3-1
セシリーは幼い頃より魔力の制御や術式の構築を苦手としていた。魔力量は学院でも一、二を争うほど多く、体内に存在する魔力から術式が必要とする量を調整して出力することができず、必要以上の魔力を篭めてしまう。そのため、望んだ結果を得ることができないことが多々あった。しかし、量に振り回されず制御を身につければ実技でも上位を狙えると先生に言われて以来、苦手な細やかな制御の特訓を今でも欠かさない。時々、ルーファスがこの特訓に付き合ってくれて、だいぶ制御ができるようになってきてはいた。しかし。今はアマベルの婚約破棄と、自らの将来のことを考えると、その特訓にもいまいち身が入らない。
(今日は、全然だめ……)
水の制御を誤り、水浸しにしてしまった空き教室を見渡して、セシリーはため息をついた。諦めて、教室の壁に設置されている掃除用の魔道具の術式に魔力を篭め、起動させる。学院に設置されている術式は、魔力量を誤っても、起動できるようになっていた。その分、効果が大雑把であるけれど。
瞬きする間もなく元通りに修復された教室を見回して、セシリーは呼吸を整えた。
「セシリーさま」
その声に背筋が震え。振り返ると、教室の入り口に、あの金がかった薄紅の影が揺れていた。ふわふわとした髪が高い位置にふたつに結わえられ、くるくるりと落ちていた。こてん、と小首を傾げる様は愛らしいと言うのだろうが、セシリーにはどこか芝居がかって見えた。
「アイリーンさま、どうかされました?」
「あの、先日は申し訳ありませんでした。アマベルさまは?」
何が聞きたいのでしょうと返す言葉を飲み込んで、セシリーは悲しげに眉尻を下げ、アイリーンを見つめる。
「姉は、タウンハウスに引き籠もっておりまして……。折を見て、カントリーハウスへ戻るのではないかと思いますわ」
「そうですか」
その悲しげな表情の裏で、瞳の奥が嬉しそうに瞬いたのをセシリーは見逃さなかった。とても、かわいらしいお人形のような令嬢には見えない。
「その、婚約の方は恙なく解消されまして?」
「当家としては受けるつもりだと聞いております。話が進んでいるかまではわたくしでは、分かりかねますわ」
申し訳ありません、と視線を下げるアイリーンの、上がる口角を見なかったことにして。第一、セシリーにはこれ以上言えることがない。ところで、とセシリーは続けて尋ねた。
「レオンさまは、アイリーンさまの家に婿入りされるのですか?」
「どういうことです?」
何を言っているのか理解できないと言うように、顔を上げたアイリーンは小首を傾げる。そして、そのようなことはあり得ないと首を振ってみせた。それに対し、セシリーは困惑しながら話を続ける。
「いえ、レオンさまは家を継げませんし、当家に婿入りされる予定でしたので、どうされるのかなとただ、気になっただけなのですが……」
アイリーンはその言葉に、はっとした表情を浮かべ。それから、顔を赤く染め、セシリーの佇む教室のなかへと足を踏み入れる。
「レオンさまが家を出られるなんて、嘘よ、とても信じられませんわ。そのような嘘を吐かれるとは、姉が姉なら、妹も妹ですのね。無礼な方」
「セシリーの言うことは本当ですよ」
ふたりの間に冷たい男性の声が割り込んでくる。声に誘われるように視線を入り口に向けると、面倒くさそうなルーファスが立っていた。眼鏡と前髪に隠れて表情が分かりにくいが、呆れているのが察せられる。
アイリーンは、セシリーの前で脱げかけていた儚い少女の仮面を被り直し、潤んだ視線をルーファスへと向けた。その変わり様にルーファスは嫌そうに眉間に皺を寄せる。貴族だけでなく、異性相手の仮面ということらしい。
「わたくし、セシリーさまにアマベルさまの婚約解消のことで酷いことを言われていたのですわ」
湿度の高い声音で語られるその言葉と視線を躱し、ルーファスは突き放すように応じた。
「そうですか、私が聞いたのはそういう風ではなかったので」
「ひ、ひどいわ……」
大きく開かれた瞳が滲み、涙が零れ落ちる。それを拭うこともせず、アイリーンは足早にルーファスの脇をすり抜けて教室を後にした。セシリーはそれをただ、眺めていることしかできなかった。金がかった薄紅の影が見えなくなるまで見送って、ルーファスはため息とともに溢す。
「なるほど、アマベルが酷いことをしたって言うのはこうやって作られていくのか」
会話が噛み合わず、言ってもいないことを言ったように取られ。そうして、アイリーンに対するアマベルの言動が大きな嘘と少しの真実に固められて、レオンに告げられた。レオンは、恋したアマベルの言葉を信じ、婚約者であったアマベルの話を聞くことはなかった。それがすべて。
「すべてが嘘ではない、というのが悪質なところね。お姉さまも、婚約者のいる男性に対しての言動ではないと苦言を呈したこともあったようだし」
以前、ルーファスが指摘した通りにお茶会への招待もしていない。
入り口に寄りかかっていたルーファスがふわりと身体を起こし、セシリーへとゆるやかな足取りで近づく。彼はいつも猫のように静かに動く。先ほどまでの固い表情は和らいでいた。
「それにしても、君ももう少し警戒して」
「そうね、それは今回のことで学びました。気をつけるわ」
セシリーは重々しく頷いてみせた。今回も関わるつもりがあったわけではなかったが、今後も関わりあいたいとは思わない。先ほどの返答を思い返すと、アイリーンはもしかしたらレオンがレイ伯爵の第三子であることを知らなかったのかもしれない。そうだとしても、セシリーにももう口に出して指摘するつもりはなかったが。
ルーファスがするりとセシリーの手を取って、やわらかく手の甲を撫でる。眼鏡越しに、星屑を散りばめられた瞳から熱が零れていた。思いがけず、手を引こうとするセシリーの動きを見透かすように、ほんの僅か、力を篭め直して引き留めて。そして、なにもなかったかのように、話を続けた。
「アマベルの婚約解消は本当に進んでるの?」
「ええ、そのはずだけれど……お姉さまに婚約申し込みする気になった? でも、ルーファスって、お義兄さまって感じがしないわね」
お義兄さまという響きが口のなかで苦みとともに広がってゆくのをセシリーは感じていた。セシリーにとって大切なふたりが、幸せになってほしい。それは心からの願いであって。でも、そのなかにセシリー自身が入っていないことは、いつになっても悲しい。
「あのね、どうしてそうなるの。アマベルに婚約の申し込みはしないよ」
呆れたような声音を出すルーファスを見ないようにして、セシリーはため息をひとつ、気が付かれないようにそっと教室のなかに落とした。
(もう隠さなくても良いし、お姉さまと婚約することだって許してもらえそうなのに)
だって、もうずっと彼女は知っているのだから。アマベルには、あの日以降も花を贈っているようだった。セシリーにも、時折、銀の縁取りをした紺色のリボンで束ねられた花束が届く。ついで、なのかどうかは分からないが、自室のなかに花が増えてゆくのは嬉しかった。セシリーは枯れる前にドライフラワーにしてもらえるようにメイドにお願いしている。
「わたくしの婚約の話も進んでいるのですって。どこかの伯爵家のご子息とお会いするの。いつかとは思っていたけれど、いつかって、近いものなのね」
「それは……まずいな」
ルーファスの口から思わずと言った様子で落ちた言葉を、セシリーは聞き取ることができず小首を傾げた。彼自身も、彼女から手を離し、そのまま口を覆ってしまい、その言葉を聞かせるつもりはないようだった。
「用事を思い出した」
そうして、ルーファスはセシリーの返事も待たずに急いで教室から出ていってしまう。彼女はその背に「何か話があったのでは」と問いかけようとして、その言葉を飲み込んだ。
(急いでいるなら、今度会ったときに尋ねれば良いわ)
セシリーはそうして、伸ばそうとした指先を下ろしてしまったのだったが、ルーファスはしばらく講義に姿を現わさなくなってしまい、とうとうこの時のことを聞けずじまいになってしまったのだった。
「婚約破棄をされたアマベルが、レオンとアイリーンの婚約の邪魔をしているらしい」という噂が王立学院のなかで囁かれるようになっていた。背びれと尾びれを付けた魚が優雅に生徒たちのあいだを泳いでゆく。
(そのようなわけないじゃない……)
セシリーは呆れた様子で、その噂を食べて大きくなった魚を丁寧に避けていた。はずだった。育ち過ぎた魚がぶつかってくるまでは。
「聞きましたわ。皆様の前で婚約破棄をされたのに、まだ未練がお有りなのね」
移動教室の途中、外廊下を歩いていたセシリーのまえに友人二人を引き連れた令嬢が声をかけてきた。残念ながら、周囲に人影はない。伸びた金の髪を優雅に後ろに払いながら、彼女は告げた。
「姉は、領地に戻ると楽しそうに準備しておりますが」
「まあ、そのようなこと、信じられませんわ」
「信じられずとも結構ですが、もう、姉の婚約は解消されているはずですし、こちらは無関係ですので」
アイリーンと一緒に居るのを見たことがある、と思い出しながら、セシリーは固くなった声音を隠すこともなく返事をする。たしか、令嬢たちの集まりのなかで、アマベルと何度か対立していたご令嬢ではなかったか。家族には穏便な父ではあるが、貴族社会のなかには派閥や対立がある。親同士の派閥はそのまま、子息子女の関係性にも繫がってゆくことも皆無ではない。
何を言っても信じる気のない様子に、セシリーの方が苛立ってきた。
(本当に無関係なのだから何も知らないのよ。あちらの親同士の問題でしょう)
思うことはたくさんあるが、口に出すことはできない。余計なことをしたくない、とセシリーは口を噤むことを選び、好き勝手言って満足したらしい彼女たちは「邪魔立てなんて無粋ですわ」と言い残して去っていった。
この一件以降、ますます噂は広がってゆき、娯楽として彼らの婚約解消劇が消費されてゆく。婚約が思うように進まないらしく機嫌の悪いアイリーンを眺め、楽しそうに日々を過ごしているアマベルの様子を思い、板挟みの自らの立ち位置に思いをはせた。
あれから、父による婚約の打診は進んでいるらしい。顔合わせを兼ねたお茶会が開きたいと何度か聞かされた。しかし、とセシリーは思う。
(なぜかお茶会やお会いする約束が直前でお断りされるのよね……)
急な体調不良や直前に別の令嬢との婚約が決まったりと言った、様々な理由で。その断りの理由のひとつとして、この噂もまた関わっているのかもしれなかった。
(アイリーンさまたちがここまで裏で手を引いているとは思いたくはないけれど)
本当のところがどうなのか、セシリーにはもう判断できなかった。もしかしたら、太ももに残る傷跡のことでお断りされているのかもしれない。仕方がないのよね、とぽつりと心の裡で溢し。セシリーは校舎をするりと抜け出して、中庭にある薔薇園を目指した。ひとりになりたいとき、あらゆるものを投げだしたいとき、セシリーは薔薇園へと逃げ込むようになっていた。
学院の庭師の手により丁寧に育てられた薔薇園には複雑な術式が組まれ、1年中薔薇が花開いている。濃厚な香りをドレスのように四肢に纏って、セシリーは四阿の片隅にぼんやりと腰を下ろしていた。時折、風がセシリーの下ろした髪や制服の裾で遊んで過ぎてゆく。
(お姉さまの婚約破棄のことなんて知らないし、わたしの婚約もうまくゆかないし……)
だれも見ていないからと、膝を立て顔を埋めてしまう。風が緑を撫でて過ぎゆく音、鳥の囀る声が遠くから聞こえていた。さらさらと吹き抜けてゆく風の音に紛れ、薔薇たちが楽しげに笑いあっている声が届いた。その声に誘われるように、セシリーの意識がふわりと浮かんで沈んでゆく。
「ご気分が優れませんか?」
微睡みの底で漂っていたセシリーはその声に掬い上げられ、慌てて顔を上げた。傍らに、中庭で時折見かける男子学生が佇んでいた。黒い髪の片側だけ耳にかけた彼が、心配そうに黒い瞳を揺らしている。咄嗟に立てていた足を下ろし、さっとドレスの裾を直す。耳のさきが赤く染まっているのに気が付かないでほしいと願いながら。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません。大丈夫です。その、少し何も考えずにぼんやりしていただけですので」
「大丈夫なら、安心しました」
そこで言葉を切った彼が、思案するように視線を流し、それから心を決めたように口を開いた。良くない話も聞きますので、と付け加えられた、やさしい囁きのような声にセシリーは瞳をまあるくし、動きを止めた。それをやわらかな瞳で見下ろしていた彼は、ゆるやかに微笑んでみせた。
「余計なことでした。私は、ロイ・シーモアと申します。どうぞ、名前でお呼びください」
「わたくしは、セシリー・ネヴィルと」
「存じ上げております。セシリー嬢とお呼びしても?」
「ええ、どうぞ。わたくしの噂をお聞きになって、心配して声をかけてくださったのですね」
そうですね、と応じた彼は、微かな衣擦れの音とともに、セシリーの向かいに腰を下ろした。ロイ・シーモアと言えば、セシリーの同級生でクレイ子爵の嫡男ではなかっただろうか、とぼんやりとした記憶を引っ張り出す。
「以前から、中庭に来るとよく見かけると思っていました。あの婚約破棄の一件があってから、どこか元気がなさそうだったので、気になっていて……。今日は崩れおちるように座っていたので、もしかして体調でも悪いのかと心配に」
不躾に声をかけてしまい、申し訳ないと軽く頭を下げられたセシリーは慌てて、首を横に振ってみせた。
「だれもいないと思って、気を抜いていたわたくしが悪いのです」
ありがとうございます、と微笑めば、やわらかな視線が返ってくる。
「噂については、あまり気にせずとも良いと思いますよ。あの婚約破棄において、どちらが一方的な言いがかりなのか、周囲はきちんと把握しています」
「そう、でしょうか」
応じた声が、心許なく揺れる。幼い子どものような寄る辺ない声で。
「ええ、そうですよ。その判断ができないのであれば、貴族社会で生きていくのは難しいかもしれませんね」
その言葉にセシリーははっと顔を上げる。ロイの瞳がただ静かにセシリーのことを見ていた。黒い瞳の奥に赤が混じる。それは静かに凪いでいるようで、冷たい海の色のようにも見えた。
「それでは、わたくしたち姉妹は試金石のようですね」
あの婚約破棄とその後のレオンとアイリーンの婚約が進まない一件を、出来事や噂をありのまま受け止めるのではなく、不貞を働いたのはどちらか、婚約が進まないのはなぜかを正しい情報を集め、きちんと判断できるかどうか。それは、表向きは穏やかに優雅な会話を交わし、その裏では陰謀や策略の渦巻く貴族社会という荒波のなかを泳いでまわることができるかを判断するための。
はは、とロイはやわらかい笑みを溢した。
「そういう言い方をしてしまえばそうですね」
「わたくしは、今日も堂々と試金石の役目を果たしますわ」
そう思ってしまえば、気が楽になる。肩の力を抜き、固い蕾が綻ぶように微笑んだ。その笑顔にロイはしばし、見とれるように眺め。それから、そうですねと頷いて見せた。
「ありがとうございます、気が楽になりました。本日はこれで失礼いたしますね」
かろやかに立ち上がったセシリーに、ロイは、失礼ですが、と声をかける。その声音に焦りを感じ、セシリーは不思議そうに小首を傾げながら、彼を見下ろす。
「また、こちらでお見かけした際はお声をかけてもよろしいでしょうか」
その言葉に、セシリーは僅かに言葉に詰まる。男性と二人きりで会うのは許されるだろうか。
(でも、考えてみれば、屋外の見晴らしの良い四阿だもの。ロイさまもそんなつもりはないでしょうし)
「ええ、もしまたお会いすることがありましたら、その時には」
「ありがとうございます」
どこか熱っぽさを孕んだ視線を向けられているのを、気のせいだと思い直し、セシリーは挨拶をすると四阿を後にした。
ロイとは、その後も会ったり会わなかったりし、気が付けばあれこれと雑談を交わす仲になっていた。お互いに好きな小説を持ち寄って話をしたりするのはとても楽しかったので。
ロイくんは、書いている私としても好きなキャラです。




