表の顔
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鈴木よしおの人生には二つの側面がある。
一つは祓い手としての側面。怨霊の首を握り潰し、死霊を精神世界に取り込み、愛とは何かを叫びながら涙を流す狂人としての側面だ。
もう一つはビルメンテナンス清掃業の正社員としての側面であり、こちらの方がよしおにとっての表の顔ということになる。
彼がどちらの顔に於いてより生き生きとしているかは、見る者によって意見が割れるだろう。
少なくとも灰田 晃はよしおがモップを握っている時がいちばん厄介だと思っていた。
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本日は深夜清掃である。
通常の定期清掃は日中に行うのが一般的だが、テナントの業務に支障を出したくない場合は深夜帯に作業を組むことがある。当然ながら深夜手当が発生し、通常の時給に対して25パーセントの割増が法定で定められている。
この割増時給こそが、アルバイトの晃と真衣がわざわざ深夜のシフトに手を挙げた最大の動機であった。
晃はバンド活動の資金が要る。彼のバンド「ロゼッタ」は都内のライブハウスを中心に活動しており、晃が担当するベースの楽器がそろそろ限界を迎えていた。次に狙っているのはフェンダーのジャズベースで、中古でも12万はする。日中の時給では到底追いつかない。
真衣の方はもっと切実かもしれない。彼女は或るアイドルグループの熱心なファンで、いわゆる「推し活」に注ぎ込む資金が慢性的に不足していた。ライブのチケット代にグッズ代に遠征の交通費。推しが生きている限り金は幾らあっても足りないのだ。
正社員のよしおはといえば、単に仕事があれば行くというだけの男だ。割増だろうが通常だろうが彼には関係ない。清掃があるなら清掃をする。それがよしおだ。
「鈴木さん、これもう十分じゃないすか」
晃が半ば呆れた声を出した。
都内某所のオフィスビル、その3階フロア。
午前2時を回ったところで、よしおはポリッシャーのパッドを取り替えている最中であった。
ちなみにポリッシャーとは円形の回転ブラシ、あるいはパッドを床に押し付けて回転させ、洗浄や磨きをする機械だ。床清掃のプロにとってはある種の聖剣にも等しい存在であり、使いこなせなければ一人前とは呼べない。
その操作は自転車に乗ることによく似ている。ハンドルを左に倒せば右へ行き、右に倒せば左へ行くという直感に反する挙動をするため、初心者がポリッシャーの制御に失敗して暴走させ、壁に激突させたり什器をなぎ倒したりする光景はビルメンの業界では「洗礼」と呼ばれている。
無論よしおがそんなヘマをする筈もなく、彼は片手でハンドルを軽く握り、もう片方の手で微調整するという、いかにも年季の入った操作をしていた。
「十分ではないです。色をみなさい」
よしおは晃にバケツの中身を覗かせた。
ポリッシャーで床を洗った後に残る汚水が溜まっている。その色は白く、薄く濁っていた。
「白っぽく濁った汚水はワックスが溶けている証拠です。つまり洗浄がワックス層に到達している。今日は定期清掃であって剥離ではないのだから、あくまで汚れだけを取らなければいけない。パッドの番手を落とします」
剥離とは既存のワックスを全て剥がす作業のことだ。ビルメンの世界では「ハクリ」と呼ばれ、「今日ハクリだから覚悟しとけ」は死刑宣告に等しい響きを持つ。
よしおはポリッシャーの底面から緑色のパッドを取り外し、赤いパッドに交換した。
ここで少々解説を加えておく。ポリッシャーのパッドには色による等級があり、これは研磨力の強弱に対応している。
白が最弱で赤・青・緑・茶と上がっていき黒が最強だ。緑は定期洗浄向けの中程度の研磨力を持つが、今回のフロアに使用されているPタイルの状態と既存ワックスの残り具合を鑑みれば赤に落とすのが適切だとよしおは判断した。
これは正しい判断だ。
正しい判断ではあるのだが、午前2時にパッドの色を変える程度のことに手を止めて後輩に解説するのはいかがなものか。
残りのフロアはまだ半分以上ある。
しかしよしおは手を抜くことが出来ない。人間の中身を知りたいと願う男が、床の上辺だけを撫でるような仕事をするわけにはいかないのだ。
……という理屈が成り立つかどうかは疑問だが、ともあれよしおは床掃除に関しては偏執的な男であった。
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よしおが掃除にこだわりだしたのは入社当初からだ。
清掃業というのは往々にして「食えればいい」程度の意識で取り組む者も多い。特にビルメンの清掃部門は人の入れ替わりが激しく、ここに来る前は何をやっていたのか分からないような人間も珍しくない。
よしおもかつては大手証券マンであり、その経歴からすれば清掃業は落ちぶれた先と見る向きもあるかもしれない。
しかしよしおはこの仕事を気に入っていた。
祓い手としての裏稼業と両立しやすい勤務形態であるという実利的な理由もあるが、それ以上に、汚れた床を清浄にしていく過程そのものによしおは一種の精神安定作用を見出していた。
四六時中軽度の鬱状態にあるよしおにとって、目に見える結果が返ってくる作業は貴重なのだ。
怨霊を祓った後の達成感は曖昧であり不確かだが、光沢度が50から75に上昇した床は嘘をつかない。
なお光沢度とはグロスメーターという計測器で測定する数値であり、60度の入射角で光を床面に当てた際の反射率を示す。30から40が日常清掃後の一般的な状態、70を超えれば鏡面に近い輝きとなり、素人の目にもはっきりと美しいと分かるレベルだ。
よしおは鞄の中に個人所有のグロスメーターを入れている。
会社支給品ではない。
自費で購入した。
「鈴木さんがあの光沢度のやつ……グロスなんとかを自分で買ったって聞いたんすけど、マジすか?」
晃が聞いたとき、よしおは特に恥じる様子もなく頷いた。
「業務用の計測器だからそこそこ値は張りましたが、いい買い物だったとおもいます。数字で品質を把握するのは仕事の基本ですよ」
元証券マンの口から出る台詞としてはもっともらしく聞こえる。
しかし床の光沢度のためにそれを実践しているという事実が、よしおという男の異常な真面目さを象徴していた。
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「あ、鈴木さん。お疲れ様です」
フロアの反対側からやってきたのは高野 真衣だった。
よしおと晃にとっては同じ会社の後輩にあたる。年齢としては晃と同年代くらいの若い女性で、明るくハキハキとした印象を持っている。
ただし「見える」体質であり、よしおの周囲にまとわりつく不可視の何かを漠然と感得できるらしい。もっとも真衣はそれを深く追求する性格ではなく、よしおがたまに纏っている底冷えのする気配を「ちょっと怖い」程度に片づけていた。
鈍い、というのではない。賢い、のだ。
深淵を覗きすぎないという生存戦略を無意識に選択できる者は、この業界に限らず長生きする。
「高野さん、お疲れ様です。4階は終わりましたか?」
「はい。掃き拭きと除塵はバッチリです」
「ありがとうございます。……ちなみに巾木の辺りはどうでした」
「きわ、ですか? えっと、特に汚れが溜まってるような感じはなかったですけど……」
よしおは微かに眉を動かした。
巾木というのは壁と床の境目にある細い板材のことだ。この周辺、業界で「きわ」と呼ばれる部分には、モップでは取りきれない微細な汚れが堆積しやすい。ポリッシャーも壁際には届かないため、きわの汚れは手作業で処理する他ない。
「一応僕が確認にいきますね」
よしおがそういうと、真衣はやや気まずそうな顔をした。
「あ、す、すみません。もしかして不十分でしたか……?」
「いえ、そういうことではなく……」
よしおは首を振り、少し考えてから口を開いた。
「きわの汚れというのは厄介でして。壁際はどうしてもモップが届かないのでワックスも薄くなりがちなんです。ワックスが薄い箇所は汚れが入り込みやすい。入り込んだ汚れは見た目には分かりにくいのですが、次にワックスを塗った時に黒ずみとして浮き出てくることがあります」
よしおの説明は丁寧だった。
真衣を咎めているのではなく、純粋に教えようとしているのだ。
「なるほど……」
「ワックスは1平方メートルあたり約25ミリリットルが適量です。それを薄く、均一に、泡立てずに塗るのが三原則なんですが、きわだけはどうしても塗布量がブレやすい。だから下地の汚れの処理が甘いと後で響くんです」
真衣は素直に頷いていた。
これがよしおの良い面だ。彼は後輩に対して高圧的になることがなく、指導は常に穏やかで具体的である。
善良、誠実、そして清掃に関しては些か度を越した几帳面さ。
それが鈴木よしおの代名詞と言えよう。
……ところでこの代名詞を授けられた男は昨夜、少女の怨霊の首を握り潰して自身の精神世界に取り込んでいるのだが、その事実を知る者はこの場に一人もいない。
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「鈴木さんってほんと掃除好きっすよね。いつも思うけど仕事の域超えてません?」
晃がウェットバキュームの片付けをしながら言った。
ウェットバキュームとは床の汚水を吸い取る掃除機のことだ。洗浄作業の後はこれで汚水を回収し、清水ですすぎ洗いをし、完全に乾燥させてからワックスを塗布する。
この工程を一つでも飛ばせば仕上がりに影響が出る。
特に「すすぎ」を怠ると洗剤の成分が残留し、ワックスの密着不良を引き起こす。密着不良を起こしたワックスは短期間で剥がれたり、白く曇ったりする。
業界ではこの白濁現象をブラッシングと呼び、雨天や高湿度の日に作業すると発生しやすい。
よしおは今夜の湿度をスマートフォンの天気アプリで確認しており、それが58パーセントであることを把握した上で作業に臨んでいた。ブラッシングの危険域は湿度80パーセント以上とされているため問題はないが、念のため送風機を用意してある。
「好きですよ」
よしおは晃の質問にあっさりと答えた。
「掃除が好きなんですか?」
真衣が少し驚いたように聞き返す。
「ええ。掃除は良いですよ。結果が目に見える。数字にも出る。僕がやった事の成果がちゃんと残るんです。人間関係ではそうもいかないでしょう? 何が正しくて何が間違いだったのか後にならないと分からない事もある。でも掃除は違う。今この瞬間の判断が正しかったか間違っていたかが、光沢度という数字で即座に返ってくる」
よしおはモップにワックスを含ませながら、フロアの奥の角から塗り始めた。
奥から手前へ。
これは塗ったばかりのワックスの上を自分が踏まないための鉄則であり、初歩中の初歩なのだが、よしおはこの初歩をこの上なく丁寧に、まるで写経でもしているかのような集中力で実行していた。
「……すげぇ均一だな」
晃が感心ともあきれともつかない声を出す。
ワックスを塗った箇所が一切のムラなく濡れた膜を形成している。モップの折り返し地点には厚塗りになりがちな溜まりが出来る筈なのだが、よしおの手にかかればそれも見当たらない。
折り返しの処理はワックスがけにおいて最も技術が問われる箇所であり、ここをどう捌くかでプロとアマの差が歴然と出る。
「鈴木さん、それ何層塗るんですか?」
「今回は2層です。先月の定期清掃で3層引いてありますから、リコートは2層で十分でしょう」
リコートとは既存のワックス被膜の上に新しいワックスを重ね塗りすることだ。引く、とも言う。「2層引いて」は現場では「ワックスを2回塗布して」という意味であり、よしおは自然とこの業界用語を使っていた。
なお先月の定期清掃で3層のワックスを塗布したという事を、よしおは自身のノートに記録して管理している。塗布日と層数、使用したワックスの製品名と希釈率、当日の気温・湿度・仕上がりの光沢度。
全てを記録するその几帳面さは、かつて証券マンとしてノルマを週単位で管理されていた男の名残なのかもしれないし、単によしおがそういう人間であるだけなのかもしれない。
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ワックスの1層目を塗り終え、乾燥を待つ間の束の間の休憩時間。
よしおと晃と真衣は廊下の隅に腰を下ろし、自販機で買った飲み物を啜っていた。
「鈴木さん、そういえば先輩って前の仕事で何をされてたんですか?」
真衣がふと聞いた。
晃はちらとよしおを見る。
よしおの表情に変化はなかった。
「証券会社にいました」
「えっ、証券会社!? それって……結構なエリートコースじゃないですか」
「大手でしたが、エリートというほどの事はありません。証券マンの7割は入社3年以内に辞めますから。残った者が優秀かといえばそれも怪しい。環境に適応しただけの者もいます。僕は後者かもしれません」
よしおの声色は平坦だった。
証券マン時代の事を語る彼にはいつも感情の起伏がない。それは傷が癒えたからではなく、そこに触れると何が起きるか自分でも分からないから蓋をしているのだ。
「なんでまたこっちに?」
真衣の質問は純粋な好奇心によるものだった。
悪意はない。
「色々ありまして」
よしおはにこりと笑った。
そこで晃が話題を変えた。
「そういや鈴木さん、この前の3連休はどこか行ったんすか?」
「ええ、少し仕事が入りまして」
「裏の?」
晃が声をひそめると、よしおは小さく頷いた。
真衣は首をかしげている。この「裏の仕事」が何を指すのかは真衣の与り知らぬところだ。
「まあ、ちょっと疲れるやつでしたが。無事に終わりましたよ」
無事に終わった、とよしおは言う。
少女の怨霊の首を握り潰して精神世界に吸収する行為が「無事に終わる」の範疇に入るのかは甚だ疑問だが、よしおにとってはそうなのだろう。
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乾燥時間は概ね20分。
送風機のスイッチを入れてワックスの乾きを促しつつ、よしおは1層目の仕上がりを確認していた。
しゃがみ込んで斜めの角度から床面を見る。
これはワックスの塗りムラを発見するための方法だ。正面から見ると分からないムラも、光の反射角を変えてやれば一目瞭然となる。窓から差し込む街灯の光を利用すれば、ワックスが厚い箇所と薄い箇所の境界が影として浮かび上がる。
よしおは満足そうに頷いた。
ムラはない。
「鈴木さーん、乾きましたかね」
「もう少しです。表面を指で触ってみて、指紋がつかなくなったら乾燥完了です。焦って2層目を引くとパウダリングの原因になりますから」
パウダリングとはワックスが粉状に劣化する現象であり、乾燥が不十分な状態で重ね塗りをすると発生する。ワックスの層間で水分が閉じ込められ、時間の経過と共に被膜がボロボロと崩れていくのだ。
それは見えない所で静かに進行し、ある日突然表面化する。
人間関係に似ている、とよしおは思った事があるかもしれないが、そこまで感傷的な男でもない。彼はただ、パウダリングが嫌いなのだ。自分が塗ったワックスが劣化するのが嫌なのだ。
自分が築いたものが壊れるのを見たくないという点に於いて、ワックスも結婚生活も変わらないのかもしれないが、これ以上は野暮というものだろう。
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2層目の塗布を完了し、送風機を全開にして乾燥を待つ。
よしおは鞄からグロスメーターを取り出した。
「おっ、出た」
晃が苦笑する。
「先月の記録では仕上がりが光沢度68でした。今回は70を超えたい」
「超えたいって……自分に課してるノルマなんすか、それ」
「ノルマではありません。目標です」
よしおの言葉に晃は(一緒じゃん)と思ったが口には出さなかった。
ワックスが完全に乾燥したところで、よしおはグロスメーターを床に当てた。
ピッ、という電子音。
液晶画面に数字が表示される。
「……73」
よしおの唇が微かに、ほんの微かに綻んだ。
それは怨霊を前にしても見せない類の笑みであった。
「いい数字だね、灰田君」
「いや俺あんま何もしてないんすけど」
「汚水の回収が丁寧だった。すすぎも良かった。洗剤の残留がなかったからワックスの密着が良好になったんです。地味な作業ですが仕上がりに直結する大事な工程ですよ」
よしおは珍しく饒舌だった。
光沢度73は些細な数字に見えるかもしれないが、ビルの定期清掃においてリコート2層で73を叩き出すのは中々のものだ。
晃は半ば呆れつつも、よしおが機嫌が良さそうなのは悪くないと思った。この人が笑うのは珍しい。床を磨いている時と、晃のバンドの曲について話している時くらいだ。
「鈴木さん、すごいですね。なんかこう……職人って感じです」
真衣が素直に感嘆すると、よしおは首を振った。
「職人というほどの者ではないですよ。……ただ、死んでいる床を見ると放っておけない性質でして」
死んでいる、とよしおは言った。
これはビルメンの業界用語で、光沢が失われた床のことを「死んでいる」と表現するのだ。逆に光沢が残っている状態は「生きている」という。
よしおが発するとどこか別の意味に聞こえるのは気のせいだろうか。
少なくとも晃はそこに気づいて、ちょっとだけ背筋が冷たくなった。




