の出血がひどい。ごめんなさい、と誰も聞いていない謝罪とともに、ルーファスはそっとドレスを捲る。太ももには落ちたときにぶつかったらしい、短剣のように先の鋭い石が刺さっていた。
「誰か、呼んでこないと……」
そのとき、ルーファスはセシリーのお守りのことを思い出した。首から下げられた鎖をひっぱると、ドレスの下からちいさな黒い袋が出てくる。そのなかに、よく怪我をするセシリーのために治癒の術式が書かれた紙が入っていた。ルーファスはまだ、魔力があるか調べていないので、この術式が使えるか分からない。それでも、セシリーのためにできることをしたかった。
「うう……」
呻き声をあげたセシリーの手を取って、ルーファスは「大丈夫」と囁いた。
「だいじょうぶ、僕がなんとかする」
顔にかかる髪を払い、ふたたび「大丈夫」と呟いた。それはセシリーにではなく、自分自身に言い聞かせるような切実な祈りに似ていた。
「セシリーにはずっと笑っていてほしいから」
魔術を使うところは見たことがあった。術式の書かれた紙を広げ、セシリーの身体のうえに乗せる。それから、ルーファスの掌を紙のうえに掲げる。
「そして、魔力を注ぐ……」
魔力はどうやったら注げるのかは知らない。それでも、セシリーの怪我が治ることをだけの願い続けた。ふいに、掌が熱くなり身体の力が吸われてゆくような感覚に襲われる。何かが身体から流れだしてゆく。ぎゅっと閉じていた目を開けると、術式が光を放っていた。以前見た、魔術が使われていたときと同じ。ルーファスはゆっくりと息を吸うと、流れに身を任せるように力を注ぎ続けた。術式の光がおさまったとき、セシリーのかすり傷は完治していたが、太ももの傷だけは痕が残ってしまっていた。
「ごめんね、セシリー」
それだけ呟いて、ルーファスは意識を手放した。身体も頭も重く、とても起きていられなかった。ただ、「ごめん」という言葉だけを繰り返していた。
帰ってこないふたりを心配し、探していた邸のひとたちがふたりを見つけたとき、セシリーとルーファスが手を繋いだ状態で倒れていた。セシリーがお守りとして持たされていた術式は焦げ付き、使われたことが明らかで、怪我は治療された状態だった。酷い怪我だったようで、痕は残されたまま。近くには誰も居らず、誰が治療したのかは終ぞ分からなかった。誰も、魔力を持つかどうかも分からない子どもが使ったとは考えなかった。
自室のベッドのうえで目を覚ましたとき、ふたりはこの時のことを覚えていなかった。森に入ったところは覚えていたが、その後のことはなにひとつ。時折、セシリーは痛みとともに「だいじょうぶ」と言い続けてくれたひとのことを夢に見る。誰かも知らない、その真っ直ぐで綺麗な瞳のこと。そうして漸く、普段忘れてしまっている太ももに残る傷のことを思い出すのだった。
***
魔力の気配を感じ、ルーファスは咄嗟に立ち上がった。居るはずのない、セシリーの魔力の気配。自室として与えられている邸内の部屋の窓からふわりと庭へと降り立った。セシリーの魔力の気配は、甘い香りがする。ふわふわとしたお菓子のような甘さを持つその魔力をお腹いっぱいに食べてしまいたくなる。庭の奥へと進んでゆくと、木の下に蹲る影があった。
慌てて駆け寄って抱き寄せる。呼吸は安定していて、怪我をしている様子もない。眠っているようにも見えた。安堵のため息をひとつ溢す。こういうとき、幼い頃に崖の下で倒れていたセシリーの姿と重なって、ひどく不安な気持ちに襲われる。もう一度、ゆっくりと息を吐いた。大丈夫、セシリーは寝ているだけだ。
気になるのは魔力の気配。足元には、消されたあとのある術式が地面に書かれていた。それが、記憶を弄る術式であることに気が付いて息を飲む。扱いが難しい、繊細な魔術だった。
魔力の痕跡は残っているが、起動には失敗しているように見える。しかし。記憶の魔術はなににどう作用するか分からない。寄る辺ない気持ちがルーファスの胸のうちに巣くってゆく。
セシリーには幼少期の記憶が一部ない。太腿に怪我をしたときの記憶だ。セシリーがあの記憶を取り戻すことをルーファスは恐れていた。ルーファス自身は魔力を持つことを知った数年後に、すべてを思い出していた。鈍い痛みとともに取り戻した記憶は、あまりに重すぎて彼ひとりでは支えきれず、何度も自分自身のことは許せなくなった。それを漸く乗り越えたのだ。あの怪我はルーファスの所為で、セシリーが負う必要のなかったものだと、今でもそう思っている。そして、あの頃、魔術を使うことができていたのなら、傷痕なんて残すことがなかったのに、とも。
「んん」
腕のなかのセシリーが声を漏らす。ルーファスは、術式の痕跡をひとつも残さず丁寧に消したのち、セシリーを持ち上げた。
「セシリー」
セシリーの名前を呼ぶと、胸のうちにあたたかなものが広がる。自分でも驚くくらい、やわらかい声をしている自覚がある。それに気が付いて欲しいひとは、気が付いてくれないけれど。
うん、と子どものような声とともに、セシリーが顔が胸元にすり寄せられる。セシリー、とふたたび名前を呼び、そっと身体を引き寄せて、力を篭める。あたたかい。その熱を、ずっと感じていたくなる。
部屋まで運ぶために歩きだしても、セシリーの瞼がひらくことはなかった。意識がぼんやりしているようなのが分かる。
「ううん」
邸内に入り、空気が変わったことに気が付いたのか、セシリーが何度目かの声をあげた。「起きた?」と声をかけると、セシリーの睫がふるりと震え。ぱちぱちと瞬きを繰り返し。そうしたのち。
「ルウ?」と子どものような声が落ちた。いつぶりか分からないその呼び方に動揺し、ルーファスの身体が大きく跳ねた。ルーファスは、セシリーがルウと呼ぶ時の甘えるような声が好きだった。もう二度と呼ばれることはないのだとおもっていたそれを、目の前に差し出され、飛びついてしまった。
セシリーの顔を覗きこむと、頭が覚醒してきたセシリーが状況を理解できずに、混乱して声をあげる。慌てて身体を起こそうとするので、「動かないで」とルーファスは慌てて声を落とした。
「部屋まで運ぶ」
「ひとりで行けるよ」
その応えの代わりに、頭に口づけをひとつ。なにが起きたのか理解できなかったセシリーが動きを止め、それからルーファスの胸元に顔を埋めた。耳の先まで赤く染まっている。その様子をかわいい、とおもってしまった。
「ほら、行けない」
からかうような声に返事をせず、セシリーはされるままになっていた。
「わたしね、お姉さまにもルーファスにも幸せになってほしいの。だから、休暇前のパーティが終わったら、話を聞いてくれる?」
顔を埋めながらくぐもった声で漏れてゆくその言葉に、ルーファスは、うんと頷いた。ルーファスにも、伝えたい話がある。ルーファスに抱かれた揺れが心地よく、目を固く瞑っていたセシリーはそのまま、余計なことを考えずにすむ、微睡みのなかへふたたび落ちていった。
セシリーの部屋の前でメイドとともに彼女の部屋のなかへと入った。そこには、かつてルーファスが贈った花々がドライフラワーに姿を変えて飾られていた。その様子にちいさく息を飲む。
「お嬢さま、花を贈られるたびにドライフラワーにしてほしいと言ってましたよ」
メイドの言葉に、ルーファスは、「うん」と掠れた声で頷いた。 大切にしてくれていることがとても嬉しく、胸の裡が愛しさで溢れてゆく。ゆっくりとセシリーをベッドのうえに下ろし、頬をゆっくりと撫でると、後のことはメイドに頼み、静かに部屋を後にしたのだった。
ここで4章が終わりです。
この後は、波乱の長期休暇前パーティ(微ざまぁもあるよ!)なのですが、ストックが切れそうなので、不定期更新になるかもしれません。。(できるだけ頑張るつもりです)
最後までお付き合いいただけると嬉しいです~




